05 足音(2)
道なき道を歩くこと、二時間あまり。
朔人の息は既に上がり、太腿の筋肉は悲鳴を上げていたが、案内役の猟師――堅田は、まるで平地を歩くかのような足取りで黙々と先を進んでいた。
標高が上がるにつれ、植生は深くなり、周囲の空気は水気を含んで重たく肌にまとわりつく。
何より異様なのは、その静けさだった。
音響生態学の観点から言えば、春の山は本来、喧しいほどのノイズに満ちているはずだ。縄張りを主張する野鳥のさえずり、繁殖期を迎えた虫の羽音、木々を揺らす風の音。それらが重なり合って、豊かな「音の風景」を形成する。
だが、今のこの森には、自分たちの踏みしめる枯れ葉の音と、荒い呼吸音以外、何の音もしない。
文字通り、死んでいるかのように静かだ。
獣道には新しい糞や足跡が一つもなく、風に揺れる枝葉の音以外、生き物の気配が完全に途絶えている。
まるで、生き物たちが息を殺して何かが通り過ぎるのを待っているかのような、あるいは既に逃げ去った後のような、張り詰めた緊張感が漂っていた。
「……着いたぞ」
不意に堅田が足を止めた。
そこは、鬱蒼とした木々に覆われた、切り立った崖下のくぼ地だった。すぐ脇を沢が流れているが、現場となった岩場は水面より一段高く、乾いた状態が保たれている。
その岩場の上に、異質な黒い塊が横たわっていた。
朔人は乱れた呼吸を整え、眼鏡の位置を直してから、慎重にその「塊」へと歩み寄った。
鼻を突くのは、鮮烈な鉄錆のような血の匂いと、内臓が腐敗し始めた独特の甘ったるい腐臭。
そこに横たわっていたのは、紛れもなくツキノワグマの死骸だった。
体長は一・五メートルほど。艶のある黒い毛皮と、胸元の白い三日月模様が、かつてこの個体が若く健康な雄であったことを物語っている。
だが、その体躯は無残に捻じ曲げられ、原形を留めていなかった。
「……ひどいな」
朔人はゴム手袋を装着し、死骸の傍らに膝をついた。
近くで見ると、その破壊の凄まじさに息を呑む。
まず朔人が気になったのは、この死体が「ここにある」という事実そのものだった。
「堅田さん。他の動物たちは影も形もなく消えているものがほとんどなのに、なぜこの熊だけが残っていたんでしょうか? 犯人が捕食目的だとしたら、食べ残すにしても不自然です」
「上を見てみな」
堅田が顎で頭上を指した。
見上げると、数十メートル上の崖から突き出した太い木の枝が、無惨にへし折れているのが見えた。
「おそらく、崖の上で襲われて、そのままここまで落ちてきたんだろう。ここは木々が屋根みたいに空を隠してるし、上からは死角になる。人間でも、沢登りしなきゃ見つからねえ場所だ」
「なるほど……。犯人は獲物を見失ったか、あるいは捕食を諦めたか」
朔人は納得して頷いた。落下による隠蔽。それが、この貴重なサンプルが「消失」を免れた理由だったのだ。
朔人は意識を検分へと戻した。
まず目を引くのは、喉元の傷だ。気管ごと頸動脈が切断されているが、その切り口は鋭利な刃物でスパッと切ったように滑らかだ。
「この鋭さは、通常の獣の牙や爪じゃない」
朔人はピンセットで傷口を開き、内部組織を確認する。
「傷の深さと幅からして、凶器は四本の長い鉤爪。しかも、肉を『引き裂く』のではなく、カミソリのように『切り裂いて』いる。断面の細胞が潰れていない。これほど鋭利な爪を持つ生物は、日本の哺乳類には存在しない」
大型のネコ科動物でさえ、爪はもっと丸みを帯びている。これはまるで、研ぎ澄まされたナイフを指先に生やした何者かの仕業だ。
だが、真の異常性はそこではなかった。
朔人の視線は、熊の胴体部分へと移った。
肋骨のある胸部周辺が、不自然に陥没している。落下時の衝撃ではない。まるで巨大な力で周囲から締め上げられたかのように、肋骨が内側に向かって粉砕され、内臓ごと押し潰されていた。
「圧挫痕……。それも、桁外れの圧力だ」
朔人は肋骨の折れ方を触診し、眉間に深い皺を刻んだ。
「熊の肋骨は強靭だ。それを生きたまま、全身くまなくへし折るなんて……。これほどの締め付けを行うのは、アナコンダのような巨大な蛇か、あるいは強力な顎を持つワニのような爬虫類くらいだ」
