24 ゆりかご(1)
キャンパスを彩る銀杏並木が、鮮やかな黄金色に染まっていた。
足元には落ち葉の絨毯が広がり、学生たちが歩くたびにカサカサと乾いた音を立てる。
初夏の湿った熱気の中で四国へと旅立ったあの日から、季節は二つ巡り、伊吹大学には穏やかな秋の空気が満ちていた。
理学研究科棟の大講義室は、二百人近い学生たちの熱気で溢れていた。
演壇に立つ朔人は、スライドを切り替えながら、いつになく熱のこもった口調で語りかけていた。
スクリーンに映し出されているのは、複雑な食物網の図と、遺伝的多様性を示す数式モデルだ。
「……このモデルが示す通り、一見すると無駄に見える『遊び』や『余剰』こそが、システム全体の破綻を防ぐ安全装置として機能しています。効率化を突き詰め、余計なものを削ぎ落としたシステムは、平時には高いパフォーマンスを発揮しますが、想定外のストレスに対しては極めて脆弱です」
講義が終盤に差し掛かった時、最前列に座っていた一人の男子学生がスッと手を挙げた。
黒縁の眼鏡をかけ、ノートパソコンに整然と講義録を取っていた彼は、朔人に指名されると、抑揚のない声で問いかけた。
「先生のお考えは理解できますが、それはあまりにコストがかかりすぎるのではないでしょうか。現代の遺伝子工学を用いれば、疾患リスクや劣性遺伝子を事前に排除し、種の平均値を底上げすることが可能です。『弱さ』を多様性という言葉で美化して温存するより、技術によって克服し、より強靭な個体群を作る方が、種としての生存確率は上がるはずです」
教室がざわりとした。
あまりに合理的で、冷徹な意見。だが、それは現代社会の一側面を鋭く突いた「正論」でもあった。
朔人はハッとしてその学生を見た。
その理知的な瞳の奥に、かつての恩師――唐崎宗介が持っていたものと同じ、効率至上主義の冷たい光を見た気がしたからだ。
「……君の言うことは、論理的には正しい」
朔人は教壇を降り、学生の目の前まで歩み寄った。
「だが、その『強靭な個体群』は、誰が決めた基準における強さだ? 現在の環境か? それとも、人間が想定しうる範囲内の未来か?」
学生は眉をひそめた。
「それは……現時点で予測可能なリスクに対する最適解、という意味です」
「そう、そこが落とし穴だ。自然界は常に、我々の予測を裏切り続ける」
朔人の脳裏に、かつてモニター越しに見た、あの雨の日の光景がフラッシュバックした。
紀伊半島の泥の中で、完璧に設計されたはずのキメラが、たった一つの成分の欠落で機能不全に陥り、無様にのた打ち回っていた姿。
そして、無駄だらけで脆弱なはずの人間たちが、知恵と協力によってその脅威を乗り越えた事実。
「私は見てきたんだ。人間の知性が考えうる『最強』の生物が、想定外の環境変化の前でいかに無力かを。……君の言う通り、技術で現時点の弱点を消すことはできるかもしれない。だが、それは同時に、未来の危機に対応するための『手札』を捨てることと同義だ」
朔人は教室全体を見渡しながら、熱を込めて語りかけた。
「ある環境下では『弱さ』とされる特徴が、別の環境では『強さ』に変わることがある。あるいは、その弱さを抱えているからこそ、個体同士が支え合い、群れとしての強固なネットワークが生まれることもある。……君たちが無駄だと切り捨てようとしているその『ノイズ』の中にこそ、種を絶滅から救うための鍵が隠されているんだ」
学生はしばらく朔人の目を見つめていたが、やがて何かを感じ取ったように、小さく頷いて着席した。
朔人はふぅ、と息を吐き、穏やかな表情に戻って演壇へと戻った。
「これは生物学だけの話ではありません。君たちの人生や、社会のあり方にも通じる話です。失敗を恐れて『正解』だけを選ぼうとしないでください。寄り道や、一見無意味に見える経験が、君たちという人間を豊かにし、予期せぬ困難に立ち向かうための『多様性』を育むのですから」
チャイムが鳴り、講義の終了を告げた。
学生たちがざわめきと共に席を立ち始める中、何人かが熱心に質問をしに演壇へと集まってくる。
朔人はその一人一人に丁寧に答えながら、自分の中にある変化を感じていた。
以前は、知識を伝えることが仕事だと思っていた。だが今は、知識の背後にある「生命への畏敬」を伝えることこそが、自分の使命だと感じている。
あの四国のドームで、恩師と交わした最後の対話が、彼の言葉に血肉を通わせていたのだ。
「先生、今日の話、すごく面白かったです。特に最後の『弱さが強さを生む』っていう視点、なんだか勇気をもらえました」
一人の女子学生が目を輝かせて言った。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。……僕自身も、最近になってようやくその本当の意味を理解したところなんだ」
朔人は苦笑しながら答えた。
それは、偉大な、そして哀しい反面教師から学んだ、生涯忘れ得ぬ教訓だった。
学生たちが去り、静まり返った講義室で、朔人は荷物をまとめた。
窓の外には、突き抜けるような青空が広がっている。
あの日、地下深くの閉鎖空間で見た人工の光とは違う、本物の太陽の光。
その眩しさに目を細めながら、朔人はふと、遠く離れた場所で同じ空を見ているであろう、ある女性のことを思った。
◇
「……で、例の件はどうなってるんですか?」
研究室に戻ると、伊香立が淹れたてのコーヒーを差し出しながら尋ねてきた。
