第一話 処理されない帰還
返却されたIDカードをかざした瞬間、端末が一度だけ沈黙した。
リーベスは、ほんのわずかに目を細めた。
沈黙は一秒にも満たない。だが、機械が"迷う"という現象は、そう多くない。
「……」
刑務官が無言で端末を叩くと、表示はすぐに「有効」の文字に変わった。
それだけだった。
だが、リーベスは確かに見た。
IDナンバーの横。
あるはずの自分の名前が、空欄になっていた。
そして、一瞬だけ端末に表示された文字。
《処理保留》
――対象:未確定
原因がまだ決まっていない、ということか。
その文字列の理由を考える間もなく、目の前の鉄扉が開いていった。
四年ぶりの空気は冷たい。
肺は満たされたはずなのに、なぜか薄く感じた。
「契約が処理された。お前という負債は清算された」
「出所おめでとう、囚人番号15681623」
背後で誰かが下品に笑った。それに応えてやる義理はなかった。
番号で呼ばれることには慣れている。
名前より、よほど長い付き合いだった。
この世界では、人は契約によって管理されている。
文字より数字が信用される。
刑務所を囲む金網の向こうを歩いていた子供と目が合った。子供はこちらの頭からつま先まで見たあと、後ろにいた親を見上げる。
「ねぇ、ママ。あの人、なんで処理されてないの?」
「こら、見ちゃいけません」
子供の言葉に、リーベスは自分の手を見下ろした。
慌てて子供の口を塞いだ母親とは目が合わず、自分で選んだこととはいえリーベスは肩をすくめた。
処理されていないのではない。
ただ、まだ誰も原因にされていないだけだ。
彼らに訂正する理由も思いつかない。
躊躇いながらも一歩踏み出そうとしたところで、古いスポーツカーが目の前に停まった。
一瞬身構えたものの、運転席から降りてきた男を見て、リーベスはふっと一息ついた。
「来てくれたんですね、ルドルフ」
「あちらさんから連絡があったからな。仕方なくだ、仕方なく!」
四年ぶりのやり取りに、リーベスは口が緩みそうになったものの、慌てて引き締めた。
ギャンッと吠えたルドルフはリーベスの顔を一度見て、次に胸ポケットの封筒を見た。
「契約か」
その一言で、リーベスの足が少し止まった。それを気取られぬように、リズム良く歩き直した。
「えぇ、そうです。相変わらず、よく見てますね」
「見たくて見てるわけじゃねぇ」
そう言いつつも、ルドルフの視線はリーベスの胸元から、リーベスの斜め前へと視線が移った。
「……」
彼の視線の先にいたのは、警備員だった。そして、そのポケット。なるほど、とリーベスはひとつ、息を吐いた。
「行きましょう、ルド」
「……面倒ごとはごめんだからな」
「しばらくは大丈夫ですよ。契約がありますから」
自分で言っておいて、一瞬だけ心の中がざわついた。だが、端末の表示は有効だった。
だから、大丈夫だ。
リーベスはようやく深呼吸できた。
*
「サインを」
数十分前。刑務所内の一室に、リーベスは座らされていた。
「女性が来ると思っていましたが」
「彼女は来ない。そういう契約だ」
時間だけが過ぎていく。やがて、金色の縁取りが施された紙が滑り出てきた。チラリと目の前を見る。ポマード臭い、堅苦しい男が、こちらを睨みつけてきていた。
読まなくてもわかる。とはいえ、読んでいる風は装わないといけない。
リーベスは、手錠で動かしづらいのを最大限アピールしながら紙を手に取った。
契約内容は、いつもと同じ。
指定された対象を、期限内に奪取すること。
ただし、契約発行元がいつもと違った。
「異論は?」
「ありませんよ。ペンをください」
リーベスの要求に、男がペンを差し出した。透明なガラスで出来たペンで、相当高価であろうことが伺える。
くるり、とそのペンを指先で遊ばせていると、男の眉間に皺が入った。
「そんなに睨まないでください。盗みませんよ」
「どうだかな。記録上は、そうなっている」
鼻白んだ男を無視して、リーベスは署名欄にペンを添えた。サラサラと、金色のインクがペン先から現れ、リーベスの手に追随する。
一文字目を書き出した瞬間、自分の指先が、自分の意図しない生き物のように動いた気がした。
リーベス。
そのはずの文字が、ほんの一瞬、読めなかった。
「……」
ペン先が止まる。
自分の名前は、こんな形だっただろうか。
インクが紙に滲む。
次の瞬間、いつも通り名前が脳裏にはっきり浮かんだ。
