11 敵(1)
伊吹大学理学研究科棟の地下深く。エレベーターを降りた先に広がるのは、日常とは隔絶された無菌の領域だった。
重厚な金属扉の横にあるパネルにIDカードをかざす。電子ロックが解除される乾いた音と共に、最初の扉がスライドした。
前室に入ると、気圧調整のためのエアロックが作動する。「プシュー」という鋭い排気音が閉鎖空間に響き渡り、鼓膜が内側から押されるような独特の圧迫感を覚える。
室内の空気は、高濃度のオゾンと強力な消毒液が混ざり合った、鼻の奥を刺すような無機質な匂いで満たされていた。それは、ここが生命を育む場所ではなく、管理し、解剖し、分析するための場所であることを冷徹に告げていた。
バイオハザードレベル3対応の隔離実験室。二重のエアロックと負圧管理システムによって外界から完全に遮断された、白亜の監獄だ。
分厚い防弾ガラスの向こう側、空調の低い駆動音だけが支配する飼育ユニットの中で、あの夜に捕獲した「怪物」が静かな眠りについている。
強力な鎮静剤を持続的に投与されているため、ピクリとも動かない。だが、生命維持モニターに表示される心拍と呼吸の波形だけが、この異形の物体が生きていることを無機質に伝えていた。
ガラス越しにその姿を見つめる朔人の瞳には、疲労の色が濃く滲んでいる。
紀伊山地から戻って数日。彼は大学に泊まり込み、不眠不休で解析作業に没頭していた。
採取した血液、組織片、そして排泄物。あらゆるサンプルを最新鋭の次世代シーケンサーにかけ、三十億塩基対にも及ぶ膨大なゲノム情報を読み解く作業は、砂漠の中から一粒のダイヤモンドを探すような気の遠くなる工程だった。
「……そろそろか」
手元のコンソールが短い電子音を鳴らした。
メインモニターに『Analysis Complete(解析完了)』の文字が浮かび上がる。
朔人はマグカップに残っていた冷め切ったコーヒーを飲み干し、震える指先でキーボードを叩いた。
画面が切り替わり、螺旋を描く3Dの遺伝子マップが表示される。
それは、生命の設計図というよりは、悪夢のパッチワークだった。
「やはり……そうか」
朔人は呻くように声を漏らした。
予想はしていた。だが、確定したデータとして突きつけられる現実は、予想を遥かに超えてグロテスクだった。
モニターには、異なる生物種の遺伝子が色分けされて表示されている。
ベースとなっているのは、やはりイヌ科の動物――絶滅したニホンオオカミに近い、未知の固有種だ。
だが、その美しい螺旋構造の随所に、毒々しいほど鮮やかな「異物」が割り込んでいた。
爬虫類のウロコ形成遺伝子。
鳥類の視覚野に関する遺伝子。
さらには、両生類に見られる再生能力に関わる遺伝子群までが、不自然なほど整然と組み込まれている。
自然界における交雑や、水平伝播といった偶発的な遺伝子の移動ではない。
ここには明確な「意図」がある。
例えば、ウロコを作る遺伝子は、体毛を作る遺伝子の働きを阻害しないよう、皮膚の特定部位でのみ発現するように制御されていた。
本来なら決して噛み合うはずのない異なる規格の部品を、無理やり一つの機械に組み込んだような暴挙。それを、驚くべき技術力で最適化し、一つの生命として機能させているのだ。
朔人はさらにデータを掘り下げた。
彼の指が震えているのは、恐怖からか、それとも憤怒からか。
画面上の特定の塩基配列を拡大する。
そこには、この生物が「自然」ではないことを示す、決定的な証拠が残されていた。
「CRISPRの痕跡……それも、特定のベクター配列がそのまま残っている」
細菌の免疫機構を利用し、DNAをピンポイントで切断・改変するゲノム編集技術だ。自然界の変異では決して残らないその人工的な『ハサミ』の跡が、この生物が実験室で生まれたことを雄弁に物語っていた。
遺伝子編集ツールが生み出した、人工的な切断と結合の跡。
それは、この生物が母なる自然のサイクルから生まれたのではなく、冷徹なフラスコの中で設計され、製造された工業製品であることを証明していた。
「……誰だ。こんな真似をしたのは」
技術レベルが高すぎる。
現代の一般的な遺伝子工学でさえ、ここまで複雑な多重改変を行い、かつ成体として生存させることは不可能に近い。拒絶反応、代謝異常、癌化……乗り越えるべきハードルは無数にあるはずだ。
それを全てクリアし、この「完成品」を作り上げた者がいる。
倫理観を完全に欠如させ、生命をパーツのように弄ぶ、狂った天才が。
朔人は椅子を蹴るようにして立ち上がり、防弾ガラスに近寄った。
ガラスの向こうで眠るキメラ。
先ほどまでは恐るべき捕食者に見えていたその姿が、今は自然界の摂理を無視して生み出された、哀れな造形物に見えた。
人間のエゴによって、本来交わるはずのない異なる種の設計図を無理やり継ぎ合わされ、野に放たれた異物。
首筋に埋め込まれていたマイクロチップ。
そして、この徹底的にデザインされた戦闘用遺伝子。
すべてが、一つの事実を指し示している。
何者かが、このキメラを使って、日本の生態系で何かを試そうとしている。実験か、あるいは何かのデモンストレーションか。現時点では目的までは読めないが、意図的な介入であることは間違いない。
「……手遅れになるぞ」
朔人はガラスに指を這わせた。指先が微かに震えている。
冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
これは単なる新種の発見ではない。一度放たれれば、二度と元の形には戻らない、不可逆的な汚染だ。
この「製品」が日本の山々で繁殖し、定着してしまえば、在来の生態系は根底から覆される。数万年かけて築かれたバランスが、ほんの数年で崩壊してしまうかもしれない。
一刻も早く封じ込めなければならない。
日本の自然が終わるタイムリミットは、もうそこまで来ている。
その時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
朔人は大きく深呼吸をして動揺を抑え込み、画面を確認した。
伊香立からの着信だ。
彼には、朔人が持ち帰ったサンプルのデータをもとに、被害状況の再分析を頼んでおいたはずだ。
「……もしもし」
『先生! 出ました、結果が出ましたよ!』
受話器の向こうから、伊香立の興奮した、そして怯えたような声が響いた。
『先生の仮説通りです。いや、それ以上かもしれない。被害リストと、キメラの特性を照らし合わせた結果、例の法則が完全に裏付けられました』
「落ち着いて話してくれ。データが揃ったのか?」
『はい……やはり、間違いありません』
伊香立の声が震えていた。
『奴らは、無差別に襲っているわけじゃありません。まるでリストを持っているかのように、特定の条件を満たす生物だけを、正確に狙って排除しています』
朔人の背筋に戦慄が走った。
選別。
この怪物は、ただの殺戮マシーンではない。明確なオーダーを受けて動く、生物兵器なのか。
「伊香立君、すぐにそっちへ行く。データをスクリーンに出しておいてくれ」
朔人は通話を切り、もう一度だけガラスの向こうの怪物を睨みつけた。
戦うべき相手の姿は見えない。だが、迫りくる破局の輪郭だけは、確実に浮かび上がってきている。
朔人は白衣を翻し、地下実験室を後にした。その足取りは重い。疲労からではない。事態の深刻さに押しつぶされそうなプレッシャーが、彼の足を絡め取ろうとしていた。




