第一話 処理されない帰還
第一話 処理されない帰還
この世界では、生きる理由さえ契約書で決まる。
リーベスは四年前、その紙切れに署名して刑務所に入った。
そして今日、もう一度、別の契約を結ばされる。
「囚人番号15681623。出ろ」
まだ起床時間ですらない朝、革靴の音が廊下を正確に三十五歩ぶん響き、踵が床に叩きつけられた。
その声を聞いた瞬間、リーベスは内心で自嘲した。
――そら、来た。
逃げきれなかった。
女神との契約は、いつもそうだ。
忘れた頃に、必ず迎えが来る。
伸びてきた、くすんだ茶色の髪をつまみながら、リーベスは窓の外を見た。四角く切り取られた空。硬いベッド。四年。
この生活も、今日で終わる。正確には、また別の檻に移されるだけだが。
リーベスは、自分がいつから結果だけを信じ、過程を顧みなくなったのかを覚えていなかった。
四角く切り取られた空を、こうして硬いベッドの上で眺める生活も、今日で区切りがつく。
正確には、やたら桁の多い数字を割り振られて、四年。
この四角い窓の向こうで、自分を待っている人間はほとんどいない。手紙を出したところで、宛名が読めなければ開封もされずに捨てられる。
ここは、うるさい。
血の気の多い男ばかりで、名前より手と足が先に出る。今もギャーギャーやかましい。
どうせ喧嘩の発端だって、面会人を通して密輸した嗜好品のレートがどうだの何だのとどうでもいい内容だろう。娯楽が無い時は喧嘩が一番手っ取り早い。
喧嘩に明け暮れるほど世界の全てに苛立っている人間たちを咎めるのも、面倒だった。
それに、全員何十年という長い刑期持ちだ。
外に出る機会はあるものの、高い高い塀が運動場を囲っているし、呼吸は苦しくなるばかりだ。
ほぼ石板のこのベッドの上で四年も過ごした。そろそろ飽きてきた。
契約書を読まされ、署名をさせられ、破らせられた。
その度に、感覚が削れていく気がした。
「どうした? 随分落ち着いているな。お呼びだぜ」
ピンと髪を払ってベッドから起き上がり、汚れた床に足をつけたまま動かなくなったリーベスに、同室の男が声をかけてきた。
リーベスはわかりやすく苦笑して見せる。
「私の可愛い"女神"から、そろそろ召集がかかりそうだったので少しくらい足掻こうと思ったのですが……どうも無理そうですね」
「へぇ、それはそれは」
同室の男もニタリと笑った。
ここの監獄にいる人間たちは、どいつもこいつも反射で生きているような連中だったが、この男だけはこちらを見ていた。こんな場所でなかったら、すぐにでも勧誘したというのに。
外で刑務官が早く出てくるよう、がなり立てている。そんな声をBGMに、リーベスはゆっくりと立ち上がって、同室の男を見下ろした。
「貴方、名前は?」
「おれかぁ?おれは、インジー」
こんなところで一緒に四年も過ごしているのに、まだそこが残留していたことに驚いた。
「インジー……僕はリーベスです。覚えておきます」
向こうも同じことを感じたようで、インジーは小さな目を見開いてからニタリとまた笑った。
「そりゃ嬉しいね、リーベス。良い夜を」
「はい。貴方も」
*
刑務官数人に囲まれ、手錠をかけられたまま歩く。
鉄格子越しにこちらを見る受刑者たちは、揃いも揃って下卑た笑みを湛えていた。
自身の中の何かを削ることに快感を覚えた人間に見られる特徴そのままの風貌で、これからリーベスがどこに向かって何をするのかも理解できていない。
「入れ」
刑務官から淡々と告げられ、リーベスは開けられた扉をくぐった。
「……おや?」
机と椅子しかない部屋の中に、一人の男性が立っていた。
