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第九話 順調

 朝が来た。

 リーベスは汚いソファの上でぼんやりと目を開いた。寝た感覚はなかった。のっそりとソファから起き上がって寝室の方を見たがルドルフの姿は無く、リーベスはもう一度ソファに寝転がった。

 携帯端末の時計は、まだ早朝であることを示していた。


「……」


 最後にしっかり寝たのはいつだったか、思い出せなかった。目の奥に無駄な力が入ってしまって、リーベスはぎゅうと目を閉じた。まったく改善はしなかった。


「リーベス」


 そっと囁かれた声に目を開くと、ルドルフと目が合った。ジッとこちらを見つめる目から逃げるように、リーベスはヘラと笑って起き上がる。


「おはようございます、ルド」

「役所にもう一度行ってきた。このサインの男、実在したぞ」


 そう言って、ルドルフが放ってきた写真を見ると、そこには小太りの、いかにも公務員然とした男が写っていた。そばには小さな子供たちもおり、皆良い笑顔だ。写真を裏返すと、そこには「Dr.マックス・ムスターマン」とある。


「ドクター……彼、研究員なんですか?」

「元々はそうだ。契約構造の研究をしていた」


 それが、今や役所勤め。だが、彼が役所内でやっているのは、研究だ。

 この家で唯一稼働するガスコンロのスイッチが押されたが聞こえる。それをいち早く聞きつけて、リーベスは点火された横からタバコに火をつけた。


「あ! 危ねえって!」

「ライターが点かないんですもん。良いじゃないですか」

「良くない。燃えたらどうすんだ」


 タバコに火がついたところで、ルドルフから蹴りが飛んできた。するりと避けて、ベランダに移動しながら一口吸い込んだ。


「……」


 味はしない。

 煙を吸った。それだけだった。


「諦めて禁煙すりゃいいのに」

「もう癖なんですよねぇ……」


 諦める、なんて出来るはずもなかった。

 ルドルフからマグカップが差し出された。コーヒーの良い匂いがする。

 一口飲んで、タバコも吸って。行動だけは、日常に戻ってきているのを感じた。

 その時、携帯端末が震えたのを太ももに感じた。端末を見ると、一つメッセージが届いていた。文字を追って、リーベスは肩の力を抜いた。


「先ほどの男……」

「なんだ?」

「先ほどの男のパソコンが見たいですね」


 昨日アクセスした時に、彼のアカウントはヒットしなかった。こうして隠すのに慣れている人間は、非常に厄介だ。

 タバコを口の端に咥えて、リーベスは考えを巡らせる。チラと横を見て、リーベスは口角を上げた。


「ルド。彼の持つアクセスキーが欲しいです」

「なら、あいつの懐だな。職員は休日でも携行が義務付けられている」

「では、ルドルフ。僕の言う通りに動いてください」

「あ?」

「ふふ。あなたの"目"を活用させてもらいますよ」



 視線を感じる。

 じっと、背中を見つめられているかのようだった。

 振り返っても誰もいない。

 マックスが残業を終えて、真っ暗な道を歩いていると、その視線は背中に刺さった。

 まさか、自分が?

 あり得ない。

 こんな、ほぼ球体の腹をした男を。

 嫌な汗が背中を濡らす。

 こちらが立ち止まれば、向こうも立ち止まるようだった。

走ると、向こうも走る。腹の贅肉が邪魔をしてスピードは出ないものの、足を動かし続けた。

 マックスの足が止まり、荒い呼吸を整えている後方の電柱に、男は隠れていた。

 

「……歩幅が一定になったな」


 フードを目深に被った(ルドルフ)が、電柱の影からターゲットの様子を見つめている。マックスが歩くたび、ルドルフも進んだ。


「だ、誰だ!」


 角を曲がる直前に、マックスは思い切って声を張り上げながら振り返った。

 と、振り返った先には、(ルドルフ)がいた。あえて、慌てたようにUターンをしてマックスの視線を振り切ってみる。角に身を潜めながらマックスを見つめた。


「なんなんだ、ほんとに……」


 何やらブツブツと唸るマックスは、膝を震わせながら道を進んで行った。

 リーベスの指示はここまで。

 耳に嵌めた小型通信機に指を添わせ、「終わったぞ」と伝える。


「おつかれさまでした」

「あれでいいのか?」

「えぇ。明日を待ちましょう」


 プツッと、通信は切れた。

 それを合図に、ルドルフは今度こそ立ち去った。

 

 その日の夜、マックスは眠れなかった。妻が「明日、治安維持局に行って被害届出すんでしょう? なら大丈夫よ」と言うから、マックスは「そ、そうだな」と言いながら無理矢理目を閉じた。

