8.もうひとつの役目、誤解が解ける
その場で黙って見つめ合うこと数秒。明るさに目が慣れた頃、セドリック様がまるで肩の力が抜けたように笑顔になられた。
「さて、俺についてきてくれるか?」
そう言われて頷くと、執務室を出る。セドリック様の足取りは軽く、途中すれ違った使用人の方と挨拶を交わしながら、並んで階段を降りていく。
「すみません、どちらに向かっているのでしょう?」
「ああ、応接室だよ」
昨夜、この邸に着いて最初に、お話があるからと通された部屋だ。
「何かお話があるのでしょうか?」
セドリック様はカゴいっぱいの洗濯物を運んでいた使用人の方に「おはよう」と声をかけてから、私の方を見た。
「いや、一緒に朝めしを食べようかと思って」
「わ、私と食事をご一緒してくださるのですか?」
「え? ああ……もちろん」
私は道具なのに、主人と同じ食卓を囲んでもいいものかという疑問が湧いてくる。しかし、セドリック様はどうしてそんなことを聞くのかと言わんばかりに首を傾げている。
応接室のドアは開いていた。私たちが席に着くと、給仕の方が入ってきて、真っ白なテーブルクロスの上に料理を並べていく。
焼きたてのパンからは香ばしい香りが立ち、ボウルにたっぷりと注がれたスープからはほこほこと湯気が上がっている。卵料理に添えられたサラダはみずみずしくて、鮮やかな緑が目に眩しかった。しかも今まで数えるほどしか口にしたことがない、生の果物までついている。
私の前にも、当然のように同じ料理が並べられている。
私は気まずくなってお腹を押さえた。まさか朝食までこんなご馳走だなんて思わなかった。どうしようと、目の前の料理にじっと目を寄せていると、セドリック様が心配そうに言った。
「嫌いなものでもあったか?」
戸惑いを顔に出してしまっていたことに気づき、私は首を横に振った。
「いいえ、なんでもありません。いただきます」
「ああ。君に気に入ってほしくて料理人も気合い入れてくれたみたいだから、たくさん食べてくれ」
私の方に期待に満ちた眼差しが向いている。相変わらず美しい紫水晶の瞳だと思う。
微笑みを返して、再びご馳走に目線を戻す。お母様のある言葉が頭をよぎったけれど、考えるまでもない、今の私が従うべきはセドリック様の命令だ。
私は思い切って、黄色く輝く卵料理をスプーンですくって口にした。
「おいしい……」
「そうだろう!」
ひと口食べただけで、それまでの葛藤は一旦どこかへ行ってしまった。
卵の料理といえば、どれもぼそぼそしたものだと思っていたけれど、これはなんだか飲めてしまいそうなくらいなめらかだ。たまらずにもうひと口。この世の中にこんなに美味しいものがあるなんて。びっくりしすぎて、目の前に星が散っている。
「おお、すごく美味そうに食べるなあ。卵が好きなのか?」
セドリック様はちぎったパンを頬張って笑った。香ばしい香りがこちらまで漂ってくるようだった。
「今までいただいたお料理の中で、一番美味しいです」
「そ、そうか。それは良かった」
今まで卵が好きと思ったことは一度もなかったけれど、このお料理はとても美味しい。卵だけではなく、スープも、サラダも、すべて。食べるものがあることに感謝はしたことはあっても、美味しいと思ったことはなかったかもしれない。
私の目の前に置かれるのはいつも、味がほとんどない冷たい料理だった。
けれど、それは私のことを思っているからこそだとお母様は何度も言っていた。だったら、今目の前に並んでいる、温かくて美味しい料理は何なのだろう?
