第二話 空白の生活
車内は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
ルドルフが黙る時は、大抵ろくなことを考えていない。
「……おい、リーベス」
赤信号でようやく止まった時、ルドルフが指でリーベスを呼んだ。
「……貸せ」
「何をです?」
「端末だ」
言われるまま渡すと、彼は画面を睨みつける。数秒後、舌打ちが落ちた。
「更新されてねぇ」
「妙ですね。前は違ったんですけど……端末の故障ですかね」
「そんな悠長な話じゃない」
ルドルフが投げてよこした端末画面には、短い文言。
《契約者の状態確認中》
《処理を保留します》
「支払いも、手続きも済んでる」
「はい」
「なのに保留だ。……はぁ、やってらんねぇな」
ルドルフはそう言って、アクセルを踏んだ。
「買い物、先に済ませるぞ」
「家は?」
「後だ。今のお前じゃ、何も通らねぇよ」
*
表通りの高級店では門前払いをされてしまったので、仕方なく現金払いが可能な安価な店に入った。適当に服と下着を購入し、財布にかろうじて残っていた現金で支払う。
レジで、リーベスが差し出した現金は、まるで汚物のように扱われた。
店員は一度もリーベスと目を合わせない。レジを打つ指先が微かに震えている。
「……あの、お釣りは?」
「……あ、ああ、……すみません」
店員は、リーベスの顔ではなく、その背後の空間を見て謝罪した。店員の瞳が、わずかに焦点を外した。
店を出ると、ルドルフが吐き捨てるように言った。
「言っただろ。今のまともな店じゃ、お前は『客』としてカウントされねぇんだよ」
「囚人たちの方が幾分か親切でしたね……」
「なんだ? もうホームシックか?」
「馬鹿なことを言わないでください」
袋を車に放り込み、ルドルフがまた「ん」と手を差し出してきた。携帯端末を渡すと、ルドルフの眉間にまた皺が寄った。
「まだみたいですね」
「あぁ。……やっぱり、おかしいぜ、今回」
ルドルフは低く唸りながらハンドルを切った。
「さて、次は家ですか」
「違う。次は不動産じゃない」
「では、"彼女"のところですね」
「そうだ」
ダウンタウンの端まで車を飛ばし、近くのコインパーキングの奥に停めてから、路地裏に入る。湿った空気と、古いレンガ。非常に歩きづらいこの場所に、"彼女"はひっそりといる。
肩書きは「情報照会屋」だそうだが、リーベスはその裏の顔をよく知っていた。
「そういえば、彼女は元々あなたの紹介でしたっけ。彼女は、何者なんですか?」
「元、州立情報管理官だ」
就職も離職も難しいと聞いていた職種が飛び出して、リーベスは驚いて横を見た。
「それは、信用できますか」
「信用できないから、今も生きてる」
*
古ぼけたビルの裏に勝手に増築されたドアを開けると、机に向かっていた女が顔を上げた。
「……リーベス?」
顔を上げた彼女の丸い眼鏡の奥で、計算の火花が散った。
だが、その計算はすぐにエラーを起こして停止する。
「あんた、もう出てきたの⁈ データ上では、あんたはまだ塀の中で『処理中』のはずよ」
「適切に処理されて、出てきましたよ。ご覧の通り、ピンピンしています」
「そうなの? ……それにしても、あんたの輪郭が、さっきからずっとボヤけてるわ……気持ち悪いわね」
二人がソファに座るのも止められず、カメリアはズレてしまった丸い眼鏡を直しながら、ドタバタとコーヒーマシーンに水を注ぎ始めた。天井から下りた白熱電球が、リーベスたちだけを照らしていた。
「いつ出てきたの? っていうか、出てこれたんだね」
「どんな想像をしていたのか知りませんが、僕は別に大罪を犯したわけじゃありませんよ。ただの軽犯罪です」
自分のした仕事の中では一番楽な部類ですらあった。カメリアは、落ち着かない様子でコーヒーを用意している。
「確か、あんたは砂糖が三つよね」
「よく覚えていましたね」
「そういう記録だったもの」
カメリアの昔から変わらない返事に、リーベスは懐かしさで舌打ちをしそうになった。
一口啜ると、喉が焼けるように甘い。だが、その甘ささえも、どこか借り物の感覚だった。
甘い、とは。そう判断しているのは舌か、それとも「三つの砂糖」という記録か。
