7.目覚めて、初めての儀式
まだ夜も明け切っていないというのに、賑やかな鳥の歌で目が覚めた。いつもの埃っぽさを感じず、かすかに漂う木の匂いが心地いい。目を開くと、馴染みのない天井が目に入る。
ここはアルメラ王国北部にあるノイマン子爵邸。私の持ち主となった方の家だ。私はこの邸の主人であるセドリック・ノイマン様に買われ、彼に魔力を差し上げる……魔道具として生きていくことになった。
私は『灰髪の無能』と呼ばれて後ろ指を刺されていた。家族にすらも。なぜなら、この国の貴族に生まれながら、貴族の血に組み込まれているはずの魔法回路を持たない。つまり貴族のくせに魔法が使えず、魔法に選ばれなかった民と同じ灰色の髪をしているからだ。
その評価は確かに正しいし、今後も揺らぐことはないだろう。しかし、この身には災害級の巨大な飛竜を跡形も残さず消し飛ばしても余りあるほどの莫大な魔力を秘めているのだという。
いまだに信じきれないけど、すでに目の当たりにはした。目を閉じると、昨日の記憶がまぶたの裏に次々と蘇る。突然の口付け、空をほとばしる巨大な魔弾、直撃を受けて煙のように消えてしまった飛竜、それから、力強い抱擁。
『ずっと俺のそばにいてほしい』
体を包んだ高い体温と、甘い声色を思い出すとまた顔が熱くなってきた。それだけではない。あの時のセドリック様の顔を思い出すと、なぜか心臓の動きが痛いほどに速くなってしまう。
初めて誰かに必要とされて嬉しかったからだと思ったけれど、少し違う気もする。
胸の痛みの理由がわからずもやもやしているうちに、鳥の声がさらに賑やかになってきて、カーテンの隙間から光が差していることに気づいたた。そうだ、儀式は今日からだとおっしゃっていた。急いで身支度をしなければならない。
私はごろごろと唸るお腹を抑えながらベッドを降り、着替えを探そうとしたところで、部屋の中に少し控えめなノックの音が響いた。
「は、はい」
おそるおそる返事をすると、ドアがゆっくりと開いた。入ってくるのはセドリック様かしら、ハルトマン様かしら、と身構えたけれど、響いてきたのはそのどちらのものでもない可愛らしい声だった。
「ルシア様、おはようございます。お支度をお手伝いさせてくださいませ」
入ってきたのは、この邸の使用人の制服である、端正な黒のワンピースに白いエプロン姿の小柄な女性。少し青みがかった灰色の髪を、後ろで綺麗にシニヨンに纏めている。
落ち着いた佇まいなのですっかり大人のように思ったけれど、黒曜石のように輝く丸い瞳には少女の面影が濃く残っている。歳はもしかすると、私より少し下かもしれない。昨夜のお出迎えの時には見かけなかった人だ。
「おはようございます。よ、よろしくお願いします?」
「申し遅れました。私はメイドのリーネと申します。セドリック様から、ルシア様の日常のお手伝いを担当するように言いつかりました」
綺麗なお辞儀をしてくれたリーネは、「では」と微笑むとさっそく動き始めた。カーテンを開いて部屋に朝日を取り込むと、手際よく洗面台に水を張り、ワードローブを開いて着替えの用意をしてくれている。
私もつられて動く。いつものように思い切って洗面台に手を入れると、張られているのがお湯だったことにびっくりした。おそるおそる顔を洗って、椅子に座る。
「髪型はどうされますか?」
「お任せしていいかしら……」
「かしこまりました」
丁寧に扱われて戸惑うばかりのわたしに、リーネは頼もしく微笑んだ。質実な書き物机の引き出しには筆記具ではなく櫛やブラシといった支度のための道具が納められていて、机の上にはいつのまにか大小様々な瓶が並べられていた。
私はリーネにこわごわ身を委ねた。彼女のしなやかな手が、私の肌や髪を丁寧に整えていく。身支度を人に手伝ってもらったのは父の気まぐれで夜会に連れて行かれる時くらいだった私は、こういう時にどう振る舞うかわからなくて何も言えない。
「ご確認していただけますか?」
髪に塗られた香油の香りにうっとりすることしかできずにいると、声をかけられた。
リーネに渡された手鏡には、肌は色良くつややかで、髪は清楚なハーフアップに整えられた自分が写っていた。着ているのは実家から持参した普段着で、アクセサリーもつけていないので、とうぜん変わり映えしないはずなのに、薄くても化粧をして髪型が変わっただけで見違えるようだ。それこそまるで魔法にかけられたみたいに。
