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9.もうひとつの秘密、壊れた魔道具

 子爵邸に来てから、あっという間に一週間が経った。


「おはようございます、ルシア様、朝です……ルシア様……」


 今朝はリーネが私を呼ぶ声で目を覚ました。重い体をやっとのことで起こし、なんとか笑顔を繕う。


「リーネ、おはよう」


「あの、大丈夫ですか? かなり(うな)されていましたけれど」


「ごめんなさい、大丈夫。ほんの少し夢見が悪かっただけなの」


 悪夢を見たのも確かだけど、単なる気分の問題で片付けるにはあまりにもはっきりと体調が悪かった。ここに来てからはとても穏やかに過ごせていた一方で、なぜか日に日に体の調子は悪くなっていた。


 外の明るさから、起きるのがいつもより遅くなってしまったことを悟る。儀式がない日だったのが不幸中の幸いだった。


 支度を手伝ってくれている間、何かを察知したのか心配そうな顔をしてくれたリーネにはなんとか笑顔で対応し、ふらついてしまいそうになりながら応接室に赴いた。


「おはよう。今日はよく眠れたみたいだな」

 

 セドリック様は朝食の席に遅れてきた私を咎めることはなく、いつも通りの人懐っこい笑顔を見せてくれた。テーブルに並んだお皿はすでに空になっていて、食後のお茶を飲まれているところだった。


 約束を破ってしまったことを詫びる。


「……申し訳ありません」


 できるだけ深く頭を下げたけれど、セドリック様は何も気にされていない様子で笑った。


「別に謝らなくても。ゆっくり眠れたのならいいことじゃないか。待ってやれなくてごめん。夕方に戻るから、夕食は一緒に食べよう」


「……はい。行ってらっしゃいませ」


 セドリック様はカップの中を飲み干して置くと、私に向かって手を振ってから応接室を後にした。


 私は遅れて用意された自分の分の朝食を申し訳なさと一緒にお腹の中に押し込んで部屋に戻る。窓際の椅子に腰掛けて、明らかに硬くなっているお腹に手を当てた。


 どうしよう。気のせいだと思いたいけれど、やっぱり気分がすぐれない。胸からお腹にかけてが、まるで石を目一杯詰められたみたいに痛い。


 いつものようにじっとしていればいずれ良くなるはずと、細く息をしてやり過ごしているうちにお昼になってしまった。


「お食事の準備が整ったとのことです」


「ありがとう。楽しみだわ……」


 お腹の違和感から目を背け、できるだけ笑った。その後すぐに、部屋に昼食が運ばれてきた。


 野菜がたっぷり入ったスープに、焼いたお肉と、ハーブが混ぜ込まれたパン。果物を使ったデザート……やはりご馳走で、とても美味しそう。口にするとやはり美味しい、のだけど。


 私はスープをひと匙なんとか口に入れ、何度も噛み締めたけれど、どうしても飲み込むことができない。美味しいのに、嬉しいのに。喉のすぐ下あたりに重く居座った違和感に妨げられてしまう。


 手に力が入らなくなってきて、スプーンを落としてしまった。リーネが異変に気づいたのか、スプーンのことを気にかけるよりも先に私の顔を覗こうとしてきた。


「ルシア様、どうされましたか?」


「ごめんなさい、なんでもないの……」


 口の中に残っていたものを無理やり飲み込んでなんとか答えたけれど、急に額や背中から冷や汗が吹き出してきた。


 リーネの黒い瞳が大きく開かれているのが見えた。


「ちょっと!! 誰か!! 誰か来て!!」


 助けを求めるリーネの高い叫び声が、遠くに聞こえる。まるで耳に綿でも詰められたみたいに。


「痛い……痛いよ」


 みっともない声がこぼれてしまう。まっすぐ座っていることが難しくなって、体を折った。冷や汗はどうしたって止まらず、そのうえ、激しい痛みのせいか目の前がしだいに暗くなっていく。


 リーネの声に応え、何人も駆けつけてくるのが足音でわかった。あっという間に囲まれたようだけど、動くことができない。


「ルシア様、気を確かに」


 エルンスト様の声がした。


 ……大丈夫です、少し寝れば良くなります。


 私はそう言わなければならないのに、胸の辺りで言葉が絡まって出てきてくれない。しかも私は、とうとう気を失ってしまった。


――しばらく経って。


 お医者様に診ていただいた後、ベッドに横になってうとうとと休んでいた私の元に、険しい顔をしたセドリック様が現れた。慌てて起きあがろうとした私を手で止めてから、そばにいたリーネに優しく笑いかける。


「リーネ、ルシアに付いていてくれてありがとう。悪いが、ふたりきりにしてもらえないか?」


「かしこまりました」


 リーネはセドリック様に一礼し、風のように素早く部屋を辞した。


 ドアが閉まるのを見届けたセドリック様はマントを脱いで、ソファーの背に放り投げるように掛けた。髪や息が少し乱れている。まるで知らせを受けて慌てて来てくださったかのように。


 ぼんやりしていた意識をなんとか引き締めて窓の外を見ると、まだ空は青いままだった。お仕事は確か夕方までかかると言っていたのに。私は申し訳なくて消えてしまいたくなった。


