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第三話 契約を読む男

 用件が一通り済んだ後、車に戻る。

 端末の画面を閉じたはずなのに、引っかかるものだけが残っていた。

 外はもう暗くなり始めていた。


「行くぞ」

「タバコが吸いたいですね……」

「我慢しろ。この辺じゃ売ってないんだ」


 そう言って車が進んだ先は、リーベスの記憶にある道順ではなかった。確かルドルフは、昔はもっとダウンタウンに近いところに住んでいたはずだが、今は郊外に向かっているようだった。

 だんだん道路が荒れてきて、ガタガタと車が揺れ始めた。


「あれ? 引っ越したんですか?」

「さすがに、あの後警察に踏み込まれるって聞かされてな。すぐに引き払ったんだ」


 あの日、迷惑をかけないよう処理したはずだったが、どうやら前回は向こうのほうが上手だったらしい。

 つまらなさそうに「ふーん」と呟いたリーベスは、四年前の出来事をうっすら思い出したものの、誰がいたかまったく覚えていなかった。


「あの人たち、仕事はする警察だったんですね」

「……そう思ってるのはお前ぐらいだよ」


 そうだろうか。

 信号待ちの間トントンとハンドルを指で叩いているルドルフの横顔を見て、リーベスは少しだけ認識を改めた。


 ルドルフの端末が、ダッシュボードの上で微かに震えた。

 画面は見えなかったが、リーベスはそれが「通知」ではないと直感した。



 ルドルフが寝泊まりしているマンションは、ほぼ廃墟であった。取り壊し工事に入った途中で放棄されている。

 内部の壁には「居住停止」と大きく書かれた契約書がベタベタと貼られていて、その真横に真新しいポスターまで貼られていた。太いゴシック体で「まだ戻れる!」なんて書かれたポスターには落書きも無く、定期的に貼り直されているようだった。


「……もう少し、住居くらいは頓着したら良いのでは?」

「いいんだよ、別に。屋根と壁があれば」

「あなた、よくここまで生きてこれましたね」


 壊れたエレベーターを横目に、ボロボロに崩れそうな階段を上っていく。九階まで上りきって廊下に入ると、そこは意外と綺麗なままで、玄関ドアもまだあった。彼の部屋だというドアを開けると、そこも比較的綺麗な姿を保っていた。


「な? 言ったろ?」


 得意満面でこちらに振り返るルドルフに、リーベスもここは素直に「本当ですね」と述べるだけに留めた。

 部屋を一通り見て回ると、床は禿げ上がっていて、壁にはまた「救済手続き受付中」だとか「正しい再契約があります」だと書かれた古いポスターが貼ってあった。その他にも、前の居住者が置き去りにした契約書の束が、床に散らばっていた。

 ルドルフの寝室だという部屋だけは綺麗に整えられており、寝具も真新しいようだった。


「キッチンはあるが、火がつかない。自分でどうにかしろ。水だけは来てるから」

「分かりました」

 

 ひとまず、と言って、ルドルフがコルクが飛び出た汚いソファにクッションを放り投げて「ここがお前のベッドな」と言った。嫌だと言える立場ではないので、にこやかに「では、私はルドのベッドを使いますね」と返事をした。

 飛んできた拳を反射的に身を引いて避けた、その瞬間だった。

 ルドルフの端末が鳴った。

 知らない着信音だった。

 ルドルフもそれは同様だったようで、驚いてポケットを探っている。


「なんだ、これ……」


 彼の端末が、金色の滲んだ文字に包まれていた。

 文字は読めない。だが、意味だけが先に流れ込んでくる。

 端末画面に現れた文字を読む前に、部屋中が眩い光に包まれる。


「うわっ」

「くっ……! なんだ、これ……!」


 反射で目を閉じてしまった。

 数秒ののちに、周囲の音が一切消えた。

 恐る恐る目を開くと、そこは真っ白な部屋のようだった。

 金色の滲んだような文字が大量に壁や床らしき場所を這い、部屋の中央に羊皮紙が浮かんでいた。


「ここは……?」

「部屋、ですかね」

「それは見りゃ分かる……って、おい! 勝手に触んな!」


 ルドルフの静止を無視して、リーベスは部屋中央に向かい羊皮紙を手に取った。

 羊皮紙はゴワゴワした質感で、金色の達筆な文字で契約文が書かれていた。羊皮紙の横にはガラスペンが浮いていて、刑務所で見たペンとは違い、持ち主を選ぶような冷たさがあった。