スーツとワイシャツにはぴっちりとノリが利いていて、冗談がまったく通用しなさそうなオーラを纏っていた。ポマードの臭いがキツく、リーベスは顔には出さずに「嫌な奴」にカテゴライズした。
「女性が来ると思っていたのですが」
「彼女は来ない。そういう契約だ」
声の張りすら、ジョーク嫌いが滲み出ている。
刑務官に促されて、リーベスは椅子に座った。その音を聞いて、冗談嫌いの男も椅子に座った。
「約束を果たそう」
「それはどうも」
「手錠を外す前に、これにサインを」
「……」
刑務官を片手で制しながら、男はどこからか紙を出してきた。
目の前に滑り込んできた紙は上等なもので、金色のインクで縁取られている。
読まなくてもわかる。とはいえ、読んでいる風は装わないといけないので、手錠で動かしづらいのを最大限アピールしながら紙を手に取った。
「管理者が指定する対象を、適切な手段をもって奪取すること……なるほど」
「普段と変わらないと思うが」
「ええ、変わらないですね。何も」
視線を下に動かす。
期限、という単語が見えて、リーベスは「まぁそうだろうな」とその部分を指で撫でた。
「異論は?」
「ありませんよ。ペンをください」
リーベスの要求に、男がペンを差し出した。透明なガラスで出来たペンで、あまりにも意匠が凝りすぎていて、相当高価であろうことが伺える。
くるり、とそのペンを指先で遊ばせていると、男の眉間に皺が入った。
「そんなに睨まないでください。盗みませんよ」
「どうだかな。記録上は、そうなっている」
鼻白んだ男を無視して、リーベスは署名欄にペンを添えた。サラサラと、金色のインクがペン先から現れ、リーベスの手に追随する。
やたらと長く、やたらと利権の絡む名前を書き切ると、ペンは消失した。男を見ると、ペンを胸元にしまっているところだった。
契約書は勝手に二部に分かれて、リーベスの手中に一枚だけ納まった。ご丁寧に、封筒入りである。
「……価値あるものとのことですが」
「私に聞くな。お前の相棒に聞け」
「仕事の内容が具体的に書かれていません」
「詳細の連絡は追ってさせる。それまで外界の空気でも堪能するんだな」
そう言うや否や、男は後ろに控えていた刑務官に「連れて行け」と指示を飛ばす。
どうやら、彼は何も知らないらしい。
それがどうも面白くて、リーベスは男に背を向けたタイミングでようやく馬鹿にしたような笑みを口元に現した。
「おい」
「はい、何でしょうか」
唐突に背後から声がかかる。
他所行きの顔に戻して振り返ると、まだ椅子に座っていた男が神経質そうに足を組んでこちらを睨み上げてきた。
「変なことを考えるなよ」
男の忠告に、リーベスは何も返さず部屋を出た。
*
淡々と手錠を外された後、刑務官から四年前の服と所持品を返却された。
寒々とした廊下のど真ん中で着替えさせられ、汚い囚人服はその場で燃えてなくなった。
タバコの箱は空になっていて、その場でぐしゃりと握りつぶした。刑務官のニヤニヤした顔を見てから、リーベスは「開けてください」と伝えた。
「出る前に、これを」
「……? これは何ですか?」
「お前の拘束権を主張する契約書だ」
州の外に出てはいけない。
毎月保護司に必ず面会をしなければいけない。
再犯した場合は、再犯者の命と同等の価値あるものを差し出さなければならない。などなど、エトセトラ。
本当にこの世界の人間は契約が好きだな、と嫌になる。これに署名しなければ、外に出す気はない。刑務所の出入りが数回目ともなると、最早じっくり読む気力もなかった。
事務的に安いボールペンで署名をし、最後のスペルだけを間違えたまま提出をすると、刑務官の両口角はもう天井を突き抜けんばかりだった。
こちらがうんざりしていると思っているのだろう。相手を不快にさせることに関しては、刑務官たちがこの世の全てにおいてダントツにお上手である。
