04 足音(1)
紀伊半島の深奥部に位置するその村は、まるで深い森の息吹に飲み込まれそうな佇まいを見せていた。
急峻な山肌にしがみつくように、古びた日本家屋が点在している。だが、奇妙なことに、どの家も真昼間だというのに雨戸が堅く閉ざされ、まるで何かに怯えるようにひっそりと静まり返っていた。
谷底を流れる川の音が、湿った空気とともに集落全体を包み込んでいる。
朔人が乗ったレンタカーは、すれ違いも困難な細い山道を抜け、ようやく公民館に隣接された猟友会の集会所へとたどり着いた。車を降りると、カーテンの隙間からこちらを窺う無数の視線を感じたが、朔人が顔を向けるとすぐに気配は消えた。
村全体が、得体の知れない恐怖に支配されている。朔人の肌が粟立った。
木造平屋建ての古びた建物の戸を叩くと、中からは紫煙とともに、低い話し声が漏れ聞こえてきた。
意を決して引き戸を開ける。途端に、土と獣の脂、そして安いタバコの匂いが混じり合った独特の空気が鼻をついた。
板張りの広間には、五、六人の男たちが車座になって酒を飲んでいた。全員が日に焼けた浅黒い肌と、節くれだった太い指をしている。彼らの視線が一斉に、入り口に立つ余所者に注がれた。その眼光は、獲物を値踏みする野生動物のように鋭く、排他的だった。
「……誰だ、あんた」
最年長と思われる白髪の男が、一升瓶を傾けながら低い声で言った。
朔人は一歩踏み出し、深く頭を下げた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。伊吹大学の晴嵐と申します。この地域の野生動物について、皆さんにどうしてもお話を伺いたくて参りました」
「大学の先生、だと?」
男たちの間に、白けた空気が流れた。
「わざわざ都会からご苦労なこったが、俺たちに話せることなんざねえよ」
「最近、山で動物が減っているという報告が……」
「帰んな」
白髪の男が、朔人の言葉を遮った。
「役場の連中にも言ったがな、山のことなんざ山にしか分からねえんだ。あんたみたいな学者が、クーラーの効いた部屋で数字をいじくり回して分かるもんじゃねえよ」
横にいた別の男が、吐き捨てるように続けた。
「どうせまた、勝手に保護区の線を引いて、俺たちの狩場を奪いに来ただけじゃねえか。俺たちの生活がどうなろうと、知ったこっちゃねえんだろ?」
男の言葉には、長年蓄積された行政や学者への不信感が滲んでいた。彼らにとって山は生活の場であり、命を懸ける職場だ。それを机上の空論で荒らされることへの怒りは、朔人の想像以上に根深いものだった。
他の男たちも嘲るような笑いを浮かべた。そこには、現場を知らない人間に対する根深い不信感と、自分たちの領域に土足で踏み込まれることへの拒絶があった。
朔人は表情を変えず、しかし引き下がることもなく、静かに彼らを見返した。
彼らの態度は想定内だ。むしろ、毎日命がけで山に入っている人間だからこそ、軽々しい言葉など信じないのだろう。
「おっしゃる通りです。僕は山のことは何も知りません。風の匂いも、獣の気配も読めない」
朔人は土間に降り立つと、男たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。そして、出されていた安酒を手に取り、躊躇いなく一気に煽ってみせた。
喉が焼けるような刺激に顔をしかめながらも、空になった杯を男たちに見せる。
「だからこそ、皆さんの『感覚』をお借りしたいんです。僕のデータと、皆さんの経験。それを合わせなければ、この山で起きている『異常』には太刀打ちできない」
白髪の男が、わずかに眉を動かした。学者風情が気取った態度を見せるかと思いきや、自分たちの流儀に歩み寄ろうとしたことに、少しだけ毒気を抜かれたようだ。
朔人は鞄からタブレットを取り出し、地図アプリを起動した。
「これを見てください」
彼が画面を男たちに向けると、そこには先ほど研究室で分析したばかりの、紀伊山地を中心とした真っ赤なヒートマップが表示されていた。
「これは、直近一ヶ月における大型野生動物の生息反応の消失データです。日本全国で減少傾向にありますが、この紀伊山地だけは異常です。他の地域の倍以上の速度で、生き物たちが消えている」
男たちの視線が、わずかに画面へと引き寄せられた。
「それがどうした。流行り病か何かだろ」
「いいえ、確かに一部の死体は発見されています。ですが、減少の規模に対して、発見される数が圧倒的に少なすぎる。病気によるパンデミックなら、山は死体で溢れかえっているはずです。それに……」
