40.あなたの望み、私の選択
見張りの方が杖を振ると、ブローチに魔法で刻まれた刻印から、たくさんの色を複雑に織り上げたような光が放たれる。
見張りの方に呼ばれて駆けつけてきた別の方が、その織り目をひとつひとつ読み取っている。私にはただの綺麗な光の帯しか見えないけれど、意味のあるものらしい。
「これは、確かにノイマン家の品だ。婚約者というのも間違いないな」
目の前のふたりが頷くと、たちまち重い扉が開いた。
「どうぞ、お進みください」
扉の先はまた廊下で、突き当たりにはまた大きな扉があった。セドリック様はあの中で手当を受けているのだという。
背後で扉が閉まる音が響き、誰もいない廊下でエルンスト様と二人きりになった。私がブローチを胸に留め直していると、エルンスト様は眼鏡を押さえながら大きく息をついた。緊張の糸が切れたような仕草だった。
「あの、大丈夫ですか?」
エルンスト様が、背中を丸めたままで私を横目で見る。
「それがあって助かりました。まさかノイマン侯爵家の紋章入りの宝飾品を授けられていたなんて。あいつはそんなこと一言も言ってなかったんですが……」
「あ、あの。セドリック様は私がブローチを持っていることをご存知ないのかもしれません。侯爵様がセドリック様のいないところで渡してくださったので」
なるほど、とエルンスト様は頷いて、再び背筋を伸ばした。
「こちらにも切り札はありましたが、ルシア様がルシア様だとどう証明したものかと思っていたので……」
「切り札……? あっ……」
そこで、エルンスト様が見張りの方に言い放った言葉を思い出し、血の気が引いていった。見張りの方は、きっとあの言葉を信じたままだ。
「そ、そうです。その……婚約者だなんて、嘘をついてしまって大丈夫なのでしょうか。もし本当のことがばれてしまったら」
正直に『魔道具だ』なんて言ったら揉めるのは間違いないとはいえ。婚約者だなんて嘘も嘘、大嘘だ……しかもここは王城。
そこの守りを欺いた、なんてことになったら……わなわなと震える私に、エルンスト様が苦笑いで言う。
「大丈夫です。婚約者というのは、別に真っ赤な嘘というわけではないので」
「えっ?」
「ああもう。まったく、肝心なときに倒れやがって。何で俺がこんな役回りを……」
エルンスト様はばりばりと荒っぽく頭をかいて、また深くため息をつく。まるで何かを決心するかのように。
「あの、あの、どういうことでしょうか」
頭の中が『なぜ?』『何?』で埋め尽くされている私に、軽く咳払いをしたエルンスト様は、崩れた表情をきちんと正される。
「失礼しました。とにかく、セドリック様は万が一の事態に備え、こちらを私に託して行かれました」
エルンスト様は先ほどの大きな封筒を探って一枚の書面を取り出して、私の前に差し出した。素直に受け取った私は、目の前にびっしりと並ぶ文字としばし睨み合う。
難しい言い回しを読み解くのに苦労したけれど、ようやく内容を理解した。
私と、ある伯爵夫婦との養子縁組が成立したとのことだった。養父母になってくださったのは全く面識のない方だ。
「あの、こちらの方は?」
「セドリック様の父方の親戚にあたるご夫婦です。とても良い方だそうですよ。奥様がルシア様のお話を聞いて気に入られたそうで。ずっと娘が欲しかったから、ぜひにと」
「待ってください。私なんかで、いいのでしょうか……灰色で、魔法も使えないから、引き取っても恥にしかならないのでは」
エルンスト様は私の言葉を否定も肯定もせず、話を続ける。
「そして、あなたに見ていただきたいものはもうひとつあります」
今度は二つ折りになった分厚い紙を差し出された。開くようと銀色の目に促されて、そっと開く。
「こ、これって、どういうことですか!?」
『結婚証書』と書いてある。初めて見るものなので本物かはわからない。けれどもっと驚いたのは、そこに私の名前が記されていたからだ。
私の目がおかしくなったのでなければ、夫婦になるものとしてセドリック様と、新しくなった私の名が並んでいる。