わからなくなって、手が止まってしまう。
「ルシア?」
セドリック様がまた不思議そうに私を見ていた。私は慌てて開きかけた記憶の扉を閉めて笑顔を作った。
「実は君にひとつ頼み忘れていたことがあるんだ」
「な、なんでしょうか」
「朝は必ず俺と一緒に飯を食ってくれないか。親睦を深めるためと思って」
また戸惑いは湧いてきたけれど、朝日に負けないほど眩しい笑顔で言われると、頷くほかなかった。
朝食をなんとか食べ終えた私は、お仕事に行かれるセドリック様と別れ、部屋に戻った。窓辺に置かれた椅子に座ってぼんやりと外を眺めていた。
ノックの音。リーネかしらと思ったら、入ってきたのはハルトマン様だった。慌てて居住まいを正し、出迎えた。
刃のように鋭い銀色の瞳に射抜かれた。まるで振る舞いを試されているようだった。笑われるのにも睨まれるのにも慣れているけれど、やっぱり怖いという感情を抑えられない。
ハルトマン様が口を開く。
「日中はどう過ごされますか?」
「……すみません。特にすることがなくて」
ハルトマン様は私の答えを聞いて明らかに顔をこわばらせたように見えた。やはり、私のことを良く思われていないのだろう。私を見る視線が氷のように冷たく見える。
「でしたら、本でも読まれますか?」
「そ、そうですね……」
年相応のものは難しくて読めないとは言えず、頷く。
「承知しました。書庫から見繕ってきましょう」
ビクビクしながら部屋で待っていると、ハルトマン様が想像していた通り……分厚い本をいくつも抱えて戻ってきた。分厚いということは難しいということでもあるから、なんだか気が滅入る。年相応の小説や詩集のひとつも読めない自分が情けない。
「お好みかどうかはわかりませんが、ここにいくつか並べておきます。もし読みたいものがありましたら手配します。田舎ですので、少しお時間はいただきますが」
ハルトマン様はそう言いながら、本を棚の空いたところに並べていく。よりによって外国語で書かれているものばかりだ。さらに気まずくなる。どうしよう。
貴族の娘なら、これを読めるくらいの外国語は嗜んでいて当たり前なのかもしれない。だけど、私は。
恐る恐る一冊を手に取り、開いてみた。中身は文章と挿絵が半々といったところ。いわゆる、図鑑と呼ばれる本のようだった。ホッとする。絵を眺めるだけなら私にもできる。
これは花について描かれているようで、見たことのない美しい花の絵が並んでいる。
外国語の心得が一切ない私に、文章を読み解くことは叶わないけれど、絵が大きくて眺めているだけで楽しい。絵師の方は、こんな今にも香ってきそうな緻密な絵をどうやって描くのかしら。想像もつかない。
私はハルトマン様がそばにいることも忘れて、夢中でページをめくっていた。
「わあ、綺麗……」
一頁丸々を使った鮮やかな青の花の絵に思わず歓声を上げたところで、ハルトマン様が深いため息をついたのが聞こえた。
しまったと思い顔を上げると、そこにあったのは呆れ顔ではなく、ごく控えめとはいえ、確かに笑顔だった。
「ようやく笑ってくださいましたね」
「ハルトマン様?」
ハルトマン様は私に恭しく一礼した。
「言いそびれておりましたが、私はルシア様からそのように呼ばれていい身分ではありません。どうぞエルンストと呼び捨てにしてください」
「ですが……」
そう言われても呼び捨てになんてできるわけがない。魔術師章が胸に輝いていて、そのうえ領主の補佐を務めるほどの方に対してならなおさらだ。家名に聞き覚えはないけれど、それは私が世間知らずなだけ。下手な態度を取って実家に苦情でも入れられれば大変なことになるかもしれない。
何も言えずにいると、ハルトマン様は口を開いた。
「私の姓は魔術学院に入った時に便宜的につけられたもので、生まれた家を示すものではない……という説明で、おわかりいただけますか?」
「えっ」
つまり、苗字を持たない平民だったということだ。ちなみに平民出身の魔術師はとても珍しいと聞く。平民は私と同じ灰色の髪で魔法の素質を持たないはず。しかしハルトマン様の髪色は夜明け前の空のような美しい群青色だ。それに立ち居振る舞いも、まるで幼い頃から叩き込まれていたかのように磨かれている。
「平民にも、稀に私のように色付きで生まれる人間がいるのです。ちなみに、縁起のいいものとはされません」
ハルトマン様はため息混じりな声に、どこか自嘲めいた笑顔を添えた。魔法が使えるのに良くないこととされるのが意外だったけれど、周りと違う人間がどういう扱いを受けるのか、私は身に染みてわかっている。
「なんだか、私と似ていますね」
思わず呟いてしまうと、ハルトマン様は別に気を悪くした様子もなく、頷いてくれた。
「……ええ。似たもの同士です。ですから、これからは怖がらないでいただけると嬉しいです」
私が緊張で体を硬くしていたのはお見通しだったようだ。
「ご、ごめんなさい」
「構いませんよ。出会ったばかりの人間を信じられなくて当たり前です。これから少しずつ、慣れていただければ」
お茶をお持ちしましょう、と言い残して、エルンスト様は部屋を出て行った。
◆
信じられない、か。
夜になった。私は布団の中で天井を眺めていた。昨日は旅の疲れからすぐに眠りに落ちたけれど、今日はお部屋で図鑑を眺めていただけだからか、なかなか寝付けなかった。
ころころと左右に寝返りを打ってもどこからも冷たい風が入ってこない。空腹でため息をつくこともない。こんなに幸せで良いのかな、と思う。
私のために美しく整えられたお部屋。当たり前のように用意される温かくて美味しい食事。それだけではなく、午後のお茶の時間には、甘いお菓子といい香りのお茶が振る舞われた。温かいお風呂に入れてもらって、清潔で柔らかな寝床で眠る。
私の髪はもちろん灰色のまま。それなのに誰も私のことを白い目で見たりしない。誰からも怒鳴られないし、叩かれもしない。嘲笑う声も聞こえてこない。セドリック様も、エルンスト様も、リーネも優しい。
夢の中以外にもこんな場所があったなんて、と思う。もし夢なら覚めないでほしいとも。
明日もセドリック様と朝食を食べる役目がある。早く眠らなければ。そう思って目を閉じた。




