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ゆりかご 〜列島の生態系を侵食する、未知なる脅威へ挑む〜  作者: 久能のの


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15 原初の生命(1)

 伊吹大学のキャンパスは、初夏の陽気と学生たちの活気に包まれていた。

 だが、理学研究科棟の一室だけは、まるで季節から取り残されたように重苦しい空気が澱んでいる。

 晴嵐研究室。

 朔人は、山のような段ボール箱と格闘していた。

 四国への遠征に向けた準備だ。フィールドワーク用の機材、採取キット、そして万が一のための護身具。必要なものをリストアップしていくだけで、部屋は足の踏み場もなくなっていた。


「先生、本気なんですね。本当に行くんですか、四国へ」


 手伝いに来た伊香立が、心配そうに眉を下げながらポータブル電源を箱に詰めている。


「ああ。レイナさんからの情報で、場所は特定できた。これ以上、指をくわえて見ているわけにはいかない」


 朔人は手を休めず、携帯型のシーケンサーを緩衝材で包みながら答えた。


「でも、相手は武装した組織ですよ? 警察に通報するのが筋じゃ……」

「警察が動くには証拠が足りない。それに、公的機関が動けば、奴らは証拠を隠滅して逃げるだろう。まずは僕たちが確実な証拠を押さえ、その上で世間に公表する。それしかないんだ」