 手が勝手にペンへ伸びる。

 ペン軸に指が触れそうになったところで、ルドルフがリーベスの手首を掴んだ。


「馬鹿! 内容確認もせずに契約書(そいつ)に触んじゃねぇ!」

「え、僕いまそんなことしました?」

「してんだろうが! 自分の手をよく見ろ!」


 ルドルフの指摘で、ようやくリーベスは自分が契約書を握っていることに気づいた。ルドルフによって無理矢理両手を離され、距離を取るよう言われるまま一歩後ろに下がった。


「読めそうですか?」

「あぁ」


 リーベスと違い、ルドルフはポケットに両手を突っ込んだまま羊皮紙を見つめて、何やらブツブツと呟いた。


「どうでしょう?」

「……読み上げるぞ」

「はい」


 スゥ、と息を吸うルドルフに、一瞬の緊張が走った。その場が動かないように、リーベスは足に力を入れた。


「これは、契約内容通知だ。これからの仕事について、長々と書いてある」

「はい」

「要するに、だ」


 ルドルフは一度言葉を切った。

 彼のこめかみから、一筋汗が垂れた。


空白(ブランク)……いや、正式には契約処理保留対象、とある」

「……」


 ルドルフがまた口を閉じた。だが、リーベスの視線に後押しをされて、彼はゆっくりと口を開いた。


「そいつらが生まれる“原因”を一つ決めろ、って契約だ」

「原因……ですか?」

「そうだ。誰か一人。もしくは一つの出来事が何なのか、はっきりさせろと、こいつは言っている」


ルドルフの声が低くなる。


「それが事実かどうかは、問われない」


 顔を歪めて告げるルドルフに、リーベスは静かに「そうですか」と答えた。

 つまり、真実ではなく、納得できる理由が求められている。ルドルフの脳裏を、説明のつかない感覚がよぎった。これは「救うための条件」を並べた文書ではない。だが、何のための契約なのかも、まだ言葉にできなかった。