「それにしたって、もう三年? 五年?」
「四年です」
「四年は十分に大罪人だわ。普段は長くても半年くらいで出てくるくせに」
「今回は事情が違います」
リーベスの固い声に、カメリアの視線がリーベスからルドルフに移った。それを受けてか知らずか、ルドルフが苛立ちげに足を組んだ。
「こいつのIDデータが更新されない」
「え? ……見せて」
途端に、彼女の表情が消えた。
IDカードを渡すと、カメリアは机に戻って端末のキーボードを叩き出した。ピーヒョロガチャガチャと、彼女の机周りだけ喧しい。
リーベスのカップが空になる頃にカメリアはようやく顔を上げた。
「おかしいわ」
「だから来たんだろ」
「いいえ、違うのよ。リーベス。あなた、本当に出所したの?」
「え?」
彼女の言葉に、ルドルフだけが固まった。一拍置いて突き刺さる視線に、リーベスは「えーっと」とあえて前置きをして、胸元から例の封筒をチラリと見せてすぐしまった。カメリアに最後まで見せるようなものではない。
「刑期はともかく、おそらくこの契約のせいですね」
「まさか、あんた……契約、重なってる?」
「おそらくは」
のんびりと返事をするリーベスとは反対に、カメリアの方が慌てふためいていた。赤くなったり青くなったりと百面相をする彼女を、リーベスは「おもしろいなぁ」と他人事のように見る。
横のルドルフはこの面白さが分からないようで、呆れたように肩をすくめていた。
「……それで? わたしにいったい何をさせに来たの?」
ようやく本題に入れる、とカメリアの問いにリーベスは姿勢を正した。余裕たっぷりに足を組んで、膝に軽く両手を乗せた。
「僕の別IDを作ってください。報酬はキチンとお支払いします」
今度は二人分の時間が止まった。
彼女にとってはこちらが本業だろうに、と思うのは、どうやらリーベスだけだったらしい。
「別IDって……リーベス、あんた何言ってるか分かってる?」
「えぇ、分かってますよ」
「いいえ、あんたは何も分かっていないわ」
そう言うや否やカメリアは部屋の奥に引っ込んだ。数分ののち戻ってきた彼女の手には、リーベスたちの持つカードよりは小さい丸型の板があった。
「これは?」
「別の顧客に言われて作ったIDカードの複製よ」
そう言って、カメリアは端末にそのカードをかざした。端末上部に滲んだ文字が浮かんだが、オレンジ色だった。
彼女に手招きされるままにモニターを覗き込むと、そこには誰かの個人情報が羅列されていた。よく見る画面だ。
リーベスが覗き込んだところで、モニターに赤文字で「存在確認中」と一瞬出てすぐ消えてしまった。
「おい、今の……」
ルドルフの声が漏れたところで、カメリアは淡々と「そう言うことよ」と言った。
「え? なんですか?」
「リーベス、お前、今の見たか?」
「いえ、特には」
ルドルフは、今見たものを口にするのを躊躇った。
カメリアがカードをかざした瞬間、モニターに表示されたリーベスの顔写真。それが、一瞬だけ顔の位置に白いノイズが走った。
リーベスはルドルフを見たが、しかし彼は難しい顔をしたまま「ならいい」と言ったあと、黙ってしまった。
画面上は綺麗で、端末も反応していた。
二人の間だけに通じた意図は、リーベスにはさっぱりだった。
「特に問題は無さそうですね。僕の分も作成をお願いします」
「本当にいいの?」
「え? はい」
「……分かった。すぐ作るわ。ちょっと待ってて」
いったい何だと言うのだろう。
二人の顔を見ても、何も返事がない。仕方なくリーベスはソファに戻って待つことにした。
カメリアが小声でルドルフに囁く。
「……ねぇ、あいつ。本当に、まだ契約の中にいると思う?」
ルドルフは答えず、ソファで無表情に端末をいじるリーベスの背中を、呪物を見るような目で見つめ返した。
*
三十分と言いつつ、カメリアはものの十分で作業を終わらせた。
やはり彼女は優秀だった。
黒色のIDカードを持って奥から出てきたカメリアは、奥歯に何か挟まったような顔したままだったが、携帯端末をいじって時間を潰していた二人の前に立つ。
「はい、これ」
「ありがとうございます。意外と早かったですね」