 朔人の決意は固かった。

 伊香立はそれ以上何も言わず、ただ黙々と作業を続けた。彼も分かっているのだ。自分の尊敬する先輩が、一度決めたら梃子でも動かないことを。

 部屋には、ガムテープを引き剥がす乾いた音だけが響いていた。

 窓の外では、何も知らない学生たちの笑い声が聞こえる。その日常と、自分たちが踏み込もうとしている非日常との落差に、朔人は軽い眩暈を覚えた。


 夕暮れ時、ようやく荷造りが一段落した頃だった。


「少し、風に当たってくるよ」


 朔人は伊香立に告げ、研究室を出た。

 連日の徹夜と緊張で、頭が煮詰まっていた。少し歩いて、思考を整理したかった。


 キャンパスの中庭には、講義を終えた学生たちが談笑し、芝生の上で本を読んでいる。

 茜色に染まり始めた空を見上げ、朔人は大きく息を吸い込んだ。

 冷たい空気が肺を満たし、少しだけ焦燥感を和らげてくれる。

 朔人はベンチに深く腰を下ろし、自動販売機で買った缶コーヒーを開けた。

 プシュ、という炭酸が抜けるような小さな音が、夕暮れの喧騒に吸い込まれる。


 ふと、違和感を覚えた。

 風が止まったわけではない。学生たちの笑い声が消えたわけでもない。

 ただ、自分の背後にある空間だけが、急激に「温度」を失ったような感覚。

 まるで、そこだけ世界が切り取られ、真空の穴が開いたかのような、生理的な寒気。

 足音はなかった。気配も、衣擦れの音さえもしなかった。

 なのに、朔人の本能が警鐘を鳴らした。

 後ろに、誰かいる。


「……精が出るな、晴嵐君」


 耳元で囁かれたわけではない。だが、その声は鼓膜を介さず、脳髄に直接響くかのように明瞭だった。

 心臓が、早鐘を打つのを忘れて凍りついた。

 聞き覚えがある。いや、忘れるはずがない声だ。

 低く、穏やかで、それでいて有無を言わせない知性を孕んだ響き。学生時代、何度も耳にし、その言葉に導かれてきた、あの声。

 まさか。

 朔人は、錆びついた蝶番のような動きで首を巡らせた。


 そこに立っていたのは、一人の初老の男だった。

 仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、白髪混じりの髪をオールバックに撫でつけている。

 その立ち姿は、あまりにも自然だった。

 夕暮れの風景に溶け込みすぎていて、まるで最初からそこに立っていた彫像か、あるいは古い写真から切り抜かれた亡霊のように、生身の質感が希薄だった。


「……唐崎、先生……?」


 朔人の口から、掠れた声が漏れた。

 唐崎宗介からさきそうすけ

 かつて比叡大学で教鞭を執り、朔人をこの道へと導いた恩師。

 そして、数年前に学界から追放され、行方不明になっていたはずの男。

 死んだという噂さえ流れていた彼が、なぜ今、ここにいるのか。


「久しぶりだね。元気そうで何よりだ」


 唐崎は何事もなかったかのように、朔人の隣のベンチに腰を下ろした。

 その動作にも、体重移動による座面の軋みや沈み込みがほとんど感じられない。

 まるで重力の影響を受けていないかのような、不気味な静寂を纏っていた。


「先生、今までどこに……? いや、それよりも、なぜここに?」

「君に会いに来たんだよ。私の可愛い教え子が、随分と危険な遊びに首を突っ込んでいるみたいだからね」


 唐崎は、朔人の隣のベンチに腰を下ろした。


「突然、私の『作品』からの信号が途絶えた時は焦ったよ。だが、その消失地点がこの大学だと知って、合点がいった」


 無理もない。朔人が解析を行っていた地下実験室は、電子機器の誤作動を防ぐために壁面に銅箔が埋め込まれた電波暗室だ。GPSの信号さえも完全に遮断するその環境が、皮肉にも追跡の目をくらませるステルス迷彩の役割を果たしていたのだ。


「……回収部隊がここに来なかったのは、場所が特定できなかったからですか?」

「それもある。だが、一番の理由は君だ」


 唐崎は楽しげに目を細めた。


「GPSがロストした地点がこの大学付近だと知った時、私は直感したのだよ。晴嵐君、君が関わっているとな。ならば、無粋な兵隊を送って強引に取り返すよりも、君がその『異物』を前にして、科学者としてどう振る舞うのか。その解が見たかったのだよ」


 唐崎は、朔人の目を真っ直ぐに見つめた。

 その眼鏡の奥にある瞳は、底知れぬ暗い光を宿していながら、どこか慈愛に満ちているようにも見えた。

 知っている。この人は、すべてを知っているのだ。

 朔人が紀伊山地で何を見たか、何を感じたか、そしてこれからどこへ向かおうとしているのか。


「先生が、あの怪物たちを作ったのですか?」


 唐崎はふふっ、と楽しげに笑った。

 その笑い声は、以前と変わらず知的で、そしてどこか冷ややかだった。


「怪物、か。相変わらず言葉の選び方が凡庸だね、晴嵐君。あれは『希望』だよ。停滞したこの星の生命に与えられた、新たな進化の種だ」

「進化……?」


 朔人は立ち上がり、拳を握りしめた。


「あんなものが進化ですか! 既存の生物を切り刻んで、無理やり繋ぎ合わせただけのグロテスクな人形じゃないですか! 生態系を破壊し、殺戮を繰り返すことが、あなたの言う進化なんですか!」


 周囲の学生たちが、突然の大声に驚いて振り返る。

 だが、唐崎は動じない。むしろ、朔人の怒りを愛おしむように目を細めた。


「破壊ではない。選別だよ」


 唐崎は静かに言った。


「君も気づいているだろう? 現代の生物は弱くなりすぎた。環境に適応するために専門化し、その代償として多くの可能性を切り捨ててしまった。彼らは『進化』したのではない。『劣化』したのだよ」

「劣化……?」


 聞き慣れない言葉に、朔人は眉をひそめた。


「そうだ。陸に上がった魚は、エラを捨てなければならなかった。空を飛ぶために腕を翼に変えた鳥は、もう物を持つことはできない。何かを得るたびに何かを失う。それが、この40億年の『敗北の歴史』だ」


 唐崎は空に手を伸ばし、何かを掴むような仕草をした。その手つきは、まるで神が見えない粘土をこねているかのようだった。


「だが、私は違う。失われた可能性をすべて取り戻す。鳥の翼と、魚のエラと、獣の牙を併せ持つ完全なる生命。それこそが、本来あるべき『LUCA(原初の生命)』の到達点なのだ」

「それが……あのキメラだと?」

「あれはまだ『一石』に過ぎない。私の『ゆりかご』の中には、もっと素晴らしい可能性が眠っている」


 唐崎の言葉には、狂信的な熱よりも、冷徹な計算と確信が込められていた。

 自らの歪んだ信念を証明するために、現実の世界を実験場に変えてしまった男。

狂っている。

 朔人は確信した。かつて尊敬した恩師は、もういない。

 目の前にいるのは、科学者としての倫理を踏み越え、自らの妄想のために生命を冒涜するマッドサイエンティストだ。

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