09 実験体γ(3)
それからの三日間、朔人は死んだように動かず、ひたすらにデータを収集し続けた。
六台のカメラが捉える映像を二十四時間監視し、奴らの行動パターンを徹底的に分析する。
カメラに映り込んだのは、主に三体の個体だった。朔人はそれぞれの特徴から、ギリシャ文字のコードネームを与えていた。
最大の個体である個体αは、推定体重六十五キロ。
画面には、カメラのレンズを至近距離から覗き込む、巨大な怪物の顔が映っている。
こいつは異常だ。赤外線LEDの不可視光が見えているかのように、正確にカメラの位置を特定している。
レンズを覗き込むその瞳には、動物的な警戒心を超えた、知性すら感じさせる冷たい光が宿っていた。
こいつは駄目だ。警戒心が高すぎるし、人工物への理解度が高い。罠には絶対にかからない。
次に、朔人は別のログファイルを開いた。
個体β。右目に古い裂傷痕がある。
隻眼の歴戦個体だ。動きに一切の無駄がない。
獲物の気配を察知すると、最短ルートを一直線に駆け抜け、瞬殺する。その狩りの手際は、熟練の暗殺者のように洗練されていた。
危険すぎる。もし罠にかかっても、力ずくで檻を破壊するか、あるいは捕獲作業中にこちらが殺されるリスクが高い。
そして、最後の一体。
朔人の指が、画面上の少し小柄な個体の上で止まった。
個体γ。推定体重四十五キロ。若く、未成熟な個体だ。
γの行動は、他の二体とは明らかに異なっていた。
移動中、ふと視界を過った蛾を追いかけてコースを外れたり、垂れ下がった蔦を無意味に噛んで引っ張ったりする様子が記録されている。
それは、生きるために必要な狩りではなく、有り余るエネルギーを持て余した「遊び」の行動だった。
好奇心が強く、注意力が散漫。そして何より、経験不足ゆえの隙がある。
狙うなら、こいつだ。
朔人は迷わず、γの画像に赤いマーカーを引いた。
好奇心は、野生動物にとって最大の武器であり、同時に最大の弱点にもなる。
ターゲットは決まった。次は捕獲手段だ。
朔人はバックパックから、厳重に梱包された薬品ケースを取り出した。
中には、動物用麻酔薬の小瓶と、精密な電子天秤、そして数本の注射器が並んでいる。
ここにも、キメラ特有の「生物学的矛盾」が立ちはだかっていた。
代謝のパラドックスだ。
朔人はノートを開き、複雑な化学式と数式を書き殴り始めた。
通常、哺乳類への麻酔には、即効性のあるケタミンと、筋弛緩作用のあるキシラジンを混合して用いる。
だが、相手は爬虫類の代謝系を併せ持つキメラだ。ここに致命的なジレンマが生じる。
哺乳類の循環系に合わせて即効性を求めれば、薬の濃度を上げる必要がある。だが、爬虫類の代謝系は薬物の分解・排出が極めて遅い。高濃度の薬物が体内に長時間滞留すれば、それは麻酔ではなく「致死毒」になる。
朔人はペンの先で机を叩いた。
もし量が少なければ、薬が効かずに暴れ回る怪物に、紙切れのように引き裂かれるだろう。
逆に多すぎれば、呼吸中枢が麻痺し、貴重なサンプルは二度と目覚めない肉塊と化す。
哺乳類としての体重換算なら5ミリリットル。だが、爬虫類の代謝半減期を考慮するなら、その半分以下に抑えなければ危険域だ。
生かすか、殺すか。あるいは殺されるか。
その境界線は、わずか数ミリグラムの薬液の差にかかっている。
朔人は額に浮かぶ脂汗を拭いもせず、数式と睨み合った。
相手の筋肉量、推定される肝機能、そして気温による代謝の変化。あらゆる変数を代入し、最適解を導き出していく。
ケタミンとキシラジンの配合比率を4対1に変更。さらに、拮抗剤を即座に投与できるよう準備する。
計算は終わった。
朔人は震える手でシリンジを握り、慎重に薬液を吸い上げた。
透明な液体の中に、自分と、そして未知の生命の運命が詰まっている。
プランは二段構えだ。
第一段階は、箱罠による安全な捕獲。
だが、もし罠が作動しなかった場合、あるいは罠を破壊して逃げようとした場合――。
その時は、今配合した薬剤を使って自分が直接手を下すしかない。
射程は精々三十メートル。ネットランチャーは十メートル。
あの化け物の殺傷圏内まで、身一つで近づかなければならないということだ。
ミスは許されない。一瞬の遅れが、そのまま死に直結する。
