03 予兆(3)
時間は泥のように重く、しかし矢のように速く過ぎ去っていった。
東の空が白み始め、ブラインドの隙間から差し込んだ朝日が、薄暗い研究室に一筋の直線を引いた。
空調の低い駆動音だけが響く室内には、何杯目かも分からないコーヒーの空き缶と、山積みになった資料が散乱している。
デスクに突っ伏して仮眠を取っていた伊香立が、スマートフォンのアラームが鳴る寸前に身じろぎし、重いまぶたを擦りながら顔を上げた。
彼の視線の先には、昨晩と変わらぬ姿勢でモニターに向かい続ける朔人の背中があった。
「……先生、寝てないんですか?」
「目が冴えてしまってね。それより伊香立君、そっちはどうだ?」
朔人は振り返らずに尋ねた。その声には疲労の色よりも、未知の謎に対する昂揚感が滲んでいる。
伊香立は大きく伸びをして凝り固まった背中をほぐすと、手元のタブレットを操作して調査結果をまとめたファイルをサーバーに上げた。
「完敗です。過去五十年分の主要な生態学論文、および環境省のフィールドデータをすべて洗いましたが、今回のように『系統樹的に離れた生物群』が『同時期』に淘汰された事例は、一件も見つかりませんでした」
「海外の事例は?」
「主要なものは確認しましたが、類似案件はありません。特定の種が感染症で激減するケースや、環境汚染で一帯の生物が死滅するケースはあっても、今回のようにピンポイントで、しかもバラバラな種が狙い撃ちにされる現象は、記録上、人類が初めて観測するものです」
伊香立の報告を聞き、朔人は満足げに頷いた。
「ありがとう。これで『既知の現象ではない』ということが証明された。消去法が一つ進んだよ」
「先生の方は、何か見つかりましたか?」
「ああ。こっちへ来て、このヒートマップを見てくれ」
朔人に促され、伊香立は椅子を引きずってモニターの横へ移動した。
画面には日本地図が表示されている。昨晩のニュース映像とは異なり、そこには環境省のモニタリングシステムから抽出された、ヒグマやイヌワシといった今回被害が出ている特定種の目撃情報と個体数推移のデータが、色分けされた点でプロットされていた。
北海道、東北、中部、四国、九州。日本列島の脊梁をなす山脈沿いに、個体数減少を示す寒色が広がっている。
「全体的に減少傾向にあるのはニュースの通りだ。だが、減少の『速度』に着目してデータを解析し直したところ、妙な特異点が見つかった」
朔人がキーボードを叩くと、地図上の一点、紀伊半島の山間部が赤く点滅し始めた。
「紀伊山地……ですか?」
「そうだ。他の地域では、過去一ヶ月かけて緩やかに減少グラフを描いているのに対し、この紀伊山地エリアだけは、減少のスピードが倍以上に達している。極めて急激な角度だ」
朔人は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、画面上の数値を指差した。
その瞳は、数字の羅列の中に潜む「空白」を見逃さない。
彼は普段から、膨大なフィールドデータの中から、あるはずの数値が欠落している箇所を見つけ出し、そこで起きた事象を逆算することを生業としている。データ上の沈黙に耳を澄ませ、そこに隠された真実を読み解くのが彼のスタイルだった。
「さらに、この地域での『目撃情報の消失』は、ある地点を中心として同心円状に広がっているわけではない。ランダムに、しかし確実に、まるで地図上の点を一つずつ消しゴムで消していくように、個体の反応が途絶えている」
「感染症のように広がるのではなく、個別に消されていく……」
伊香立は呟き、眉間に深い皺を寄せた。
「奇妙ですね。まるで、誰かが順番に狩って回っているみたいだ」
「その通りだ」
朔人は椅子を回転させ、伊香立の方へ向き直った。
「伊香立君。僕は昨晩、ウイルス説も毒物説も否定した。気候変動や環境変化でも説明がつかない。では、今回の件で一番『奇妙な点』はどこにあると思う?」
「奇妙な点、ですか? 被害の規模や、対象の偏りではなく?」
「それも重要だが、もっと物理的な結果の話だよ。もし仮に、これだけの数の大型獣が病死や餓死で死に絶えたとしたら、今の山はどうなっているはずだ?」
「それは……腐乱死体が溢れかえり、疫病やさらなる汚染が広がっているはずです」
「その通りだ。だが、現場の報告書をもう一度よく見てくれ。死体の発見数はどうなっている?」
