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第四話(前編) まだ大丈夫

 娘は、去年から一ミリも成長していなかった。

 それを最初に「大丈夫」と言ったのは、医者だった。

 

 朝、目覚ましが鳴る前に、娘は目覚めた。

 同じ歩幅で歩いて身支度をして、毎日同じ言葉でリビングに来た。


「お母さん、おはよう!」

「おはよう、メアリアン。朝ごはん、すぐ用意するね」

「うん!」


 その声のトーン、語尾の跳ね方、空気の震え。昨日録音した音声を、一秒の狂いもなく再生したかのようだった。

 娘は同じ位置に椅子を引き、同じ角度でトーストを噛む。その咀嚼音のリズムさえ、メトロノームのように正確だった。


 ――身長、変わっていなかったな。

 

 昨日測ったわけではない。だが、網膜に残る昨日の残像と、目の前の現実が、一ピクセルのズレもなく重なってしまう。それが、たまらなく恐ろしかった。


「……今日も、同じ時間に出るのか?」

「うん! いつも通りね。バスが来ちゃうし」


 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。

 いつも通り、と言う言い方が、正確すぎた。


「なぁ、最近……」


 言いかけて、やめた。

 子供は変わらない。それで良いのだ。悪いことではない。


「行ってきます!」


 学校に送り出す時、靴を履く背中を見た。


 ――身長、変わっていなかったな。


 その考えを、慌てて払った。

 成長が遅いだけだ。きっと。


 娘が出て行った直後に、近所の同級生が同じく走って行った。彼は娘より半年遅い生まれだったが、すでに通学バッグが小さいように見えた。


「なぁ」

「どうしたの?」

「メアリアンは、六歳だよな」

「そうだけど……なんで?」

「いや、ちょっと……」


 妙な問いになってしまった。

 妻は、そんな自分をどう捉えたのか、ケラケラ笑って背中を軽く叩いてきた。


「あら、ジョン。なにしんみりしてるのよ! あの子はまだまだ手がかかるんだから、しゃっきりして」

「あ、あぁ……そうだな……」

「今日は朝から会議なんでしょう? 準備しなくて大丈夫?」


 妻の言葉に驚いて時計を見ると、あと十分でオンライン会議の時間だった。

 娘の背中を最後まで見ることなく、慌てて書斎に引っ込んだ。


 今日はとことん、目が向いてしまうようだ。

 部下からの報告を聞き、代替案を出し、スケジュールを決めて契約書の草案を作るよう指示をする。

 それだけの、いつもの会議だったが、ふと部下が「そういえば」と言い出した。


「聞いてくださいよ、部長。この前うちの娘が初めてテストを持って帰ってきたんですよ!」

「へぇ、そうなのか」


 彼のところも、娘と同い年の子供がいる。だからだろうか、彼はしきりに娘の情報を共有したがった。


「春生まれだからか分からないんですけど、ぐんぐん背も伸びてきちゃって! この前妻が、これ先月買ったばっかりなのにって怒ってましたよ」

「……そうか」


 向こうは、学校もオンライン授業の日だったようで、彼の後ろを例の娘が歩いていた。

 確かに、入学前に見た時より背が伸びているように見える。


「ママー、昨日ここに置いた教科書知らない?」

「知らないわよ。机じゃないの?」


 そんな会話が小さく聞こえてくる。

 なんだかその会話がトゲのように感じてしまって、慌てて「悪い、通信が不安定みたいだ。切るぞ」と部下の返事も聞かずに通話を切った。

 画面が暗転する。

 暗くなった画面に、奇妙な顔をした男が映った。


「大丈夫だ、大丈夫……」


 それしか言葉が出てこなかった。

 