朔人は画面を切り替え、消失した動物のリストを表示した。
「見てください。ヒグマ、ツキノワグマ、イヌワシ。これらは本来、生息域も習性も全く異なります。クマは森を歩き、ワシは空を飛ぶ」
朔人は一呼吸置き、真摯な眼差しで彼らに問いかけた。
「皆さんは山のエキスパートだ。教えてください。これほどバラバラな習性を持つ動物たちが、申し合わせたように同時に姿を消す……そんな現象を、これまでの経験の中で一度でも見たことがありますか?」
集会所に沈黙が落ちた。
タバコの煙が、淀んだ空気の中をゆっくりと昇っていく。
男たちの顔から嘲笑が消え、代わりに困惑と、隠しきれない不安の色が浮かび上がっていた。彼らもまた、肌感覚で気づいていたのだ。今年の山は、何かがおかしいと。
「……確かに、妙だ」
重い口を開いたのは、隅で黙っていた隻眼の猟師だった。
「今年は、静かすぎる。鳥の声もしねえ。いつもなら畑を荒らしに来る猪や猿どもまで、何かに怯えるように山奥へ引っ込んで、気配を消しちまった」
「ああ。それに、一番おかしいのは熊だ」
白髪の男が、忌々しげに杯を置いた。
「この時期の熊は冬眠明けで腹を空かせて、活発に動き回るはずだ。だが、今年は足跡一つ見つからねえ。山の主たちが、ごっそりいなくなっちまった」
朔人は大きく頷いた。
「天敵がいないのに怯えている……。彼らは、人間には感じ取れない『山の異変』を本能で察知しているのかもしれませんね。その異変を突き止めたいんです。どんな些細なことでも構いません。変わったことや、奇妙な痕跡を見たことはありませんか?」
男たちは顔を見合わせた。迷うような素振りを見せた後、白髪の男が低い声で語り始めた。
「……噂だ。仲間内じゃ、おかしな話が出回ってる」
「どんな話ですか?」
「『見たこともねえ獣』の話だ。影しか見てねえ奴もいれば、奇妙な鳴き声を聞いた奴もいる。だが、一番おかしいのは死体だ」
男は朔人をじっと見据えた。その瞳には、得体の知れないものを見てしまった恐怖が揺らめいていた。
「三日前だ。源流近くの沢で、熊の死体を見つけた。まだ若い雄のツキノワグマだ」
「熊の、死体……? 病死ですか?」
「いや。食い荒らされた跡でもねえ。あいつは……殺されてたんだ」
男の声がわずかに震えた。
「熊ってのは頑丈だ。並大抵のことじゃ死なねえ。だが、その熊は……まるで万力で締め上げられたみたいに、全身の骨が粉々に砕かれていたんだ。その上で、喉笛だけが鋭い刃物でスパッと切り裂かれていた」
男は自分の首元を手刀でなぞってみせた。
「骨を砕く馬鹿力と、肉を切り裂く鋭利な爪。そんな芸当ができる獣なんざ、この山にはいねえ。ましてや相手は熊だぞ? ありゃあまるで、もっと凶悪な別の何かに、喧嘩で負けたみたいな死に様だった」
朔人の背筋に、冷たいものが走った。
頂点捕食者である熊を、一方的にねじ伏せ、殺害する力。
骨を砕く圧力と、鋭利な裂傷。
それは、既存の単一の捕食者では説明がつかない痕跡だ。
「その場所へ、案内していただけませんか」
朔人の頼みに、男たちは渋い顔をした。
「よせ。場所は山の奥深く、道なき道を行くことになる。それに、もし本当に熊を殺すような化け物がいるなら、丸腰の学者先生が行っていい場所じゃねえ」
「危険は承知の上です。ですが、もしその『未知の獣』が実在するとしたら、放っておけば生態系は取り返しのつかないことになる。いや、もうなっているのかもしれない」
朔人は男たちの目を真っ直ぐに見つめた。そこには、研究室で見せる穏やかさとは違う、真実を追い求める狩人のような覚悟が宿っていた。
「僕がここへ来たのは、論文を書くためじゃありません。この山で起きていることを止めに来たんです。皆さんが感じている恐怖の正体を、僕に暴かせてください」
白髪の男――堅田は、しばらく朔人を値踏みするように睨んでいた。彼もまた、自分の中にある名状しがたい恐怖を、誰かに解明してほしいと願っていたのかもしれない。
やがて彼は、ふんと鼻を鳴らして立ち上がった。
「……口だけじゃねえようだな。ついてきな。ただし、へばっても背負ってはやんねえぞ」
「感謝します」
朔人は深く頭を下げ、急いで装備を整えた。
男たちが猟銃を肩に担ぎ、古びた集会所を出ていく。朔人もその後を追って、霧の立ち込める深山へと足を踏み入れた。
そこには、彼の想像を遥かに超える「現実」が待ち受けていることを、まだ誰も知らなかった。