 セドリック様がベッドの傍らに椅子を持ってきて座ったので、私は謝るために起き上がる。


「邪魔をしてしまって、すみません」


「何を言うんだ。そんなの後でどうにでもなる。とにかく、命にかかわることでなくてよかった。しかしまさか、食事に問題があったとは」


 セドリック様は最後の方は眉間を揉みながら、ため息のように吐き出した。


「とんでもないです。すべて私が悪いのです……」


 ここに来てからの食事のことを思い出す。どれも本当に美味しかった。料理のことには詳しくない私にも、料理人の方の心尽くしなのが伝わってきた。


 それだけではない。「料理人の人選にはこだわったんだよな」得意げにそう言って、美味しそうに食事をしているセドリック様を見るのも嬉しかったのだ。


『腹いっぱい食べてくれ』その言いつけを守れなかった私を見て、セドリック様が苦しそうな顔をされている。当たり前だと思う。薬を飲んで一度は治っていたはずの腹痛がまた顔を出してくる。


「王都で育った君には種類が少なくてつまらないかもしれないと話していたくらいだったのだが……」


 お医者様によると、私が今回倒れてしまった原因は、平たく言うと食べ過ぎらしい。私の胃腸は他の人に比べるとひどく弱く、量を食べられないうえに、しかも体質的に受け付けないものもあるらしい。


 そのことを知らされて、一番びっくりしたのは私自身だった。


 そもそも自分の体に弱いところがあるなんてつゆほども思っていなかった。今まではお医者様のお世話になったことはほとんどないからだ。もし調子が悪くなっても、じっと横になっていれば数日、どんなに長くても半月ほどで良くなっていた。


 ため息に聞こえないように気をつけながら息をつき、セドリック様をちらりと見やると、顎の下に手をやってじっと何かを考え込んでいる様子だった。なんだか怒っているようにも思える。悪夢が現実になった気がして、体が冷たくなってきた。


「申し訳ありません……」


 体を半分に折ってしまう勢いで頭を下げた私に、セドリック様は静かに言った。


「どうして謝るんだ。苦しかったのに気づかなくてごめんな」


「そんな。悪いのは私です。本当に申し訳ありません」


 今度は胸が痛む。出してもらったものを受け入れられずに倒れてしまった私が悪いのに、どうしてこんなにも優しくしてくれるのだろう。


「なあ、ひとつ尋ねていいか?」


「……なんでしょうか?」


 セドリック様はその大きくて温かい手で、私の手を包むようにそっと握った。それから、やや躊躇いがちに口を開いた。痛いところに触れられる合図な気がして、私も身構える。


「もしかして、実家では満足に食事を取れていなかったのではないか?」


 低い声で綴られたのは、思いもよらぬ言葉だった。私は首を横に振って答えた。


「いいえ。食事を抜かれたことは滅多にないです。ひとりで自室で食べるようにと言われていたのと、お腹をいっぱいにしてはいけないと言われていただけです」


「えっ、腹いっぱいにするな? なんだそれ? どういうことだ?」


 まるで責めるような口調で言われ、すくみ上がりそうになった。なんとか答えを返す。


「貴族女性の嗜みとして……ましてや灰髪なんだから、せめて体をうんと細くして、美しくなければと」


 母の口癖を聞いたセドリック様の表情が、今にも雷を呼びつけそうなほどに曇っていく。突然苛立ったように頭を激しく掻いたかと思ったら、鎮めるように息を長くついた。


 私をまっすぐに見た紫水晶の瞳が、ギラギラと強く光っているように見えた。口調はあくまで穏やかだけど、怒りを抑え込んでいるのは明らかだった。


「……わかった。まずはきちんと薬を飲んで、ゆっくり腹を休ませるんだ」


「わかりました……」


「それと、食事を一緒にというのは……いったん止めにしよう。俺みたいな大喰らいを目の前にしては、君も……」


 捨てられてしまうことを予感して、背中を冷たいものが這う。目は確かに開いているはずのに、今朝の悪夢が鮮明に甦った。


 目が覚めるとアルヴェン家の自分の部屋にいて、そこでかつての暮らしをする……ただそれだけの夢だった。家族からは無視されて、夜会に行けば灰色の髪を笑われる。少し前まではそれが当たり前だったのに、今はそれがひどく怖い夢に思える。


 もう二度と戻りたくはない。そう思ってしまうほどには。


「ひとりは……嫌です」


 セドリック様はまさか私が歯向かうようなことを言うなんて思わなかったのか、目を丸くして私を見ている。自分でも驚いた。


「申し訳ありません、私ったら」


 わがままを言うな……今度は父の声が耳の中で鳴り響く。そうだ、私が嫌だと言えばそれは全てわがまま。ましてや私は魔道具でしかない。


『わかりました』か、『申し訳ありません』か。私の答えはそのどちらかしか許されていない。それ以外を言えば叩かれる。


 思わず目を閉じて歯を食いしばったのに、いつまでも衝撃が来ない。怒鳴り声も飛んで来ず、頬を伝った涙も下に落ちることはなかった。その前に、大きな手が拭ってくれた。セドリック様は私をじっと見て言う。


「わかった、大丈夫。元気になったらまた一緒に食事をしよう。とにかく今はゆっくり休むんだ。早く元気になってほしいからな」


 セドリック様がここまで私に気を遣ってくださるのは、言うまでもなく。


「儀式ができなくなってしまったら困りますものね……」


「そ、そうだな……」


 ……役目を果たせない、壊れた道具には価値がないことくらい私にもわかる。セドリック様も、それは当然とばかりに表情を曇らせた。

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