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ゆりかご 〜列島の生態系を侵食する、未知なる脅威へ挑む〜  作者: 久能のの


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06 正体

 伊吹大学の研究室に戻った頃には、日付はとっくに変わり、午前三時を回っていた。

 深夜のキャンパスは静まり返り、研究棟の窓ガラスには、疲労の色を隠せない二人の男の姿が亡霊のように映っている。

 室内には、遺伝子解析装置の低い駆動音だけが、絶え間なく響いていた。

 サンプルセットから数時間。抽出、PCR増幅、そしてシーケンス。通常なら数日かかる工程を、最新鋭の機器と伊香立の熟練した手腕で強引に短縮しているが、それでも待つ時間は永遠のように感じられた。


 朔人はパイプ椅子に深く沈み込み、冷め切ったコーヒーを口に運んだ。泥水のように苦い液体が、かろうじて意識を繋ぎ止めている。

 隣の伊香立も無言だ。貧乏揺すりをする彼の足音が、張り詰めた室内の空気を細かく揺らしていた。

 もし、何も出なかったら。あるいは、単なる既存種の変異だったら。

 そんな不安と期待が入り混じる沈黙の中、不意に電子音が鳴り響いた。


「……出ますよ、先生」


 操作盤に向かう伊香立の声が、上擦った。

 彼の指先がエンターキーを叩くと、モニター上に解析結果のウィンドウがポップアップした。

 BLAST(塩基配列アライメント検索)の結果が表示される。取得したDNA配列を、世界中の生物の遺伝子データベースと照合し、どの生物に近いかを特定するプログラムだ。

 朔人は椅子の背もたれから身を乗り出し、画面を凝視した。

 そこには、紀伊山地の奥深く、あの熊の死体から採取した「未知の捕食者」の正体が記されているはずだ。


「これは……」


 画面を目で追っていた伊香立が、困惑したように眉を寄せた。


「エラーでしょうか? それとも、サンプルの汚染か……」

「どうしてそう思う?」

「だって、滅茶苦茶ですよ。これを見てください」


 伊香立が指差した画面には、一致した生物種を示すカラーバーが表示されている。通常なら、一つの種を示す単色が長く伸びているはずだ。

 だが、目の前のグラフは違った。

 イヌ科(Canidae)を示す青いバーと、有鱗目(Squamata)を示す赤いバーが、まるでモザイク画のように交互に、そして複雑に入り組んで表示されていたのだ。

 ある領域はオオカミと完全に一致し、その直後の領域はトカゲやワニの遺伝子が現れる。自然界では決して交わることのない二つの色が、一つの螺旋の中で気味悪く明滅していた。


「塩基配列のパターンが一定しません。まるで、複数の生物のサンプルをごちゃ混ぜにして解析したみたいだ」


 伊香立は苛立たしげにキーボードを叩き、再解析のコマンドを入力しようとした。

 無理もない。実験室において、純度の低いサンプルや手技のミスによる汚染は日常茶飯事だ。常識的な研究者であれば、まず自分のミスを疑うのが正しい。


「待て、伊香立君。止めなくていい」


 朔人はその手を制した。


「汚染じゃない。波形を見てくれ」


 朔人は画面の端に表示された、蛍光波形のグラフを指差した。


「もし複数の生物の体液が混ざったのなら、波形は重なり合ってノイズだらけになるはずだ。だが、このデータはどうだ? ピークは鋭く、ベースラインもクリアだ。これは紛れもなく『単一の個体』から抽出されたDNAだよ」

「単一の個体……? ですが先生、見てくださいよ。この領域は明らかにイヌ科の、それも大型のオオカミに近い配列です。でも、こっちの数百ベースペア先には、ワニやトカゲに見られる爬虫類特有の反復配列が組み込まれている。こんな継ぎ接ぎだらけの遺伝子を持つ生物なんて……」


 伊香立の言葉が尻すぼみに消えた。

 あり得ない。だが、目の前のモニターは、それが「ある」と冷徹に告げている。

 朔人は眼鏡を外し、指の腹で目頭を強く押さえた。


「オオカミの爪と、ワニの力。現場に残された矛盾する二つの傷痕……その答え合わせが、これだ」


 朔人は再び眼鏡をかけ、モニター上の配列を指でなぞった。


「もちろん、全く異なる種の生物が、環境への適応の結果として似たような特徴を持つことはある。イルカとサメの流線型や、鳥とコウモリの翼のような『収斂進化』の例だ。だが、それはあくまで外見や機能の話であって、遺伝子の設計図そのものが入れ替わるわけじゃない」

「ええ、その通りです。哺乳類はどこまで行っても哺乳類の遺伝子を持つはずです」

「だが、このデータは違う。まるで日本語の小説の中に、脈絡なくフランス語の段落が挿入されているようなものだ。自然界の交配や突然変異で、こんなモザイク状の配列が生まれる確率は……限りなくゼロに等しい」