 大丈夫。

 その言葉を呟くだけで、夢の中へと向かえた。


 

 仕事の合間に治安維持局詰所に行くと、若い局員は非常に緩慢な動きで「付き纏いですか……」と言った。

 こちらの頭からつま先まで見て、そして溜め息。

 信じてもらえないのも仕方ないとは思うが、手のひらにかいた汗を握り込んだ。


「それで、どうしたいですか?」

「え?」

「パトロール強化か、事件化か。事件化にするなら、詰所(ここ)じゃなくて本部に行ってもらう必要がありますが」


 こちらのIDを端末で読み込んで、職業欄をトントン叩きながら局員は言った。

 躊躇ってしまった。

 このまま仕事に穴を開けるわけにもいかないが、身の安全は保障されたい。


「ちなみに、誰かに恨みを持たれるような心当たりは?」

「いえ、何も……自分は真面目だけが取り柄なので……」


 何ひとつ悪いことはしていないと断言できる。

 取り急ぎパトロール強化を希望すると、アナログな手続きが必要だと言い出して、紙とペンを渡された。

 必要事項を書いている合間に、詰所に男が入ってきた。


「すみません」


 その声に、心臓が飛び跳ねた。

 まさか、と思って振り返ったものの、そこにいたのは背の高い男で、くすんだ茶色の髪をしていた。昨晩見た犯人は、こんなに長身ではなかったと思う。後ろの方には猫を抱えた男もいて、彼は詰所には入らずに詰所の脇でしゃがんでいる。


「あなたはいいのですか?」

「いい。ここにいる。こいつが暴れるだろ」


 そんな会話も聞こえてくる。

 今は、誰も彼もが犯人に見えてしまう。

 詰所の外には古いスポーツカーが停まっていて、きっと横の男のものだろう。歳の割に良い車に乗っているな、と考えてしまった。

 ふと、視線を上に向けると、防犯カメラのレンズと目が合った。見渡してみると、カメラはあちこちについていて、これなら犯罪は起きないだろうとマックスには確信できた。


「どうしました?」

「あ、あ……いえ、なんでも……」


 局員に促されて続きを書き込む。

 横では、「この付近で財布を落としたようで……」なんて会話が聞こえた。

 用紙を書き終わると、若い局員はその場の固定電話からどこかに電話をかけ始めた。電話相手に向かって、記載内容を朗々と言い始める。


「マックス・ムスターマン。四十六歳。児童福祉課企画部特秘課、えぇ、そうです」


 (た、他人がいる前で読み上げるのか?!)


 信じられない気持ちでいっぱいだった。呆然と局員を見つめるが、目の前の局員は続けて住所と電話番号すら言い出す始末だった。だが、周りは誰も止めてくれない。

 オロオロしながら横の男をチラと見ると、男も局員の行動に気づいたようで、苦笑しながらツイと顔を逸らされた。気を遣ってくれたのか、と、息をひとつ。

 人間は行動一つでもこうも安心できるのか、と妙な気分だ。


「おっと、」


 隣の男が、何かを落とした。こちらに転がってきたのは万年筆で、非常に古いもののようだ。自分の愛用品とは似ても似つかない高価なペン。それを男の代わりに拾ってあげると、男はさわやかな笑顔で「ありがとうございます」と言った。


「い、良いペンです、ね……」

「えぇ。父の形見なんです」


 男は万年筆を受け取って、また「ありがとうございます」と言った。

 スポーツカーといい、万年筆といい……この茶髪の男は、ずいぶん懐に余裕があるようだ。

 男はその万年筆で届出書類を出し終わると、局員に渡し「よろしくお願いします」と出て行ってしまった。

 ぼんやりと、その背中を見送る。


「はい、できましたよ」


 局員が戻ってきた。

 事件番号とやらを教えられ、何かあればすぐに連絡するよう言われた。



「それで?」

「えぇ、順調ですよ」


 車に乗り込んだリーベスを、ルドルフは非常に胡乱げな目で見る。出発するよう手で合図され、ルドルフは渋々アクセルを踏んだ。

 リーベスの手の中には、古ぼけた財布があった。その中から入館証とアクセスキー取ると、ルドルフの前にそれをちらつかせた。


「運転の邪魔」

「ふふ。順調ですね」


 そう言いつつ、リーベスは棒付き飴の封を開けている。なんでそんなに明るく言えるのか、ルドルフには心底理解できなかった。


「順調すぎて、気持ち悪い」


 ミラーに映ったリーベスは笑顔だったが、彼の目はルドルフから見えなかった。

 

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