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ゆりかご 〜列島の生態系を侵食する、未知なる脅威へ挑む〜  作者: 久能のの


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02 予兆(2)

 朔人が押し黙ってしまったため、薄暗い研究室には重苦しい沈黙が流れていた。しびれを切らしたように、伊香立が口を開く。


「先生、やはり新型のウイルスでしょうか? これだけ広範囲に、しかも急速に広まるとすれば、空気感染する強力な病原体くらいしか思いつきませんが」


 伊香立が恐る恐る口にした仮説に、朔人は即座に首を横に振った。


「いや、ウイルス説には無理がある」


 朔人は立ち上がり、ホワイトボードの前へと歩み寄った。黒と赤のマーカーを両手に持ち、さらさらと日本地図と簡易的な系統樹、そして感染拡大のシミュレーショングラフを描き始める。


「理由は二つある。一つは系統樹だ。ヒグマは哺乳類、イヌワシは鳥類、ミシシッピアカミミガメは爬虫類。これほど遺伝的に離れた生物群に、同時に致死的な作用をもたらすウイルスなんて聞いたことがない」

「それは……確かにそうですが。変異した人獣共通感染症のようなものであれば、可能性はゼロではないのでは?」


 伊香立も簡単には引き下がらない。彼は石橋を叩いて渡る慎重派だ。目の前の現象を安易に「未知の異常事態」として片付ける前に、既存の科学の枠組みで説明できる可能性をすべて検証しなければ気が済まないのだ。


「もしそうだとしたら、なぜ『間』の生物が無事なんだ?」


 朔人はホワイトボードに描いた系統樹の、空白の部分をトントンとペン先で叩いた。


「クマが死んで、鳥が死んでいる。だとしたら、その中間に位置するタヌキやキツネ、あるいは野鳥全般にも被害が出ていなければおかしい。感染症なら、接触頻度の高い種から順に同心円状に広がるはずだ。だが、報告書を見る限り、被害が出ているのは特定の種に限定されている」


 反論を受けて口をつぐむ伊香立に、朔人は畳み掛けるように地図上の島々を叩いた。


「もう一つは地理的要因だ。北海道、本州、四国、九州……海を隔てたこれら全ての場所で、同時多発的にパンデミックが起きる確率は、計算するまでもなく天文学的に低い。ウイルスなら、どこか一箇所――例えば空港や港湾から拡散するタイムラグが生じるはずだ。海という自然の壁を、病原体がこれほど都合よく一瞬で飛び越えることはあり得ない」


 伊香立は言葉を詰まらせた。朔人の指摘は、生物学の基礎に照らし合わせればあまりにも正論だった。だが、彼は諦めない。すべての可能性を潰さない限り、未知の現象を「異常」と断定することへの恐怖があった。


「で、では、毒物による生物濃縮……という線はどうでしょう」


 伊香立が別のマーカーを手に取り、ホワイトボードの端に食物連鎖のピラミッドを描き始めた。


「小型の生物が微量の毒に侵され、それを捕食した大型の生物に毒が蓄積して致死量に達する。これなら、食物連鎖の上位にいる生物に被害が集中することの説明がつきます」

「逆だよ、伊香立君。それなら症状の出方がおかしい」


 朔人は眼鏡の位置を直しながら、鋭い光を宿した瞳で後輩を見据えた。


「君の言う一般的な生物濃縮なら、死に至るそのずっと手前で、神経障害による行動異常や、卵殻菲薄化による繁殖能力の低下といった慢性的な障害が多くの個体に現れるはずだ。DDTや水銀の事例を思い出してくれ」


 朔人は言葉を切り、ホワイトボードに描かれた食物連鎖の図を指先で弾いた。カツカツという乾いた音が、静まり返った研究室に響く。


「だが今回、そうした予兆の報告は一切ない。被害者は皆、今の今まで健康そのものだった個体が、唐突に死んでいる」

「あ……つまり、徐々に溜まった毒ではない、と?」

「そうだ。前兆もなく上位種だけが即死しているなら、それは蓄積などではなく、摂取した瞬間に死に至るほどの『強烈な猛毒』が用いられたことを意味する」


 朔人はそこまで言って、小さく首を横に振った。


「だが、それも矛盾する。ヒグマを即死させるほどの猛毒を身体に含んだ鮭が、何食わぬ顔で川を遡上できると思うかい? 捕食される前に、まずは毒の運搬役である彼らが死に絶えていなければおかしいんだ」


