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6.子爵邸へ、歓迎と懸念

「着いたぞ」


 セドリック様の声が耳元で響いた。私は馬車に揺られているうちに眠ってしまっていたらしい。昨夜は緊張でほとんど寝られていなかったことを思い出しながらゆっくりと身を起こし、寝ぼけ眼で窓の外を見た。


 あたりはすでに夜の闇に包まれていて、景色は伺えなかった。けれど白い月明かりが、闇の中に子爵邸の影をかろうじて浮かび上がらせている。


 子爵邸は、失礼ながら実家よりは遥かに小さい建物に思えた。お庭はなんとなく広そうな気もするけれど、暗くて全貌はわからない。


 馭者の手を借りて、馬車を降りる。


 生まれ育った王都とは風の匂いが明らかに違って、まるで香草のような、爽やかな香りをかすかに含んでいる。耳をすませば遠くで鳥が鳴いていて、見上げれば星空が近くにあるように感じる。今まで過ごした場所とは何もかもが違う。


 生まれてこのかた王都から出たこともなかった私が、本当に知らない場所に来たのね。膨らむ不安を押さえつけ、私は前を向いた。白い月明かりのもとで、セドリック様の黒衣がはたはたと風に揺れているのがかろうじて見えた。


「行こう」


「はい」


 セドリック様が人差し指を軽く鳴らすと、石畳の道の縁が光魔法に彩られる。足を踏み出すのと同時に、重厚な玄関ドアが待ち構えていたかのように開いた。


 そのまま邸の中へと進む。光魔法やランプで照らされた壁は眩しいほどに白く、ほのかな木の匂いに包まれて、ざわめいていた気持ちが自然と落ち着いた。


 室内は貴族の邸に相応しい上質さを持ちながらも、装飾は控えめですっきりとしている。セドリック様の今日のお召し物も黒一色で、馬車にしても先ほど見た杖にしても、いっさい無駄のない意匠だった。


 夜会でお召しだった衣装がとびきり華やかだったから、てっきり派手好きな方だと思い込んでいたけれど、あれは対外的なものなのかしら。本当は、華美なものをあまり好まれないのかもしれない。


 そして、目の前には使用人が整列している。数は男女合わせて十名ほど。


「おかえりなさいませ」


 最年長と思しきメイドの挨拶を受けたセドリック様は、嬉しそうに目を細めた。


「ただいま。出迎えありがとう」


 主人を出迎えるのは当たり前なのでは、と思ったけれど、彼にとってはそうではないらしい。


 列が崩れる。「待ちくたびれましたよ」「お疲れでしょう」「夜食用意してますんで」「湯浴みの準備も」使用人の方は笑顔で口々にそう言って、セドリック様も笑ってお礼を口にしている。


 私はその様子を、どこか別の世界での出来事のように見ていた。


 セドリック様に向けられているのが、薄い紙に描いて貼り付けたような笑顔ではないのに驚いた。実家の使用人はみんな、ひたすらにお父様やお母様の顔色を伺って、不在の時を喜んでさえいたのに。


「お嬢様も遠くからよくお越しになられました」


 セドリック様とひと通り話されたみなさんが、私にまで笑顔を向けてくださった。誰も私から気まずそうに目を逸らしたりしない。今までになかったことだ。私はそわそわしながら、言葉に詰まりながら、精一杯応えた。


 しかし、その中にひとりだけ引き締まった表情をしている方がいることに気がついた。


 随分とお若いけど、家令の方かしら……? その人は、すらりとした長身を濃紺のお召し物で包み、群青色の長い髪を後ろでひとつに束ねている。


「ようこそお越しくださいました、ルシア・アルヴェン様」


 声は想像していた通りの滑らかな中低音。銀縁眼鏡の向こうで、銀色の瞳が冷涼に光っていた。


 美しい方だわ、と思った。セドリック様を星が煌めく夜空のようだと例えるとしたら、この人は硬く透き通った水晶のような美しさだ。盛装して夜会にでも繰り出せば、令嬢たちの注目をすべてさらってしまいそうな気がする。


 けれど、私を捕まえる銀色の視線が氷のように冷たくて怖い。つい丸めてしまった背中に大きな手が添えられる。セドリック様が唇を少し尖らせて言った。


「エル、そんな顔すんなよ。怖がってるじゃないか」


 セドリック様が眼鏡の男性の隣に立って肩を抱いた。こうしてお二人が並ぶとすごく迫力があって……もし、切り立った崖を目の前にしたら、こんな気持ちになるのかしら。お父様はそんなに長身ではなかったので、背の高い男性と接するのは慣れていない。