そこらへんの紙で作成され、魔法で造られたわけでもないペンで署名した契約になんの意味があるのか知らないが、これはある意味での儀式だ。付き合う他あるまい。
仰々しい音を立てながら、分厚い鉄扉が開く。
その向こうは誰もいないだろう、と勝手に予想して外に出たリーベスは、その場で空気を思い切り吸い込んだ。
肺を満たした冷たい空気は、しかし満足感を得られなかった。
これから始まる仕事を考えると気が遠くなるが、今はとりあえず外を満喫しよう。
さて、ここからダウンタウンまで歩くのは骨が折れそうだ。
背後で鉄扉が大きな音を立てて閉まるのを聞きながら、とりあえず始めの一歩を踏み出す。
と、目の前の道路に停まっていた車に、誰かが寄りかかっていた。
リーベスよりも小さく、リーベスよりも若そうな風貌の男が、腕組みをしてこちらを睨んできている。
懐かしい顔がそこにあった。
「……来てくれたんですね、ルド」
「あちらさんから連絡が来たからな。仕方なくだ。仕方なく!」
ブスッと不貞腐れた顔で、それだと言うのに嫌に丁寧に助手席のドアを開けたルドルフに、リーベスは苦笑で返すしかなかった。
「おい、リーベス」
「はい。何でしょう?」
助手席からルドルフを見上げると、彼は片眉を上げてこちらを見ている。
「中でどんな話をしてきたんだか知らねぇが……まだ、終わってねぇな、それ」
「さて、どうでしょうね」
リーベスが肩をすくめて見せると、ルドルフは軽く舌打ちをして車のドアを力一杯閉めた。
懐かしい迫力に口角が緩みそうになったが、ルドルフが運転席に乗り込む直前で顔を引き締めた。
*
ルドルフの雑な運転でダウンタウンに驚異の二十分で到着すると、ルドルフ行きつけのダイナーの前に駐車した。
外観に汚れが目立つものの、店前の道路を含めて小奇麗に整えられており、刑務所が近くにあるわりに治安は良い様子だった。
ルドルフに続いて車を降りる。久々の雑踏、久々の排気ガスの臭い。あぁ、生きているな、と感じる。
「失礼。IDの提出を」
不躾な治安維持局員に出会うのも、本当に久々だ。日常に帰ってきたな、と嫌になる。
「おらよ。おい、リーベス。お前も出せ」
「あぁ、そうですね」
胸ポケットから丸型のIDカードを取り出したルドルフに続いて、ポケットを探る。が、どのポケットを探っても、四年前には触れ慣れていたカードに指が当たらなかった。
普段は端末から顔も上げずこちらを見もしない局員が、初めてこちらを見た。
嫌な空気だ。
「……あぁ、こちらです」
ようやく見つけたカードを出し、局員の持つ端末にカードをかざした。滲んだ緑色の文字が一瞬浮かぶ。機械音と共に端末画面に映った文字面を見て、局員が眉を顰めた。そうそう、この瞬間だ。自分が刑務所から出てきたばかりだと実感するのは。
ただ、前回出所した時より、なんだか局員の反応が遅いように感じた。
カードを端末にかざして、視線がいつもより数行下を読んでいるようだ。だが、そこに言及することもなく、局員はカードを返してくれた。
「はい、確認しました。ご協力感謝します」
「……行くぞ、リーベス」
「はい」
ルドルフの導きで店に足を向ける。
局員からの視線はきっかり五秒背中に刺さった後、彼らはまた職務に戻っていった。
*
ダイナーの中は、カウンターでの前会計が必須の店で、木で出来たテーブルや椅子が温かみを醸し出している。老若男女問わずと言った言葉がぴったりで、肉の焼ける音と明るいトーンの会話、カウンターの決済音が入り乱れている。
「よぉ、ルドルフ。今日はお連れさんも一緒かい?」
「あぁ。チキンとピザ、ピクルスとビールで。おい、お前もそれでいいか?」
