08 実験体γ(2)
変化を知らせたカメラの場所は、ベースキャンプから百メートルほど下った沢沿いの獣道だ。
「……風か? いや」
画面の端にある検知レベルのグラフが、大きく振れている。小動物や風による誤作動ではない。確かな質量を持った「何か」が、センサーの赤外線を遮ったのだ。
朔人は息を殺し、画面に顔を近づけた。
暗視カメラの映像は粒子が荒く、視界は悪い。岩場の陰影が生き物のように揺らめいて見える。
朔人は即座に映像モードを切り替えた。指先一つで、暗視カメラの映像が、熱分布を示す色彩映像へと変換される。
通常、哺乳類であれば、体温の高い中心部は赤や白で表示されるはずだ。
だが、画面に現れたシルエットを見て、朔人の思考は一瞬停止した。
「……なんだ、この熱源反応は」
闇の中から現れたその獣は、青黒い色をしていた。
周囲の岩や地面とほとんど変わらない温度。つまり、極めて低い体温。
「変温動物……? いや、完全に冷たいわけじゃない」
よく見ると、太腿や首筋の筋肉が密集している部分だけが、斑点のように微かに黄色く光っている。
「局所的な発熱……。活動に必要な部位だけ体温を上げているのか?」
哺乳類のようなシルエットを持ちながら、その生理機能は爬虫類のそれに近い。
「あり得ない。こんな熱分布を持つ生物は、どんな論文にも載っていない」
朔人が呆然と見守る中、その「冷たい獣」は、音もなくカメラの画角の中央へと滑り込んできた。
画面の左端から、黒い影がぬらりと現れた。
大きい。
朔人は息を呑んだ。
体高は一メートルを超えているだろうか。日本の山に生息する哺乳類としては最大級だ。
影は、警戒するように鼻先を地面に近づけ、ゆっくりとカメラの画角の中央へと進み出てきた。
「野犬……? いや、違う」
そのシルエットは、紛れもなくイヌ科の特徴を持っていた。尖った耳、長いマズル。だが、動き出した瞬間、朔人の背筋に鳥肌が立った。
「……なんだ、その動きは」
犬や狼のような、四肢を前後に振る軽快な歩行ではない。
肩甲骨の可動域が異常に広く、まるで関節が外れているかのように前足がぬらりと前へ伸びる。それに合わせて、長い背骨が波打つように左右にくねった。
イヌ科の骨格を持っていながら、その動きは完全に爬虫類のそれ――地面を這うようなスリザリングだった。
毛皮ではなく鱗に覆われた身体が、液体のように滑らかに重心を移動させていく。既知の動物の動きとは決定的に異なるその生理的な違和感が、画面越しに強烈な嫌悪感を煽り立てた。
雲の切れ間から月光が差し込んだのか、あるいはカメラの赤外線ライトの角度が合ったのか。
ぼんやりとしていた影の輪郭が、不意に鮮明に浮かび上がった。
朔人は、喉の奥で悲鳴を殺した。
自身の目が信じられなかった。生物学者として蓄積してきた知識が、目の前の映像を全力で否定しようとする。
それは、狼だった。
かつて日本で絶滅したはずの、ニホンオオカミを思わせる精悍な顔つき。
だが、その身体を覆っているのは、ふさふさとした毛皮ではなかった。
首筋から背中にかけて、そして強靭な四肢の筋肉を覆うように、硬質な「鱗」がびっしりと並んでいたのだ。
モノクロの映像でも、その質感が異質であることは分かった。
濡れたように黒光りする鱗は、鎧のように隙間なく皮膚を覆い、月光を鈍く反射している。
唯一、腹部や顔の一部には体毛が残っているが、それも鱗の間から不格好にはみ出しているだけで、まるで進化の過程で置き去りにされた出来損ないの形質のようだ。
「……あ、あぁ……」
朔人の口から、言葉にならない声が漏れた。
サンプル解析の結果は、間違いではなかった。
哺乳類のしなやかさと、爬虫類の防御力。相反するはずの二つの形質が、一つの生命体の中に無理やり同居している。
それは、自然界の調和が生み出した芸術品などではない。
進化の法則を嘲笑うかのように、相反する特徴を併せ持つ、まるで合成獣のような冒涜的な姿。
怪物は、ふと足を止め、カメラの方へ顔を向けた。
レンズ越しに、視線が交錯したような錯覚に陥る。
その瞳は、暗視映像の中で白く光っていた。狼の知性と、爬虫類の冷酷さが混じり合った、感情の読めない瞳。
怪物は、カメラの存在に気づいたのか、あるいは単なる気まぐれか。
短く鼻を鳴らすと、剥き出しになった牙――肉を切り裂くための鋭利な牙を覗かせ、興味なさげに視線を逸らした。
そして再び、あの爬虫類めいた滑らかな動作で、闇の奥へと消えていった。
画面から影が消えても、朔人はしばらく動けなかった。
全身から冷や汗が噴き出し、心臓が早鐘を打っている。
見た。見てしまった。
あの熊を殺した犯人を。
そして、この日本の山に、決して存在してはならない「異物」が解き放たれているという、決定的な証拠を。
「……いる」