彼はすっかり朔人の右腕としての地位を確立しており、その表情には以前のような頼りなさは消え、研究者としての自信が滲んでいた。
「例の件って、唐崎先生のことか?」
朔人はカップを受け取り、湯気の向こうで溜息をついた。
「相変わらずだよ。弁護団は精神鑑定を要求しているらしいが、先生自身は全ての罪状を認めて、一切の減刑を求めていないそうだ」
ニュースサイトを開くと、トップページには別の政治スキャンダルが踊っていた。
数ヶ月前、世間を震撼させた「バイオテロ未遂事件」の記事は、既にアーカイブの奥へと追いやられている。
唐崎宗介の逮捕と、彼の私設研究所の摘発は、世界的なニュースとなった。
だが、その全貌――特に「新人類創造計画」という狂気的な動機や、実際に生み出されたキメラたちの詳細なスペックについては、政府や国際機関の判断によって大部分が伏せられたままだ。
公には、違法な遺伝子操作による生物兵器の開発と、環境保護法違反という、極めて現実的で、かつ矮小化された罪状のみが発表されている。
「まあ、当然でしょうね」
伊香立はデスクの端に置かれた書類の山――警察や環境省から送られてきた、押収データの解析依頼書――を見ながら肩をすくめた。
「あんなSF映画みたいな話、まともに公表したらパニックになりますよ。『人間を改造して新人類を作る』なんて、ゴシップ誌でも扱いに困るネタです」
「ああ。それに、あの技術が悪用されることを何より恐れているんだろう。先生が残した『設計図』は、人類にはまだ早すぎる劇薬だ」
朔人は引き出しを開け、あの日唐崎から託されたメモリーチップを取り出した。
厳重なプロテクトがかけられたこのチップの中には、唐崎の研究データの全てが詰まっている。
それは、扱い方次第では世界を滅ぼす兵器にもなれば、多くの命を救う医療技術にもなる「パンドラの箱」だ。
当局には、危険性の高い部分を削除したダミーデータと、環境修復に必要な情報だけを渡してある。核心部分である「マスターデータ」は、朔人の判断で封印されていた。
「でも、先生」
伊香立が真面目な顔で言った。
「世間がどう扱おうと、僕たちは知っています。あの事件が、単なるテロなんかじゃなく、もっと根源的な……人類の未来を賭けた、思想の戦いだったってことを」
「そうだな」
朔人はチップを強く握りしめた。
物理的な破壊で敵を倒したのではない。言葉と論理、そして信念によって、暴走する知性を止めたのだ。
その事実は、公的な記録には残らないかもしれないが、当事者たちの胸には深く刻まれている。
「そういえば、レイナさんからは?」
伊香立が話題を変えた。
「さっきメールが来てたよ。今は南米にいるらしい」
朔人はスマートフォンを取り出し、先ほど届いたばかりのメールを開いた。
添付されていたのは、アマゾンの奥地で撮影された一枚の写真。
泥だらけのジープの前で、現地のガイドと共に屈託のない笑顔を見せるレイナの姿があった。
『元気? こっちは相変わらず泥んこ遊びの毎日よ。違法伐採の業者を追ってるんだけど、キメラに比べれば可愛いものね』
短い文面からは、彼女の変わらぬエネルギーが伝わってくる。
『あの事件の記事、ようやく書き上がったわ。編集部とは揉めてるけど、何としても世に出すつもり。真実は、誰かが語り継がないと消えてしまうから』
朔人は口元を緩めた。
彼女は、彼女の戦場で戦い続けている。
ペンとカメラを武器に、隠された真実を暴き、世界に警鐘を鳴らし続けているのだ。
あの日、四国の山奥で背中を預け合った同志は、今は地球の裏側にいる。だが、距離は関係なかった。
同じ真実を知り、同じ未来を守ろうとした絆は、見えない糸で二人を強く結びつけている。
「……あの人らしいですね」
写真を覗き込んだ伊香立も笑った。
「ああ。僕たちも負けていられないな」
朔人はスマートフォンを置き、視線を窓の外へ向けた。
秋の日は短く、空は既に茜色に染まり始めていた。
「伊香立君、例の『環境修復プログラム』の進捗は?」
「順調です。四国の自生地から採取したシコクビユの種子培養、成功率が八割を超えました。これを元に、あの山に本来の植生を取り戻す計画書、明日までにまとめます」
「よし。それと、回収されたキメラたちの経過観察データも洗い直そう。彼らをただ処分するのではなく、余生を穏やかに過ごせる保護施設を作るための提案書も必要だ」
唐崎が壊そうとしたゆりかごを、今度は自分たちが修復し、守っていく。
それは地味で、気の遠くなるような作業だ。派手な英雄的行為など何もない。
だが、それこそが、あの悲劇を繰り返さないための、唯一の確実な歩みだと朔人は信じていた。
「やりましょう、先生」
伊香立が力強く頷き、自分の席へと戻っていく。
研究室には再び、キーボードを叩く音と、時折めくられるページ音が響き始めた。
それは、平穏で、退屈ですらある日常の音だ。
だが今の朔人にとって、この音こそが、何よりも愛おしく、守るべき世界の鼓動のように感じられた。
朔人はモニターに向かい、新たな論文の書き出しに指を走らせた。
タイトルは『共生と多様性――不完全な我々が紡ぐ未来について』。
それは、偉大なる反面教師への鎮魂歌であり、共に戦ったパートナーへの手紙であり、そしてこれからを生きる全ての人々への、静かなるメッセージだった。