「こんなに素敵にしてくれてありがとう。嬉しいわ」
自然に言葉になっていた。リーネは私の後ろ髪をもう一度整えて言う。
「ルシア様はお綺麗ですね」
耳をくすぐる優しい声が、大切な人のものと重なった。
実家に勤めていたメイドのクララ。両親の目があるから表立って手は出せなかったとはいえ、ひとりぼっちだった私に心を寄せてくれた、たったひとりの人。たまに支度を手伝ってくれる時は、同じように声をかけてくれた。
『私の心はいつもお嬢様のそばにあります』
クララが最後に交わした言葉を思い出すと、今にも涙が出そうになる。どうかずっと元気でいてと、遠くから願うことしかできないことがもどかしい。
「執務室へご案内しますね」
リーネに続いて部屋を出た。空はもうすっかり明るくなっていて、よく磨かれた板張りの廊下が窓から降り注ぐ日差しに応えている。初めて聞く鳥の声と、幾つもの足音と、使用人の軽やかなやりとりの声が重なる。とても賑やかで、活気に満ちた朝。
私の部屋と同じフロアの最奥に、セドリック様の執務室があった。ドアの前に立つとリーネが一礼し、私の横から下がった。重厚なドアをノックすると、中から「どうぞ」と返事があった。
ドアを開いて驚いた。執務室の中は厚いカーテンが閉じられたままで、まるで夜明け前で時が止まったかのような暗さだった。よく目を凝らすと、部屋の奥にある大きな机の前にセドリック様がひとりで影のように立っているのが見えた。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか?」
暗くて見えなくても、笑顔であることは声から伝わった。私は、あちらからも見えないかもと思いながらも礼で応えた。
「は、はい。ありがとうございます」
ドアを閉じるとさらに時間を戻したみたいに、部屋の様子どころかセドリック様の姿を認めることもできないほどになってしまった。
「暗くてすまないな。そこから前に三歩進んだところで止まってくれ」
「はい」
言われた通りに三歩進んで止まると、触れずとも体温が伝わるほどの距離にセドリック様が寄ってきた。それほど近くで見つめあっても、暗くて表情がはっきりわからないからか照れはない。
「すまないな」
セドリック様はまるで見えているかのように私の顎の下に手を添えた。骨ばって大きな手はひんやりと冷たくて、そのうえ微かに震えているようにも思える。どうしたのだろう? 具合が悪いのだろうか。
主を気遣う言葉をかけるべきだろうか。それとも、道具が言葉を話すのは生意気だろうか。
「では、失礼する」
迷っていた私の口を、セドリック様はさっと塞いでしまった。私は、息を止めて受け止めた。
昨日の『儀式』はまるで勢いのままに噛み付かれるようだったけれど、今朝はまるで壊れ物に触れるように慎重なものだった。冷たいのは手だけで、唇は温かい。
私たちの間にあるのは契約のようなものであって愛はないのに、不思議なことにセドリック様のぬくもりに触れることで心が満たされていく。ずっとこのまま触れられていたいと、浅はかな願いさえ浮かんできた。
しかし当然、唇はすぐに離れた。目の前で少し開かれた瞳に、わずかに青い……私の瞳の色と同じ光が散って、紫の中に溶けこむように消えた。
たとえ実感はなくても、無事に役目を終えられたようだ。
「ありがとう」
セドリック様は私の頬に一瞬触れてから、ぱちんと指を鳴らした。閉じられていたカーテンが開き、一気になだれ込んできた朝の光に目を焼かれそうになる。
セドリック様を見れば、私と同じように眩しそうに目を細めていた。朝陽に彩られて、精悍な横顔がより際立ち、美しい黒髪がところどころ虹色に輝いている。
しかし、紫水晶のような瞳には淡く憂いを帯びているように見えた。それを見た私は、セドリック様がわざわざ部屋を暗くしていた理由になんとなく思い至った。
いくら必要なこととはいえ、愛していない人に触れるのはやはり抵抗があるんだろう、と思う。よく考えれば当然のことなのに、私はどうして胸が痛いだなんて思っているのだろう。
窓の方を向いていたセドリック様が視線をゆっくり私に向ける。やはり私の薄暗い考えを肯定するような、どこか曇った表情だった。