「……残ってたのを使っただけよ。長くは保たないわ」
「十分です。ありがとうございます。あなたの口座に金は送っておきますね」
新たなIDは、リーベスのIDよりも軽い素材で出来ていた。この中にあるのは、空っぽのハリボテで構成された情報だ。致し方ない。
「では、これを使って不動産契約も行ってください」
「そう言うと思ったから、もうやっておいたわ。ただ、引き渡しは来月よ」
「来月ぅ?!」
驚きの声を上げたのは、やはりルドルフの方で、リーベスとしては想定内である。
「そりゃそうよ。こんな身分不明の人間が入れる家なんて限られてるんだから」
「そうは言うが、その為の別IDだろ?」
「今ちょうど建設中なの。施工完了と同時に入居できるようにしたんだから、感謝してよね」
カメリアの話を聞き流しながら、リーベスは新たに作られたIDを自分の端末にかざした。オレンジ色の文字が浮かんで、少し画面が固まった後に見慣れた画面に切り替わった。
「接続できました。うん、これで一安心ですね」
出てきた基本情報の住所欄には、隣の州の、中央街の一等地だった。それを横から覗き込んできたルドルフが、分かりやすく「げぇ……」と漏らした。
「おい、カメリア。お前どんな奴のIDを拝借したんだよ……」
「そりゃ、リーベスのファミリーネームに引けを取らない人のやつよ。名義だけが残っててね。有り難く拝借したわ」
「なるほど、助かりました。ありがとう。ルドルフ、行きましょう」
とりあえず、第一歩。
その時は、上々に思えた。
クルクルと指先で遊ばせて、リーベスはスルッと指先からカードを消してみせた。渾身のマジックだったのだが、見慣れていた二人から賞賛はなかったのは残念だった。
カメリアは律儀にドアまで見送りに来ると、口をモニョモニョ動かして「ねぇ、本当に大丈夫?」と言ってきた。
「えぇ。むしろ、何か問題でも?」
「いやまぁ、そうじゃないんだけど……」
彼女の一番の売れ筋商品がこれだと思っていたリーベスは率直にそう伝えると、カメリアは「まぁ、そう言われたらそうなんだけどね」とやっぱり唸った。
「何か不具合が起きたらまた来てちょうだい。すぐに見てあげるわ」
「はい。お願いします」
「ルドルフ。あんた、ちゃんと見ててあげなさいよ」
突然話を振られたルドルフは、「へーへー」と適当な返事をした。
大通りまで出ると、小さな子供がこちらをジッと見ていることに気づいた。手を振ってみると、子供は困ったような顔をした後、手を振り返してくる。
「さて、ルド。これから一ヶ月、お世話になりますね」
ニコッと人好きのする笑顔を後方にいたルドルフへ向けると、ルドルフは本当に嫌そうな顔をして「仕方なくだからな」と言った。
その苛立ちを紛らわすように、ルドルフは胸ポケットから車のキーをを取り出そうとして——その手が、空を切った。
「……あ? 無ぇな」
さっきまで確かにそこにあったはずの感触がない。ルドルフが自分の胸元やズボンのポケットをバタバタと叩き、眉間に深い皺を寄せる。
「店に忘れてきたか? ったく、めんどくせぇな……」
「これですか?」
リーベスが、ひらひらと右手を振った。
指の間には、ルドルフが探し求めていたキーが挟まっている。
「……てめぇ! いつ盗りやがった!」
「店を出る時、少し足元がふらついていましたよ。支えてあげようと思ったのですが、つい癖で」
実際には、ルドルフは一度もふらついてなどいない。
彼がカメリアに別れの挨拶を投げ、背を向けたコンマ数秒——その死角を突いて、リーベスの指先は空気を撫でるようにキーを抜き取っていた。その指先は、驚くほど冷えていた。
「癖で盗むんじゃねぇよ! 返せ!」
「……無意識でした」
リーベスは、飛んできたルドルフの拳を避けつつ、キーを鮮やかに彼の胸ポケットへ差し込んであげた。ルドルフは呆気に取られたあと、特大の舌打ちをした。
「……お前のその指、いつかへし折ってやるからな」
「そうしてください。そうすれば、何かしらの実感が湧くかもしれません」
リーベスは、自分の指先をじっと見つめた。
ルドルフから熱い金属を盗んだというのに、指先には何の温度も残っていない。
一歩進む。
足音は、誰にも記録されなかった。