気のせいだ、とリーベスは処理した。
やたらと長く、やたらと利権の絡む名前を書き切ると、ペンは消失した。男を見ると、ペンを胸元にしまっているところだった。
契約書は勝手に二部に分かれて、リーベスの手中に一枚だけ納まった。ご丁寧に、封筒入りである。
男が言う。
「問題は起きない。適切に処理する。それが我々の仕事だ」
適切。
処理。
便利な言葉だ。
リーベスが呆れたように肩を揺らすが、男から反応はない。
刑務所内で喧嘩が起きるたび、仲裁役はいつも「上が決めた事なんだから、大丈夫だって!」と言っていた。彼らにとって、それは“適切な処理”だった。
ぼんやりと反芻していると、男が咳払いをしたので、意識を封筒に戻した。
「……価値あるものとのことですが」
「私に聞くな。お前の相棒に聞け」
「仕事の内容が具体的に書かれていません」
「詳細の連絡は追ってさせる。それまで外界の空気でも堪能するんだな」
そう言うや否や、男は後ろに控えていた刑務官に「連れて行け」と指示を飛ばす。
どうやら、彼は何も知らないらしい。
それがどうも面白くて、リーベスは男に背を向けたタイミングでようやく馬鹿にしたような笑みを口元に現した。
「おい」
「はい、何でしょうか」
唐突に背後から声がかかる。
他所行きの顔に戻して振り返ると、まだ椅子に座っていた男が神経質そうに足を組んでこちらを睨み上げてきた。
「変なことを考えるなよ」
男の忠告に、リーベスは何も返さず部屋を出た。
*
「おい、さっさと来い」
刑務所内の会話を思い出していると、記憶の中のポマード男ではなく、ルドルフが目の前に現れた。驚いて周りを見れば、まだそこは刑務所の前だった。出入り口用の金網すら通過しておらず、リーベスは慌てて歩を進めた。
「チッ……二度と来るなよ、ゴミ野郎が」
二重に張られた金網の出入り口に立つ警備員の横に行くと、小さく罵倒が飛んできた。その言葉に、リーベスのこめかみがヒクと動く。
「さぁ、どうぞ」
リーベスに聞こえていないと思ったのだろう。警備員は先ほどとは打って変わって、丁寧に金網製のドアを開けた。
「ありがとうございます」
警備員の真横を、かすめるように通る。道が細いのだ。致し方ない。
「チッ……」
また後方で舌打ちが聞こえた。
さっさとルドルフの車に乗り込んで、ドアを閉める。それを合図に車を発進させたルドルフが、少しして「おい」と低い声を出した。
「……手癖が悪いのは治ってねぇようだな、リーベス」
「あなたがいたく気にしていたので、思わず」
「はぁ? 気になんてなってねぇよ」
「そうでしょうか。あなたの"目"は、そうではなかったようですけど」
助手席のリーベスを見て、ルドルフが呆れたように鼻を鳴らした。
リーベスの指先には、先ほどの看守が首から下げていた、幼い娘の写真が入ったロケットペンダントが握られていた。
――この娘は、父親が囚人を「ゴミ」と呼ぶ人間だと知っているのだろうか。
リーベスは少し唇を噛んだ。
「返してこい。盗む価値もねぇだろ」
「いいえ、ルド。これは返しません。……彼は僕をゴミと呼びましたが、ゴミを片付けるための"鍵"を忘れていった」
リーベスはロケットを開け、写真の裏側に隠されていた刑務所内の全セクター共通マスターキーを取り出した。看守が個人的に横領、あるいは不正に持ち出していた規律違反の証拠だ。
ルドルフから出るのは重い溜め息ばかりだ。
「そんなもん、今は必要ねぇだろ。どうすんだ、それ」
ルドルフの問いに、リーベスはロケットの写真を見つめたまま穏やかに笑ってみせた。
「もし今後問題が起きたら、原因はこの人になります」
リーベスの言葉に、ルドルフはぎゅうと眉を顰めた。
「……は?」
「規律違反の看守が鍵を持っていた。それで十分です。責任は、綺麗に処理できます」
「あ! おい、リーベス!」
「だから、価値は、ありますよ」
何の手応えもなかった。
心にはさざ波一つ立っていない。罪悪感も、復讐の快感すらもない。
「さあ、行きましょう。新しい仕事の時間です」
リーベスはもう一度自分の端末と封筒を見た。
端末は有効と表示している。
封筒と、その中の契約書も存在している。
それでも――
出所したという実感だけが、なかった。
代わりに、自分の輪郭だけが、ゆっくりと薄れていく感覚があった。
まるで、この世界がまだ自分を「処理」する理由を決めかねているようだった。