朔人は震える手で、映像データの保存ボタンを押した。
現実は、想像よりも遥かにグロテスクで、恐ろしかった。
だが、恐怖と共に、朔人の腹の底から、冷たい熱のようなものが込み上げてきた。
それは、未知の現象を前にした時、研究者だけが感じる抗いがたい高揚感だった。
その起源が自然の気まぐれなのか、あるいは何者かの意志によるものなのかは分からない。だが、目の前には確かに「進化の空白」を埋めるピースが存在する。
朔人はタブレットを握りしめ、画面の中の闇を凝視した。
調査は終わりではない。ここからが本当の研究の始まりだ。
この怪物の正体を暴き、そのメカニズムを解き明かすまでは、ここを動くわけにはいかない。
◇
再生、停止、そしてコマ送り。
朔人はテントの中で、タブレットの画面に指を這わせ、数分前に記録されたばかりの映像を何十回となく解析していた。
画面上には、専用の解析アプリによって生成されたワイヤーフレームの骨格モデルが、怪物の動きに合わせてリアルタイムでオーバーレイ表示されている。
関節にかかる負荷や筋肉の収縮率が、数値となって次々と弾き出されていく。だが、その結果は朔人の常識を嘲笑うかのようなエラーの連続だった。
「……おかしい。計算が合わない」
朔人は画面の一点を拡大した。怪物がカメラの前を横切り、ぬらりと前足を伸ばして体重移動を行った瞬間だ。
シミュレーター上の肩甲骨周辺の筋肉が、構造上の矛盾を示す真っ赤な警告色に染まる。
通常のイヌ科の骨格であれば、前足の可動域は前後に限られる。だが、映像の中の獣は、まるで関節が外れているかのように前足を横方向へ大きく開き、爬虫類特有の「這う」動作を行っていた。
骨格はオオカミ、動作プログラムはトカゲ。
ハードウェアとソフトウェアが一致していない。それなのに、動きには一切の淀みがない。
「脊椎の柔軟性が、哺乳類の限界を超えている。これは……ヘビやトカゲに見られる『側波運動』だ」
肋骨の一本一本が独立して可動し、全身を一本の鞭のようにしならせることで、足音を立てずに滑るような移動を可能にしている。
さらに、不可解なデータは続く。
朔人は映像モードをサーモグラフィーに切り替えた。
画面の中の怪物は、体温の上昇がほとんど見られない。周囲の気温と同化している。
「運動エネルギーが熱に変換されていないわけがない。なのに、深部体温が一定に保たれている。……どこだ? どこで熱を捨てている?」
朔人は画像を極限まで拡大し、怪物の首筋から背中にかけての鱗の動きを目で追った。
筋肉の収縮に合わせて、硬質な鱗が呼吸するようにわずかに逆立ち、その隙間から周期的に陽炎のような揺らぎ――熱気が排出されているのが見えた。
「そうか……鱗の開閉による強制空冷か。ラジエーターのように表面積を増やし、運動熱を効率的に排熱しているんだ」
朔人はタブレットを置き、顔を覆った。
「バイオメカニクスの悪夢だ」
骨格、筋肉、代謝システム。そのすべてが既存の生物学の教科書には載っていない、未知の理屈で動いている。
映像を見れば見るほど、謎は深まるばかりだった。
朔人は焦燥に駆られるように、タブレットの画面を何度もタップした。解像度を上げ、コントラストを調整し、フレーム単位で動きを追う。だが、どれだけ画像を鮮明にしても、そこに映るのは「表面」だけだ。
この異常な動きを生み出している内部構造――筋肉の付着位置、関節の球面の形状、そして神経伝達の経路。それら肝心な情報は、分厚い皮膚と鱗の下に隠されている。
「……ダメだ。これ以上は憶測の域を出ない」
朔人は悔しげに呟き、タブレットをデスクに置いた。
画面の中の怪物は、悠然と闇の中を歩いている。その一挙手一投足が、彼の中に蓄積された生物学の常識を嘲笑っているかのようだった。
モニター越しに観察を続けるだけでは、永遠にこのパズルは解けない。ブラックボックスの中身を知るには、箱をこじ開けるしかないのだ。
だが、それは一線を超えることを意味する。
安全な場所からデータを取るだけの「観察者」であることをやめ、命の危険を冒して対象に接触する「当事者」になるということだ。相手は熊をも殺す未知の捕食者。失敗すれば、彼らと同じ末路を辿ることになる。
恐怖が、冷たい水のように胃の腑に溜まる。
しかし、それ以上に朔人の胸を焦がしたのは、研究者としての業にも似た渇望だった。
知りたい。この生物学的矛盾の塊が、どのような論理で成立しているのか。その真実を、この指先で触れて確かめたい。
「……現物を捕獲して、その中身を確かめるしかない」
朔人は眼鏡の位置を直し、深く息を吐き出した。その瞳から、迷いの色は消えていた。
観察者から、狩人へ。
朔人の思考は、危険を承知の上で真実を掴むための、緻密な捕獲プランの構築へと切り替わった。