調合を終えた麻酔弾をシリンダーに装填し、朔人は銃のボルトを引いた。
カチリ、という冷たい金属音が、静寂に響く。
それは、彼が観察者という安全圏を捨て、当事者として踏み出す覚悟の音だった。
「待っていろ」
朔人はテントの入り口を開け、夜明け前の闇を見上げた。
空にはまだ星が瞬いているが、東の空は微かに白み始めている。
決行は今夜。
闇の中に隠された進化の謎を、白日の下に晒すために。
朔人は機材を背負い、決戦の地となる渓谷へと足を踏み出した。
◇
夜明け前の渓谷は、底知れぬ闇に沈んでいた。
空を見上げれば、木々の隙間から覗く星々が、冷たい宝石のように瞬いている。
朔人は、地上から五メートルほどの高さにある樫の大木の枝に身を潜めていた。
全身を覆う迷彩柄のポンチョは、森の風景に完全に溶け込んでいる。呼吸さえも極限まで浅くし、気配を殺して眼下の獣道を見下ろしていた。
そこには、幅一メートル、奥行き二メートルほどの巨大な鉄の檻――箱罠が設置されている。
朔人はこの罠に、プロファイリングに基づいた「γ専用」の仕掛けを施していた。
檻の奥には、強烈な匂いを放つ鹿肉と蜂蜜を混ぜた餌に加え、天井から銀色の薄い金属片を数枚、糸で吊るしてある。
わずかな風でキラキラと揺らめくその仕掛けは、警戒心の強い大人の個体なら「不自然」と判断して避けるだろう。だが、好奇心が強く、動くものを追う習性がある若いγならば、餌の匂い以上にこの「光るおもちゃ」に興味を惹かれるはずだ。
経験不足という最大の隙を突く。それが、朔人が導き出した攻略法だった。
周囲の空気は冷たく張り詰め、川のせせらぎだけが単調なリズムを刻んでいる。
朔人は手元の麻酔銃を握りしめた。グリップの冷たさが、汗ばんだ掌に伝わってくる。
シリンダーに装填されているのは、数式と推論を重ねて調合した、特製の混合麻酔薬だ。
これが吉と出るか、凶と出るか。答え合わせの時は近い。
罠を仕掛けてから、すでに四時間が経過していた。
足の感覚はなくなり、集中力が途切れそうになるたびに、あの異様な映像解析の結果を脳裏に焼き付け直す。
骨格の矛盾、熱源の消失、そして人工的な遺伝子の継ぎ接ぎ。
必ず捕らえる。そして、その身体に刻まれた真実を解き明かす。
来るはずだ。
カメラのデータと行動予測によれば、ターゲットであるγは、あと数十分以内にこのルートを通る可能性が高い。
その時だった。
風が変わった。
川下から吹き上げてくる風に乗って、微かな、しかし独特の獣臭が漂ってきた。それは泥と鉄錆、そしてどこか甘い麝香のような香りが混じり合った、生理的な嫌悪感を催す不快な匂いだった。
朔人の全身の筋肉が硬直する。
来た。
暗視スコープを覗き込むと、闇の奥から、ゆらりと黒い影が現れた。
映像で見た通りの、異形のシルエット。
体高は八十センチほど。成獣であるαやβよりはひと回り小さいが、それでも大型犬を遥かに凌ぐ体躯だ。
月明かりの下、濡れたように黒光りする鱗が妖しく輝く。
怪物は警戒するように鼻を鳴らし、しなやかな動作で周囲を嗅ぎ回っている。その動きは、哺乳類のそれではあり得ないほど低く、滑らかだった。
怪物は箱罠の前で足を止めた。
檻の奥から漂う濃厚な餌の匂いに、明らかに興味を示している。長いマズルを檻の隙間に突き刺し、大きく息を吸い込んだ。
そして、その視線が檻の中で揺れる銀色のモビールに釘付けになった。
猫が猫じゃらしを見るような、好奇心に満ちた動きで首を傾げる。
「……入れ」
朔人は心の中で祈った。
読み通りだ。あいつは警戒心よりも好奇心を優先させている。
あと一歩。前足を踏み板に乗せさえすれば、重い鉄の扉が落ち、勝負は決まる。
怪物は慎重に片足を上げた。そのまま檻の中へと踏み込もうとし――。
ピタリと動きを止めた。
何かに気づいたのか、怪物は不審そうに耳をピクリと動かした。
そして次の瞬間、弾かれたように後ろへ飛び退いた。
「……!」
朔人は息を呑んだ。
なぜだ。風向きは計算通りだ。こちらの匂いは悟られていないはずだ。
怪物は低い唸り声を上げ、苛立たしげに地面を掻いた。
それは、人工的な構造物である罠そのものへの警戒か、あるいは本能的な危険察知か。
怪物は興味を失ったように踵を返し、獣道を迂回しようと動き出した。