朔人の脳内で、二つの矛盾する事実が衝突した。
喉元には、鋭利な爪による斬撃。
胴体には、圧倒的な筋力による絞殺痕。
前者は俊敏なハンターの特徴であり、後者は待ち伏せ型のパワーファイターの特徴だ。
自然界において、この二つの武器を同時に持ち合わせる生物はいない。狼が獲物を絞め殺すことはないし、大蛇が獲物を切り裂くこともない。
だが、目の前の死体には、その両方の痕跡が、同じ時間軸で刻まれている。
朔人は傷口の血液凝固の状態を観察した。どちらの傷も、凝固の進行度が同じだ。つまり、ほぼ同時に負った傷ということになる。
二種類の獣が連携した? いや、野生動物がそんな高度な連携プレーをするはずがない。
「おい、先生。何か分かったか?」
少し離れた場所で銃を構え、周囲を警戒していた堅田が声をかけた。
朔人はゆっくりと顔を上げ、科学者としての見解を口にした。
「……あり得ません」
「あ?」
「傷の痕が矛盾しています。喉を切り裂いたのは、おそらく大型の肉食獣のような鋭い爪を持つ生物。しかし、全身の骨を砕いたのは、巨大な爬虫類のような締め付ける力を持つ生物です」
朔人は血に濡れた手袋を見つめた。
「まるで、狼と大蛇が協力して一頭の熊を襲ったか……あるいは」
そこから先の言葉を、朔人は飲み込んだ。
あるいは、その「両方の特徴」を併せ持つ、単一の生物が存在するか。
そんな怪物が実在するなど、生物学の常識では万に一つもあり得ない。だが、目の前の「物質」は、雄弁にその可能性を語っている。
もし後者だとしたら……それはもはや、既知の生態系には収まりきらない「異常」だ。進化の系統樹のどこにも属さない、空白のピースがそこにある。
「……あるいは、なんだ?」
堅田が怪訝そうな顔で訊ねる。
「いえ。確証を得るには、持ち帰って分析する必要があります」
朔人は鞄からサンプル採取キットを取り出した。
滅菌された綿棒と保存容器。彼は慎重に、喉の裂傷部分と、圧迫された皮膚の表面から、付着している体液や組織片を拭い取った。
雨が降れば洗い流されてしまうような、微細な痕跡。だが、ここには犯人のDNA――その正体を暴くための設計図が残されているはずだ。
最後に、折れた肋骨の隙間に挟まっていた、数ミリほどの奇妙な物体をピンセットで摘み上げた。
それは、黒光りする硬質な欠片だった。
一見すると割れた爪のようにも見えるが、その質感は爬虫類の鱗に近い。
朔人はポケットからルーペを取り出し、その欠片を拡大して覗き込んだ。
「……なんだこれは」
表面の角質層は、明らかに爬虫類特有のパターンを描いている。だが、その基部――皮膚に埋まっていたと思われる部分は、哺乳類の体毛の毛根に近い構造をしていた。
本来なら交わるはずのない二つの形質が、一つの組織の中で無理やり融合している。
自然の進化では絶対に起きない構造的矛盾。
朔人はその欠片を試験管に封入し、しっかりと蓋を閉めた。
震えそうになる指先を、理性の力で抑え込む。
ただの仮説だった「未知の捕食者」が、今、質量を持った「現実」として試験管の中に収められた。
この山には、いる。
熊を絞め殺し、切り裂くことのできる、分類不能な何かが。
その時だった。
ざわり、と背後の森が揺れた気がした。
朔人は弾かれたように振り返った。
視界には鬱蒼とした木々があるだけだ。だが、その奥の深い闇が、じっとこちらを覗き込んでいるような、得体の知れない圧迫感を感じる。
風の悪戯か、それとも神経が過敏になっているのか。
「長居は無用だ」
堅田が鋭く空を見上げ、猟銃の安全装置を外した。
「風が変わった。血の匂いを嗅ぎつけて、他の奴らが来るかもしれねえ。とっとと降りるぞ」
「はい」
朔人はバックパックにサンプルを厳重にしまい込むと、もう一度だけ、物言わぬ熊の骸を振り返った。
生態系の王者は、無惨な肉塊となって静かに横たわっている。それは、これから始まる生態系の崩壊と、人知を超えた脅威の幕開けを告げる、静かなる警鐘だった。
気配は近づいている。姿は見えないが、確実にそこに「いる」。
朔人は恐怖と、それ以上の使命感を胸に、堅田の背中を追って深い森を後にした。




