07 実験体γ(1)
紀伊山地の奥深く、人が踏み入ることの許されない領域に、重たい登山靴の音だけが響いていた。
朔人は立ち止まり、タブレットに表示された地形図を拡大した。
現場となった熊の死体発見場所は、ここから南へ三百メートルの崖下。そして唯一の水場は北側の沢だ。捕食者であれば、水を飲むために必ず移動する。だが、相手は未知の生物だ。単純な獣道を通るとは限らない。
風は谷底から尾根へと吹き上げている。こちらの匂いを悟られないよう、風下の位置かつ、ターゲットが身を隠しながら移動できるルートを予測する。
朔人の視線は、地図上の等高線の歪みに向けられた。
尾根沿いよりも、この斜面の窪みだ。水場へ降りるなら、身を隠せるここを通る確率が高い。
空を見上げると、木々の隙間から見える空は既に茜色に染まり始めていた。
急がなければならない。夜の帳が下りれば、そこは人間の領域ではなくなる。ましてや今は、正体不明の捕食者が徘徊する危険地帯だ。
朔人は最後の急斜面を、木の根を掴んで這い上がった。視界が開け、目的としていた小さな平地が現れる。
「……ここなら」
朔人は荒い息を吐きながらバックパックを下ろした。ドサリという重い音が、不気味なほど静まり返った森に吸い込まれていく。
やはり、音がない。
夕暮れ時であれば、ヒグラシや野鳥たちが競うように声を上げるはずの時間帯だ。だが、周囲は真空の部屋に閉じ込められたかのように静寂を保っている。風に揺れる枝葉の音でさえ、何かに怯えているかのように頼りない。
朔人は恐怖を振り払うように、手早く作業に取り掛かった。
まずは拠点となるソロテントを設営する。迷彩柄のフライシートを被せ、周囲の茂みに溶け込むようにカモフラージュを施す。
次に、バックパックから本来の目的である調査機材を取り出した。
動体検知センサー付きのトレイルカメラが六台。暗闇でも鮮明に記録できる赤外線照射機能を備えた最新モデルだ。
朔人は地図とコンパスを確認しながら、獣道が交差するポイントや、水場へと降りるルート上に、慎重に機材を設置して回った。
カメラを木の幹に固定し、背面カバーを開けて設定画面を呼び出す。
画角は広めに取ることにした。相手のサイズは不明だが、熊を殺すほどの大型獣だ。全身を確実に捉えられるよう、設置位置と角度を慎重に調整する。
ダイヤルを回し、センサーの感度を「高」に設定する。ただし、風で揺れる葉に反応しないよう、検知間隔は最短の一秒ではなく、あえて三秒に設定した。無駄な撮影でバッテリーを消耗するリスクを避けるためだ。
レンズの表面を専用のクロスで拭き、赤外線LEDの発光部が泥で隠れていないか確認する。さらに、バッテリーボックスの隙間には、湿気による腐食を防ぐためのシリコングリスを丁寧に塗り込んだ。
六台のカメラを、互いの死角を補い、かつターゲットの動線を立体的に捉えられるよう、計算し尽くされた包囲網として配置していく。その手つきは、単なる観察者ではなく、不可解な謎を解き明かそうとする、純粋な探求者のそれだった。
最後に、彼は自分自身と機材に向けて、無香料の消臭スプレーを念入りに吹きかけた。界面活性剤を含まない、プロの猟師が使う特殊な酵素分解スプレーだ。
相手は化学物質の匂いにも敏感かもしれない。人間の痕跡は、分子レベルで消去しておく必要がある。
作業を終え、テントに戻った頃には、日は完全に落ちていた。
森は漆黒の闇に包まれている。ヘッドライトの明かりを消すと、そこには自分の手のひらさえ見えないほどの濃密な闇が広がっていた。
気温は急速に低下していた。吐く息が白く濁り、テントのフライシートには夜露が張り付き始めている。
朔人は寝袋の上に胡座をかき、マグボトルに入れてきたコーヒーを口に含んだ。カフェインの苦味だけが、感覚を鋭敏に保つ頼みの綱だった。