 研究室の空気が、急激に温度を失ったように感じられた。

 二人は無言で顔を見合わせた。伊香立の顔色は蒼白になり、唇が微かに震えている。

 彼もまた、優秀な研究者の卵だ。朔人の言葉が意味する恐ろしい事実に、気づかないはずがない。


「先生……じゃあ、こいつは一体何なんですか? 進化の系統樹のどこにも属さない、分類不能な生物が、あの山にいるとでも?」

「分からない。だが、事実としてデータはここにある」


 朔人はモニターから視線を外し、窓の外の闇を見つめた。


「生物学の常識では説明がつかない。だが、この異常な遺伝子を持つ『何か』が、現実に生態系の頂点である熊を殺している。捕食のためか、縄張り争いか、あるいは我々の知らない別の理由か……目的は分からないが、脅威であることに変わりはない」


 伊香立は呆然とモニターを見つめたまま、力なく首を振った。


「信じられません……。エラーであってほしかった。こんな生物が実在するなんて」

「ああ。僕だって、できることなら見間違いだと思いたいよ」


 朔人は重い口調で同意し、椅子に深く沈み込んだ。


「だが、これで辻褄が合ってしまう。全国で起きている頂点捕食者の消失。現場に残された、異質な殺害痕。そして、この不可解なDNA。我々が相手にしているのは、既知の動物図鑑には載っていない存在だ」


 朔人の脳裏に、現場で感じた寒気が蘇っていた。

 正体不明の脅威。それは、ウイルスや気候変動のような形のないものではなく、実体ある獣として日本の山々に潜んでいる。


「伊香立君。これを警察や行政に報告して、彼らは動くだろうか」

「……難しいでしょうね。このデータを見せたところで、『サンプルの取り違えだ』と一笑に付されるのがオチです。それに、『遺伝子の混ざった怪物がいます』なんて通報したら、僕たちの正気を疑われます」

「そうだな。証拠が足りない。誰もが見て納得するような、動かぬ証拠が必要だ」


 朔人は立ち上がり、ホワイトボードに貼られた日本地図を見上げた。赤いマーカーで印をつけた消失ポイントが、今は不気味な侵略の足跡に見える。


「伊香立君、僕はもう一度山へ戻る」

「えっ!? し、死にに行くようなものですよ! 相手は熊を殺す化け物なんですよ?」


 伊香立が慌てて立ち上がり、朔人を制止しようとした。


「分かっている。だが、放っておけば被害は拡大する一方だ。それに、この正体不明の生物が生態系にどのような影響を与えるのか、誰かが突き止めなければならない」


 朔人は振り返り、後輩の肩に手を置いた。その瞳には、恐怖を理性で抑え込んだ、静かな決意が宿っていた。


「奴らの姿を捉え、その生態を解明する。それができるのは、この異常性に気づいた僕たちだけだ」

「……先生」


 伊香立は迷うように視線を彷徨わせたが、やがて覚悟を決めたように大きく息を吐き出した。


「分かりました。でも、約束してください。絶対に無理はしないと。危険だと思ったら、すぐに引き返してください」

「ああ、約束するよ」


 朔人は短く答え、再び冒険の準備を始めた。

 だが、その準備は先日のフィールドワークとは明らかに異なっていた。

 彼はロッカーの奥から、頑丈なペリカンケースを引きずり出した。埃を払って開けると、中には物々しい機材が収められている。

 まずは、動体検知センサー付きのトレイルカメラが六台。暗闇でも鮮明に記録できる赤外線照射機能を備えた最新モデルだ。

 次に、大型動物捕獲用の麻酔銃。鮮やかなオレンジ色のシリンダーがついたそれは、本来なら猛獣の保護活動にしか使われない代物だ。

 そして、自身の身を守るための装備もグレードが上がっていた。

 ツキノワグマ用の撃退スプレーは予備を含めて二本。腰には枝打ち用の鉈ではなく、より刃渡りの長い重厚な剣鉈。さらに、衣服の下に着込むための防刃ベストまで引っ張り出した。

 

「……戦争にでも行くんですか?」


 伊香立が呆れたように、しかし震える声で尋ねた。


「相手は熊を殺す捕食者だ。万全の準備をして挑まなければ、観察どころか、生きて帰ることさえできない」


 朔人は防刃ベストのベルトをきつく締め上げた。その表情には、未知の脅威に対する緊張感と、何としてでも証拠を掴もうとする研究者の執念が同居していた。

 安全な場所からの観察者ではいられない。相手が生態系のルールを逸脱した存在である以上、こちらも命懸けで懐に飛び込まなければ、その正体は暴けない。


「行くぞ」


 重装備のバックパックを背負い、朔人は研究室を後にした。

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