「どういうこと? 私たちは結婚できないはずなのでは。だって、身分が……」
「問題ありませんよ。先ほどの養子縁組によりルシア様は貴族籍に復帰し、身分も回復しています」
喉を詰まらせながらエルンスト様の言葉を飲み込み、下に目を滑らせる。そこには確かにセドリック様のご署名がある。その隣は空欄のままだ。
そのさらに下、証人の欄にはセドリック様のお父様である侯爵様と、養父になってくださった方のご署名が書き込まれている。
「あの、あの」
動揺で口をぱくぱくさせるしかない私とは対照的に、エルンスト様は落ち着き払った様子で空欄を指さした。
「こちらにルシア様からの署名をいただければ婚姻はただちに成立する状態……つまり、現状ではあなたはセドリック様の婚約者ということになります」
「ええっ……!?」
絶句する。エルンスト様はさらに続けた。
「ですので、処罰を恐れる必要はありません。誰も騙していませんからね……いや、ルシア様のことは騙しましたね」
「騙されたなんて思ってないです……でも、どうして、こんなことに」
「近頃は不穏な動きが続いていましたから、いざという時のための切り札として用意していたものです。あなたがセドリックの何なのかを説明できないと困る場面もあるだろうと」
「そうですね……形だけのものですよね」
なぜか少し安心してしまった私に、エルンスト様は決然とした顔で言った。
「はい。形だけのものでもあり……しかし、セドリックの本心でもある。そばにいたいと願ったこそ、あなたから手を離し、すべてを終わらせようとしていた」
「終わり……」
「そうです。あなたは、もう魔道具ではありません」
その言葉に涙が止まらなくなった私に、エルンスト様が告げる。
「これにてお二人の間で結ばれた契約は終わりです。これからどこで生きていくかは、あなたが好きに選んでいい……セドリックは、まさにあの朝、あなたにそう伝えるつもりでいました」
「……どこへ行ってもいいのですか? 本当に?」
「はい。あなたの選択を尊重するとのことです。その証書も、役目を終えたら破棄することをお約束します」
別れの間際、セドリック様は自分には私を縛る権利はない、そうおっしゃった。だけど、その後には。
『どこにも行かないでほしい』
そうか。私は全てを理解して、手で涙を拭った。
「ごめんなさい。でしたら私……セドリック様には会えません」
「そうですか……」
エルンスト様は残念そうに肩を落とす。私は続ける。
「このままの状態では、という意味です。もしお会いするなら、きちんと筋を通してからでなければと、思います」
「あの、どういうことですか?」
今度はエルンスト様が私に尋ねられた。銀色の瞳が、明らかに戸惑っている。
――あなたは、このまま帰ってきてくれないかもしれないけれど。
手元にある証書を見つめる。私の心はとっくに決まっている。
「すみませんが、ペンを貸してくださいませんか? 私は魔法で署名できないので」
私のやろうとしていることを察したのか、エルンスト様は明らかに狼狽えている。
「そんな、良いのですよ。あなたは、もう自由なんだ……ここを出て、新しいご家族のもとに行けば……」
「わかっています。けれど、どこへ行ってもいいのなら、私が選んでもいいのなら、私はセドリック様のおそばにいたいのです」
揺れる銀色の瞳を、まっすぐ見つめ返す。エルンスト様は静かに頷いた。
「……かしこまりました」
その言葉と共に鞄が開き、私の目の前に光るものが飛んできた。
私はそれを……ペンを取り、証書の中で唯一空欄だったところに立てた。慎重に動かしていく。
初めて書く名字を、絶対に間違えないように。立ったままな上に、極度の緊張でただでさえ拙い文字がさらにひどくなってしまったけれど、なんとか書き切ることができた。
「これで、よろしいですか?」
私が証書を差し出すと、エルンスト様は内容を確認して微笑んで。完成した証書を魔法でどこかへ転送してしまった。
「……婚姻は成立しました。おめでとうございます。では、行きましょう」