 在宅仕事を終えた頃、娘は時間通りに帰ってきた。


「ただいま! お父さん、カップケーキ食べよ!」


 昨日も食べたよ。

 それを指摘する勇気は、なかった。

 妻のママ友達も来ていて、リビングが更に明るくなる。


「カップケーキなら冷蔵庫にあるわ」

「メアリアン、明日一緒にみんなで映画に行かない? うちの娘が誘いたがってたのよ」

「うん!」


 娘の返事はいつも同じだ。

 元気よく、短く。その返事の長さまで、昨日と同じだった。


「あ、そうだ! お父さん、これ。先生からお父さんたちに渡してって言われたの」


 そう言って通学バッグから娘が出してきたのは、連絡表だった。先生から日常の様子を知れる良い機会だと、母親たちには好評らしい。

 何気なくそれをめくってみると、可愛らしい丸い文字で、娘の担任からのメッセージが書かれていた。

 テストの成績は一定以上の点数が取れている。授業中も積極的に手を上げている。友人同士の橋渡しも上手い。

 褒めの言葉が続いた後に、担任から「先日の健康診断の結果」として、紙が挟まっていた。

 開くと娘の身長と体重が載っていて、小数点以下まで去年とまったく同じだった。測定日だけが違っていた。


「どうしたの?」

「……健康診断の、結果が入っていた」


 妻とそのママ友達の前に紙を出すと、彼女たちはワッと話し出した。左右交互に言われた言葉を統合すると、「最近は個人差が大きい」だ。


「今は平均が分からない時代だし」

「それにこの地域、やっぱり教育が行き届いてるよね。みんなテストの点数が良いって、他の学校の先生に褒められるのよ」


 このママ友達は学習塾で働いていて、こういう情報をいち早く教えてくれる。

 彼女の言葉に、胸のつかえが取れていくようだった。


 大丈夫。

 問題ない。

 言葉を重ねるたびに、緊張がほぐれていく。


 夜、寝る前に、娘は布団に入りながらポツリと言った。


「ねぇ、お父さん。わたし、大丈夫だよね?」

「……どうして?」

「先生が言ってたから。大丈夫だよって」


 何が、とは言わなかった。

 聞いてはいけない気がして、頷くだけに留めた。


「大丈夫だ」


 そう言うと、娘は安心したように目を閉じた。

 数分して聞こえてくる呼吸が、一定のリズムになる。


 彼女を美容院に連れて行ったのは、もうどれだけ前だろう。

 ――最後に、思い出を語り合ったのはいつだっただろう。


 成長をしていない、という言葉が頭をよぎった。

 だが、それを否定する理由を、必死に探した。


 明日、病院に行こう。

 それで終わる話だ。


 そう思いながら、自分も布団に潜った。


 闇の中で、子供の呼吸は相変わらず正確だった。


 *


 小児科に連れて行くと、医者は不思議そうな顔をした後「経過観察で問題ありません」と言った。眼鏡を外して、目頭を揉みながら、初老の医者は続ける。


「現時点で、医学的には異常は見られません」

「で、ですが、背が伸びていなくて……」

「メアリアンはまだ六歳でしょう? まだ成長期じゃないだけですよ」


 安心してください、お父さん。

 そうにこやかに言われてしまっては、引き下がるしかなかった。

 待合室で大人しく絵本を読んでいる娘を見ながら、男は深く頭を抱えながら息を吐いた。

 これで良かったのだ。大丈夫。


 会計カウンターで名前を呼ばれて、顔を上げる。カウンター下には「安心して!」という明るいポップなポスターが貼ってあった。


「IDを」

「……」


 自分のカードをかざすと、スタッフが端末を見て、ちらりとこちらを見た。

 不備でもあったのか、と不安になるが、スタッフはにこやかに「ありがとうございます。領収書はこちらです」と言った。

 良かった。何もなかった。

 これで安心だ。


「お父さん?」

「え? あ、あぁ、なんでもないよ、メアリアン。行こう」


 手を引いて、病院の外に出る。呼吸をするが、なにも満たされなかった。


 子供のためだった。

 入学直後の説明会で渡された書類の中にあったから、あれが正解だったのだ。


『初等教育過程における児童保護および将来適応性確保に関する包括同意書』


 子どもたちが、安心して学校生活を送れるようにするための書類だと説明された。

 個人差を考慮し、無理な競争や過度な不安を避けるためのものだと。


 説明を受けたのは妻だった。

 家でそれを目にして、署名したのは自分だ。


 学校で躓いてほしくなかった。

 それ以上の理由は、当時は考えなかった。

 

 

 

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