 研究室に、重苦しい沈黙が降りた。

 換気扇の回る低い音だけが響いている。

 ウイルスでもない。毒物でもない。

 異常気象によるストレス死にしては、被害が局所的かつ選択的すぎる。

 既知のどんな要因を当てはめても、このパズルは完成しない。ピースの形そのものが、人為的に捻じ曲げられているかのようだ。


「……やはり、さっきのニュースのコメントに戻るしかないのか」


 朔人が独り言のように呟いた。


「え? 悪戯説ですか?」


 伊香立が呆れたように言うが、朔人の目は笑っていなかった。


「『悪戯』という言葉は軽すぎるが、本質を突いているかもしれない。自然現象にしては作為的すぎる。誰かが意図的にやっているとしたら……」


 朔人はデスクに戻り、モニターの前に座った。


「一応、共通点はあるんだ」

「共通点?」

「被害に遭っている生物たちの共通点だ。ヒグマ、イヌワシ、ツキノワグマ。これらはそれぞれの生息域における『頂点捕食者』だ。そして、ミシシッピアカミミガメやアライグマといった特定外来生物もまた、本来の生息地から離れ、天敵のいない環境で生態系の頂点に君臨してしまった者たちだ」


 伊香立がハッとして顔を上げる。彼の脳内でも、バラバラだったピースが繋がり始めたようだ。


「……妙ですね。本来なら天敵がおらず、最も生存に有利なはずの種ばかりが環境から排除されている。生存競争の定石とは真逆の現象だ」

「ああ。弱者が淘汰されるのではなく、強者が間引かれている。こんな不自然なセレクションは、自然界のルールじゃあり得ない」


 朔人の言葉には、科学者としての冷静な分析と、想像もつかない事態への微かな戦慄が混じっていた。

 自然界における淘汰とは、もっと緩やかで、無慈悲だが公平なものだ。環境に適応できなかった者が消え、適応した者が残る。だが、今回起きていることは違う。


「悪戯、か。……先ほどのニュースの専門家が言っていた言葉だが、あながち的外れではないかもしれない。もちろん、愉快犯による悪ふざけという意味じゃない。『人為的な介入』の可能性が極めて高いということだ。それも、生態系の地図そのものを書き換えるような、大規模な介入がな」


 朔人はデスクに戻ると、再びモニターに向き直った。その瞳からは、先ほどまでの穏やかさは消え、真理を追求する狩人の鋭い光が宿っていた。


「伊香立君、悪いが今夜は帰れそうにないな」

「……覚悟はしていました」


 伊香立は諦めたように、しかしどこか使命感を帯びた表情で溜息をついた。


「過去五十年の論文とフィールドデータをすべて洗ってくれ。系統樹的に異なる生物群が、同時に淘汰された前例がないか。どんな些細な記述でも構わない」

「分かりました。先生はどうされるんですか?」

「僕は環境省の生物多様性センターが公開しているモニタリングシステムのサーバーにアクセスして、生データを直接洗う。ニュース映像やSNSの投稿時刻と、各地の観測ステーションの数値を照合すれば、被害の発生時刻と場所の正確な相関関係が見えてくるはずだ」


 朔人の指がキーボードを叩き始めると、静かだった研究室に、再び断続的な打鍵音が響き始めた。それは、正体不明の脅威に対する、彼らなりのささやかな、しかし確実な反撃の狼煙だった。

 画面の中で明滅する赤い警告灯。それは地球という生命の揺りかごが、今、何者かの手によって乱暴に揺さぶられようとしていることを告げる警鐘のようでもあった。その微かな振動に気づいているのは、まだこの小さな研究室の二人だけだった。

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