もうひとつの扉が開いた。
そこはがらんと広く、眩しいほどに白い部屋だった。白い服に身を包んだ侍医の方と、同じく白い服を着た女性が数名いらっしゃった。
皆さんと軽く挨拶を交わし、私は部屋の奥に足を進める。
セドリック様は、ベッドで静かに眠っていた。飲み込んだ魔石はすべて摘出されたけれど、魔力核に負った損傷が大きすぎて深い眠りから覚めることができない状態らしい
「治癒魔法をかけるのも危険ということですか」
「ええ。意識のない状態で無理に魔法をかけて防御反応でも起こされれば終わりです。少しでも自己治癒が働いて、意識を取り戻してくれたら良いのですが……それも魔力がほとんど枯れていて叶わない」
エルンスト様が侍医の方とそんな会話をされている間、私はベッドから一歩離れた位置で、セドリック様のお姿を見ていた。
顔色はまるで壁の色を映したように真っ白で、いつもは輝かんばかりの黒髪も、今はすっかり艶を失ってしまっている。まぶたは固く閉じられ、長いまつ毛は微動だにしない。耳をすませても聞き逃してしまいそうなほどに呼吸の音は弱い。
まだ息をしている。手を伸ばしたけれど、壊れてしまいそうで怖くて、触れることができない。
「セドリック様……」
勇気を出して名前を呼んでも、答えがない。
「あなたが子爵に魔力を供与していた、のことですが」
侍医の方が私の背後からおそるおそるといった様子で話しかけてきた。振り返った私と目を合わせた途端、彼は驚いたように目を丸くした。灰色の髪と青い瞳の組み合わせは珍しいのだったかしら。しかし、私はその反応を気にせずに質問に答える。
「はい。ですが、そうだった、というのが正しいかもしれません。最近はお忙しいようで、なかなか……」
侍医の方は私に畳み掛ける。
「でしたら、魔力を差し上げてみてくれませんか。今の状態でも受け入れてくれるかもしれない」
皆様が見ていると思うと恥ずかしくなったけれど、そんなことに構ってもいられない。
心を鎮め、お布団から出ていたセドリック様の手に自分の手を重ねた。
やはり冷たい。薬草畑を歩いたときに、繋いだ手の暖かさを思い出すと切なくなる。
手に力を入れる。私の心は、いつしか契約を超えていた。あなたに魔力をあげたいと思うようになったのは……他でもない、あなたのことを愛していたから。
そして、私もあなたから愛されていた。
「セドリック様。あなたのお気持ちは確かに受け取りました。だから……私の気持ちも、受け取っていただけますか?」
あなたのそばで、あなたを支え、寄り添って。あなたの欲しがるものを、与えたい。
私はあなただけの魔道具であり続けたいのです。
あなたに届くかどうかはわからないけれど、祈るように口付けを落とした。
しかし、セドリック様は微動だにしない。握った手も、触れた唇も冷たくて、まるで石に触れているみたいだった。残念ながら、私には飲まれているのかいないのか、感じることはできない。
「やはり、反応はほぼない、か」
なおも静かに眠り続けるセドリック様を見て、後ろで見ていた侍医の方が肩を落とした。
このまま彼の命の火が消えるのを見ているしかない。それ以上の言葉はなかったけれど、そう言われているのは明らかだった。
「セドリックさま……」
少しでも彼のことを覚えておきたくて、私は手を伸ばした。初めてその美しい黒髪に触れる。まっすぐで硬くて、手で梳くたびにサラサラと音を立てる。私はこうされるとくすぐったくて幸せだった。
あなたはなんと思うかしら。私と一緒で嬉しいと思ってくれるかしら。
もう答えを聞くことはできない。
涙が溢れる。ぽたっと、セドリック様の冷たい頬に雫が落ちた。
「な……」
吐息が小さな声になって聞こえた気がした。気のせいだと思った。
「あ……」
セドリック様の唇がわずかに動いている。落とした涙を拭うために頬に添えた手からも、それを感じる。
それこそ、降り始めの雨のようにぽつりぽつりと言葉を紡いでいる。
「……セドリック様!?」
深い眠りの底から、こちらに向かって手を伸ばしてくるように。