一時間、二時間。
時間が泥のように重く澱んでいく。
自分の心音が、鼓膜の裏側で大きく脈打っているのが聞こえる。
『パキッ』
不意に、乾いた音が静寂を切り裂いた。
朔人は弾かれたようにタブレットを見た。
だが、センサーは反応していない。
「……風か」
強張った肩の力を抜く。風が枯れ枝を折っただけの音だ。だが、この極限の緊張状態では、落ち葉が一枚落ちる音さえも、巨大な足音のように聞こえてしまう。
その時、タブレットの画面が明滅した。
『カメラ4・検知』
朔人は息を呑んで画面をタップした。
モノクロの映像に、何かが映っている。
画面を横切ったのは、丸々とした野生のタヌキだった。だが、様子がおかしい。
普段なら餌を探して地面を嗅ぎ回るはずのタヌキが、石のように凝固している。その毛は逆立ち、小さな身体を小刻みに震わせていた。
タヌキは恐る恐る周囲を見回すと、餌を探すこともなく、逃げるように画面の外へと走り去っていった。
「怯えている……?」
天敵のいない夜の森で、あれほどパニックになっているのは異常だ。
朔人の背筋に、冷たい汗が伝う。
タヌキは「何か」を感じ取っていたのだ。まだカメラには映らない、しかし確実にそこに迫っている、圧倒的な強者の気配を。
モニターの中の世界は、死んだように動かない。
朔人は画面を見つめながら、研究室に残してきた伊香立の言葉を反芻していた。
『熊を殺すほどの戦闘力を持った、正体不明のキメラ』
もし遭遇すれば、命の保証はない。自分が持っているのは、気休め程度の熊除けスプレーと、鉈が一本だけ。もし相手が熊以上の怪物なら、何の役にも立たないだろう。
それでも、知りたいという欲求が恐怖を上回っていた。
科学者としての業と言えるかもしれない。常識外れのデータが示した「進化の飛び地」。それがどのようなフォルムをして、どのように動くのか。この目で確かめずにはいられなかった。
夜が更けるにつれ、森の冷気が地面から染み出してくる。
朔人はダウンジャケットを着込み、身じろぎもせずにモニターを監視し続けた。
静寂は依然として続いている。
だが、その静けさは、平和な眠りではなく、嵐の前の凪のような、重苦しい予兆を孕んでいた。
◇
山に入ってから、三日が過ぎようとしていた。
張り詰めた緊張感は、時間の経過とともに重く湿った疲労へと変わっていた。
朔人は狭いテントの中で、膝を抱えるようにして座り込んでいる。髭は伸び放題になり、目の下には濃い隈が刻まれていた。
この三日間、まともに眠っていない。
数時間おきに仮眠を取ろうとするのだが、わずかな物音――風が枝を揺らす音や、枯れ葉が落ちる音――がするたびに、脳が勝手に覚醒してしまうのだ。
あの熊を殺した「何か」が、テントのすぐ外まで来ているのではないかという強迫観念が、休息を許さなかった。
食料として持ち込んだエナジーバーを齧り、ぬるくなった水を流し込む。
味などしない。ただ、思考を維持するためのカロリーを摂取しているだけだ。
タブレットのバッテリー残量は、予備のバッテリーパックを含めても残り半分を切っていた。
「……今夜が、山場か」
朔人は掠れた声で呟き、モニターを見つめた。
画面には変わらず、緑がかったモノクロの静止画のような森が映し出されている。
もし今夜何も出なければ、一度下山して出直す必要がある。だが、一度人間の気配をさせてしまった以上、警戒心の強い野生動物がすぐに戻ってくるとは限らない。
チャンスは、この静寂が続いている今しかないのだ。
深夜二時。
森の冷気が最も深まる時刻、その瞬間は唐突に訪れた。
『ピピッ』
電子音が、死んだような静寂を引き裂いた。
朔人の身体がバネのように跳ねた。
眠気など一瞬で吹き飛ぶ。彼はタブレットを鷲掴みにし、アラートが表示されている「カメラ3」のウィンドウを拡大した。