「任せます」
「会計は別でいいかい、ルドルフ」
「あぁ、頼むわ」
ルドルフが慣れた調子で注文をしていく中で、店主らしき男がチラチラとこちらを見てきた。髪、肌、瞳の色、服装と視線を動かしていった店主と目が合い、ニコリと人好きのする笑顔を向けてあげた。
「IDを」
「あぁ」
「そちらのお連れさんも」
ルドルフに続いて、リーベスも嫌々ながらカードを端末にかざした。ピッと音がして、店主の視線が端末に向く。そして、彼の眉間にしわが寄った。
一瞬の静寂。
店主が口を開くよりも先に、ルドルフが二人の間に割って入った。
「悪い、今日は俺が全額奢る約束していたんだった! こっちのカードで支払ってくれ」
「あ、あぁ、分かった。なんだ? 賭けでもしたのか?」
「まぁそんなところだ」
店主の視線が一瞬だけ硬くなったように感じる。笑みを崩さずに二人のやり取りを見守っていると、背後で小さな子供の声が耳を掠めた。
「ママ、あのひと、空白なの?」
「しっ」
子供は素直だ、と思いながら、リーベスはルドルフに引っ張られるようにして店奥の席に引っ込んだ。
訂正しようと思えば、できた。
だが、そうする理由が、もう思い浮かばなかった。
運ばれてきた料理は二人前にしてはどれも量が多く、本当に食べきれるのか不安になる。
料理を運んでくる女性店員は意識的にリーベスの方を見ないようにしているし、それを見てなぜかルドルフの方が不機嫌そうだった。
「で?」
「で、とは?」
「仕事、なんだろ。内容は?」
チキンの丸焼きにフォークを突き立てようとしたルドルフを制して、リーベスは懐から例の封筒を取り出した。ルドルフに渡すと、どこからほじくり出したのか、チキンを一口頬張ってからルドルフは紙を開いた。
「ふーん……なんとも、ふわっとした内容だな。これを寄越してきた奴はなんて?」
「何も。彼女から知らされていないのでしょう」
あのジョーク嫌いは、眉間に皺はたくさん作ったものの、何も口にしなかった。ちょっとの嫌味と、こちらを値踏みする視線だけだ。
ルドルフはまた「ふーん」とだけ呟いて、いくつかの文章をフォークの柄でなぞっている。
「ルド」
「んー?」
「それはあとで話しましょう。ビールの泡が消えてますよ」
リーベスの声に、ようやくルドルフが顔を上げた。
何か言いたげな顔であったものの、周囲の視線を見てから元気よく「お前の快気祝いだもんな!」と言って、ビールを煽った。
「じゃ、まずはお前の家に行こう」
「ありませんよ」
「え?」
「ん?」
ルドルフの驚きを横に流し、リーベスはゆったりとビールを飲み、チキンをナイフで切り分けてあげた。
皿に乗せてあげると、反射的に「ありがとう」と言ってしまうルドルフに、笑いがこみ上げてくる。
「四年前に家は引き払っていますので、今はありません」
「え……じゃ、じゃあ、お前、どうやって手続き終わらせてきたんだよ」
「さぁ。私が渡された契約書はそれだけです。そうですね……しばらくは、あなたの家にでも厄介になりますかね」
「おいおいおい! 勝手に決めんな!」
ガタッと中腰になったルドルフを「まぁまぁ」と制したが、さすがのルドルフも予想外だったらしい。
いったい何をそんなに驚いているのだろう。
四年前の仕事は、それだけの覚悟を持って挑んでいたというのに。彼にはまったく伝わっていなかったらしい。大げさに肩をすくめて見せると、ルドルフのこめかみにぴくりと血管が浮いた。
「数日で出ていけ」
「それはこれから次第です」
「いいな。絶対に、数日で、出ていけ」
そんなに嫌がることもないだろうに。
両頬を膨らませてルドルフの反応を待つと、「可愛い子ぶるな」と舌打ちが飛んできた。