「それにしても、なぜ空白(ブランク)の原因を特定する必要があるのでしょう? 犯罪を犯した、というだけではないのですか?」

「そんな単純な話じゃねぇよ、空白(ブランク)ってやつは」


 羊皮紙からようやく離れたルドルフは身体の力が抜けたようで、ひとつだけ大きく深呼吸をした。

 何かを言いかけて、言葉を変えてまた口を開いた。


「……こいつはな。分からねぇものを、分かる形にしたいだけなんだよ」

「分かる形に?」

「そうだ。空白(ブランク)が生まれる原因を確定させれば、奴らには奴らが生まれるだけの理由ができる。理由ができれば、契約に則って処理ができる」

「なるほど」


 緊張に包まれたルドルフとは違い、リーベスはあっさりと頷いた。

 一歩踏み出そうとしたのを見て、ルドルフは慌てたように言葉を繋げた。


「今回の対象は子供たちだ」

「……」

「期限は七日。この間に原因を特定しないと、子供達は処理されてしまうんだ」


 ルドルフは、羊皮紙の端に滲む小さな追記から視線を逸らした。

 識別番号。州名。年齢区分。個人名は伏せられている。


 ――もう、割り振られている。


 それを口にする代わりに、ルドルフは奥歯を噛みしめた。

 リーベスは、その番号の並びに、なぜか既視感を覚えた。

 だが、それが何だったのかを思い出す前に、リーベスはルドルフの言葉を噛み砕いて考えてみた。


「誰かを選ばないと、子供たちが被害を被る、と?」

「言うな」

「……」


 ルドルフの拳が震えていた。


「選ぶって……"選ぶ"だなんて言葉で、済ませるな」

「……」


 ではどうすれば、と聞こうとして、リーベスのそばに羊皮紙とペンが飛んできた。ジッと羊皮紙を見ると、長々とした文章の下に「履行者の地位」という行が見えた。


「あと一つだけ」


ルドルフは、ほとんど吐き出すように言った。


「この契約、履行者の生死は保証しない」


 沈黙が落ちた。


 部屋の中には、契約書の金色の文字がまだ滲んでいる。

 だが、音は一切なかった。


 ルドルフは何も言わず、視線を床に落としたまま動かない。羊皮紙も、もう見ていない。

 リーベスは一度だけ瞬きをして、それから、何事もなかったかのように息を吐いた。


「……だったら、簡単ですね」


 リーベスはそう言って、あっさり肩をすくめた。


「原因を一つ決めればいいんでしょう? なら、空白になりかけている僕が原因でいい」


 一番簡単な方法である。何を迷う必要があるのか。

 ルドルフが顔を上げる。不安げな色が、彼の瞳を覆っていた。


「だって、そうでしょう? 元犯罪者で、契約不履行。処理が保留されて、名前すら怪しい存在」


 リーベスは淡々と続けた。


「世界が嫌うには、十分です」


 その瞬間、ルドルフがリーベスの胸ぐらを掴んだ。

 リーベスは困った顔を作って、ゆっくりとルドルフを見下ろした。


「良い案だと思いますけど」

「駄目だ」


 即答だった。


「それだけは、駄目だ」

「理由は?」

「理由も分からずに止めてると思うか?」


 ルドルフは歯を食いしばる。リーベスの首も少し締まった。


「原因にされたら、"世界が失敗した理由"にされる」

「それは――」

「お前が悪かった、で全部終わるんだ。世の中で何かある度に、お前の所為にされる」

「なら、ますます僕が適任ではないですか?」

「勘違いするな」


 ルドルフの声は低いままだった。


「原因にされた人間の人生を、甘く見るんじゃねぇ」

「……」

「全部押し付けられるんだぞ。全部だ」


 戦争が始まった原因も、大地震が起きた原因も、全てだ。そう続けたルドルフの声が、少し震えていた。

 目の前に漂う羊皮紙は、リーベスを捕らえて離さなかった。

 リーベスはルドルフの手を優しく離して、止められる前にペンを取った。


「あっ! お前……!」

「この契約の指す原因がもし形を成していたなら、どのみち僕が適任です」

「だから、話を……!」

「ルドルフ。僕の職業は泥棒ですよ。名前も、理由も、世界が決めたものなら――盗めます」


 金色の文字がペン先から滲み出て、手が勝手に動いてリーベスの名前を承認欄に描いた。


「もし仮に、この原因とやらに形があったなら、僕が盗み出してみせます」

「……それで?」


 名前を書ききると、ペンが泡となって消え、羊皮紙は途端に見慣れた携帯端末に変わってリーベスの手の中に収まった。


「それで? それだけですよ。そこから先は、神のみぞ知る、です」


 そう言って、笑って振り返ったリーベスを見て、ルドルフは呆気に取られた後、静かに「どうなっても知らねぇぞ」とだけ言った。

  その言葉が、忠告ではなく祈りに近いものだと、リーベスは気づかないふりをした。


 *


  夜のダウンタウンは、騒がしい。

 ネオンの光が路面に滲み、人の声と排気ガスが混ざり合っている。


 ルドルフと別れて街に繰り出したリーベスは人の流れに逆らわず、歩いていた。

 端末を確認する必要はない。契約内容は読まされていないが、覚えさせられている。


 ――七日。


 その数字だけが、やけに輪郭を持っていた。

 前方で、電子音が短く鳴った。

 認証ゲートだ。通行人が一人、建物から出てきたようだ。


 リーベスは歩調を変えない。

 肩が軽くぶつかった。

 反射的に、指が動く。


 数歩進んでから、立ち止まって自分の掌を見る。

 薄い丸型のIDカードが、指の間に挟まっていた。


「……」


 いつもの動作で端末にかざす。

 一拍遅れて、滲んだ緑色の文字が浮かんだ。


 ――認証、完了。


 通った。

 だが、同時に背中に視線を感じる。

 振り返っても、誰もいない。

 治安維持局員の姿も、警告表示もない。


 それでも、確かに“記録された”感覚があった。


「……なるほど」


 小さく息を吐く。

 盗めた、という感触よりも先に、借りたという感覚が残った。


 名前。

 年齢。

 居住地。


 それらは、本人のものではない。

 制度が一時的に預けている情報だ。


 だから、奪える。

 同時に、いつでも引き剥がされる。

 リーベスはカードをポケットに入れた。

 その瞬間、通りの向こうで子供の笑い声が上がる。


 家族連れだ。

 手を引かれた子供が、振り返ってこちらを見る。

 一瞬、目が合った気がした。


 ――原因。


 その単語が、唐突に浮かぶ。

 世界は理由を欲しがっている。

 説明できないものを、説明した形にしたがっている。


 そのために、人を選ぶ。


 「……盗みがいがある」


 独り言は、雑踏に紛れて消えた。


 背後で、また短い電子音が鳴る。

 誰かの認証が弾かれた音だ。


 リーベスは振り返らない。

 歩きながら、ふと思った。


 このIDも、

 この名前も、

 ――自分自身も。


 まだ、猶予の中にいるだけなのだと。

 猶予、という言葉は便利だ。

 救われているようにも聞こえるし、選ばれていないだけ、とも解釈できる。


 だが実際には、“まだ処理する必要がない”というだけの話だ。


 リーベスは歩きながら、自分の胸元に手を当てた。心臓は規則正しく動いている。呼吸も、視界も、思考も、問題ない。

 それでも、確信だけはあった。


 ――これが、最後になる瞬間は決まっていない。


 契約書には書いていない。通知も来ない。カウントダウンが表示されることもない。

 ただ、ある日突然、「通らなくなる」。


 名前が。

 火が。

 水が。

 言葉が。


 順番は選べない。どこまで失ってから“確定”になるのかも、分からない。

 だからこそ、世界は優しい顔をしている。


 今はまだ大丈夫だと。問題ないと。経過観察で済むと。


 それを信じる人間ほど、最後まで理由を与えられない。


 リーベスは、ポケットの中のIDカードを指でなぞった。


 これは盗んだものだ。だが、同時に借り物でもある。


 期限が来れば、返却を求められる。


 拒否権はない。交渉権もない。


 「……なるほど」


 小さく息を吐いた。


 世界は、最初から公平なのだ。

 誰にでも同じ条件を与えている。


 ――説明できなくなった瞬間に、説明の対象から外す。


 それだけだ。

 だから、自分はまだ使える。


 理由になれる。

 原因になれる。

 説明の箱に、収まれる。


 それなら、悪くない。


 少なくとも、

 何も分からないまま消えるよりは。


 *


 その夜、少女は眠れなかった。


 今日も、あの大人は「大丈夫だ」と言ってくれた。

 理由は分からないが、その言葉だけは信じていた。


 天井を見つめながら、少女は目を閉じた。


 少女はまだ、自分の中に文字が詰まっている限り、大丈夫なのだと信じていた。

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