言われて伊香立は手元の資料に目を落とし、数秒後、ハッとしたように顔を上げた。
「……少ない。減少した推定個体数に対して、発見された死骸の数が圧倒的に足りません」
「そうだ。まるで神隠しにでも遭ったかのように、彼らは綺麗さっぱり消えている。この『消失』こそが、今回の現象の本質なんだ」
朔人は地図上の空白を指でなぞった。
「質量保存の法則を無視できない以上、消えた肉体はどこかへ移動したことになる。自力で移動したのでないなら、他力によって運ばれたか……あるいは、その場で『他の生物の血肉』へと変換されたかだ」
伊香立はハッとして息を呑んだ。朔人が導き出そうとしている結論の輪郭が、ようやく見えた気がした。
「……つまり、死体が残らないのは、丸ごと食べられてしまったからだと? まさか……『捕食』だとおっしゃるんですか?」
朔人は無言で頷いた。
伊香立は呆れたように笑い、首を振った。
「先生、いくら何でも飛躍しすぎです。相手はヒグマやイヌワシですよ? 地上の王者と空の王者だ。彼らを一方的に捕食できる生物なんて、この日本には……いや、地球上に存在しません」
伊香立の反論はもっともだった。生態系ピラミッドの頂点に立つ彼らは、成獣になれば天敵など存在しない。だからこそ「頂点捕食者」と呼ばれるのだ。
「それに、仮にそんな怪物がいたとして、なぜ彼らを襲うんです? エネルギー効率の観点から見ても割に合いません。肉食動物の体は筋肉質で可食部が少ないし、反撃されるリスクも高い。捕食者が狙うなら、もっと捕まえやすくて栄養価の高い草食動物を狙うはずです」
「君の言うことは、生物学のセオリーとしては百点満点だ」
朔人は穏やかに肯定しながらも、その表情を崩さなかった。
「だが、疫病でも密猟でもなく、数トンもの有機物が短期間で森から消失している。この『物理的な不在』を説明できる生物学的な現象は、上位存在による摂取――捕食以外に思いつかない」
朔人は立ち上がり、窓の外に広がる朝の景色を見下ろした。平和な日常が広がるその向こう側、深い山々の中で起きている異変に思いを馳せる。
「既存の生態系ピラミッドの中に答えがないのなら、答えはその『外側』にあるはずだ。未知の捕食者……あるいは、我々の知らないルールで動く何者かが」
伊香立は反論しようと口を開きかけたが、朔人の横顔を見て言葉を飲み込んだ。
この人は、本気だ。
突飛な思いつきを口にしているのではない。あらゆるデータを検証し、論理の迷路を突き進んだ結果、たった一つ残った出口が、どれほど非常識な場所であっても、そこへ踏み出すことを恐れていないのだ。
「……ですが先生。そんな未知の捕食者がいるとして、どうやって実証するんですか? 現場には死体も残らない、データもない。これじゃあ論文どころか、仮説の立証すら不可能です」
「その通りだ。だからこそ、行く必要がある」
朔人はデスクに戻ると、手早くPCをシャットダウンした。そして、部屋の隅にあるロッカーを開け、自身の「相棒」たちを取り出し始めた。
まずは、年季の入ったフィールドスコープ。レンズの縁は傷だらけだが、朔人が学生時代から愛用している信頼できる目だ。
次に、特注のサンプル採取キット。市販のものでは強度が足りないため、強化ガラス製の試験管と、特殊な溶液が入った密閉容器が整然と並んでいる。
そして最後に、革製の鞘に収められたサバイバルナイフ。
「先生、そのナイフ……」
「ああ。ヒグマと遭遇した時の、最後のお守りだ」
朔人はナイフをベルトに装着し、白衣を脱ぎ捨てた。その下に着ていたのは、いつもの丈夫なフィールドワーク用のシャツだ。
使い込まれたバックパックに必要な機材を詰め込む手つきに、迷いはない。一つ一つの道具が、彼の体の一部のように収まっていく。
「特異点である紀伊山地へ向かう。現場に残された痕跡――あるいは『不在の証明』こそが、この仮説を検証する唯一の鍵になるはずだ」
バックパックを肩に担ぎ、朔人は唖然とする伊香立に向かって、少年のような笑みを浮かべた。
「留守は任せたよ、伊香立君。講義の代講、頼めるかな」
「ちょ、ちょっと先生! いきなりそんな……!」
伊香立の悲鳴のような制止も聞かず、朔人は風のように研究室を後にした。
その足取りは軽く、未知への探求心に突き動かされる研究者のそれだった。
残された研究室には、朝の光の中に舞う塵と、これから始まる長い戦いの予感だけが漂っていた。