「こいつはエルンスト・ハルトマン。魔術学院主席卒業の優秀な魔術師……つまり、この家で一番偉い人だ」


 セドリック様は、なぜかいたずらっぽく笑って片目を閉じてみせる。


「……そうなのですか?」


「冗談はよせ。本気にしておられるじゃないか」


 ハルトマン様は耳打ちにしては大きな声でセドリック様の言葉を払い除けると、咳払いをし、私をじっと見た。いくら主人が連れてきたと言っても、灰色の髪を見て思うところがあるのかもしれない。


「……何だ? 近侍? 副官? いや、相棒って言えばいいのか? 杖持って戦っても強いけど、頭が切れるし事務仕事やら家事だって強い。頼れる男だ」


 挨拶を交わし合ったあとは、応接室へと案内された。庭を望むために大きくとられたのであろう窓の外は真っ暗で、今は室内のランプの灯りを反射しているだけだ。外の景色を窺い知ることはできない。


 部屋には私、セドリック様とハルトマン様の三人。ハルトマン様が椅子を引いてくださったので、会釈をして腰掛ける。セドリック様は自分で椅子を引いて座り、私の方へと身を乗り出した。


「例の『儀式』は二日に一回、朝食の前に執務室で行う。ああでも、今日もらった分はさっきのでほぼ使い切ったから……悪いが明日から頼みたい」


 儀式……馬車の中での口付けのことを思い出して鼓動が速くなる。あれを二日に一回。また顔が熱くなって俯いた私に、セドリック様は冷静に続ける。


「あと、有事の時は別途対応してほしい。まあ、俺から君に頼みたいことは以上だ」


「わかりました」


 私もできるだけ冷静に答えたけれど、内心は少し揺れていた。大丈夫、きっとすぐに慣れるわ。胸に手を当てて心臓を落ち着かせていると、セドリック様がにっこりと笑ったから、また鼓動が速くなってしまう。


 いつも味気ない暮らしの中で、同じ速度でしか動いたことのない心臓は今、きっとびっくりしているだろう。


「あとは君の好きなように過ごしてほしい。暮らしに必要なものが足りなければすぐに用意させるから、遠慮なく伝えるようにな」


 好きなように、遠慮なく……私の人生ではほとんど聞くことのない言葉だった。手厚く接してくださっているのはわかっていても、なんだか無理難題を押し付けられたような気持ちになってしまう。


「とにかく。君は大事な()()だから、よく食べて、よく寝て、存分にくつろいでくれってことだ。ああ、部屋に夜食を用意してもらってるから、楽しんでくれると嬉しい」


 道中で軽いお食事はいただいたのでお腹はぜんぜん空いていなかったけれど……せっかくの申し出を断るのもと思い、頷いた。


 話を終えると、ハルトマン様と共に客室へと向かった。先導してくださるハルトマン様はじっと無言で、後ろに続く私は緊張で膝が石になってしまったみたいにぎこちなく歩いていた。


「こちらです」


「はい」


 最低限のやり取りの後、ドアが開く。客室には灯りがふんだんに入れられ、夜とは思えないくらいに明るかった。調度はやはり上質ながらも、華やかさより堅牢さを重視したような品物で揃えられている。剛健な男性の部屋を思わせるような雰囲気だけれど、落ち着きがあって素敵だと思った。


「こちらへどうぞ。すぐにメイドが夜食を運んで参りますので」


「失礼いたします」


 また椅子を引かれ、窓際のテーブルにつく。物珍しさであたりを見回してしまったのが目についたのか、ハルトマン様が私を見て眉を寄せた。冷たい色の視線に責められているような気持ちになって、背中が勝手にこわばってしまう。


「ルシア様のお部屋の準備が整うまで、まだ数日かかる見込みです。その間は、この客室でお過ごしください。女性の方には少々居心地が悪いかもしれませんが」


 声色にガラス片のような細かいトゲが混ざっているような気がする。私は、怖くなって首を横に振った。


 ハルトマン様の群青色の髪がランプの灯りを弾いて、まるで夜明けの空を連れてきたみたいに輝いている。美しい色の髪は、魔法に選ばれた民の証だ。


 これだけで、冷たい態度を取られる理由がわかる。


「とっ、とんでもございません。身に余るご厚遇、感謝いたします」


「……では、私はこれで」


 ハルトマン様は私を一瞥すると、部屋を辞した。ひとり取り残された私の心臓が、セドリック様を前にした時とは別の意味で速く動いている。


 ため息ひとつして、自分の髪を手に取る。どこにいても曇ったままの灰色なのを笑われたり、白い目で見られるのは物心ついた時からずっと。


 少し浮かれすぎていたかもしれないわね……そもそもセドリック様が特別なだけで、ハルトマン様の態度が普通で、慣れている。心が痛くならないわけではないけれど、それは仕方のないことだ。

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