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36.濡れた便箋、黒い鳥の報せ

 ノイマン子爵邸にクララがやってきて数日が経った。私はある目的を持って訪れた洗濯場の入り口で、洗濯カゴを抱えたクララとばったり出会った。


「あら、お嬢様。どうかされましたか?」


 クララは目を丸めて、洗濯カゴを地面に置いた。私はイタズラが見つかったような気持ちで答えた。


「……あの、お仕事をしているところを見せてほしいの」


「え、洗濯を……ですか?」


 私が頷くとクララは不思議そうな顔をしたけれど、後からやってきたアンナに許可をもらって洗濯場の隅に立った。


 ……何も知らない、分からないままではいられない。


 私は、洗濯に励むメイドたちの手つきをつぶさに観察した。


 石鹸をつけ、ひとつひとつ手で洗って、よくすすぐ。洗い終わったら絞り機で絞り、シワを伸ばして物干し場に運び、干す。


 洗濯板に布を擦り付ける規則的な音が響き、石鹸のほのかな香りが漂う。ときおりシャボン玉や水飛沫が飛ぶ。皆さん手際良く工程をこなしていく。


 ひとつひとつ人の手で洗われているとは知っていても、こうしていざ目の当たりにすると本当に大変だと思う。


 何かできることはないかと、物干し場に運ばれるのを待っているシーツの山に、つい手を伸ばしてしまった。


「おっ、重い……」


「お、お嬢様!! だめですよ!! 腰を痛めてしまいます」


 慌てたクララに言われて、肩をすくめる。


「ごめんなさい。何かお手伝いできたらと思って……」


 水を吸った布は重いのだと初めて知った。


 けれど、クララもアンナもそれが幾重にも積み重なった桶やかごの重さをものともせず、きびきびと動いている。


 同じくらい強くならないといけない。私も、これからは働いて生きていかないといけないのだから。


「そうだわ。ルシア様、少しだけお手伝いしていただけますか?」


 隅で物欲しそうにしていた私に気を遣ってくれたのだろう、アンナが小さなカゴを渡してくれた。中に入っていたのは洗って絞られた布巾や手拭い。私は見よう見まねで、シワをちまちまと伸ばす。


 やはり初めてだと上手くいかないし、濡れたものをずっと触っているから、どんどん指先が冷えてくる。アルヴェン家で寒さに震えていた頃を思い出し、自然と気持ちも落ちてくる。


「これから冬になったら、大変ですよね……」


 ついこぼしてしまうと、アンナがにっこり笑って答えた。


「このお邸では、エルンスト様が魔法で水を温ませてくださいますから楽な方ですよ。どちらかと言うと、夏のアイロンの方がずっと大変ですね」


 アイロン? と首を傾げた私。クララはアンナの方を見て、くすっと笑って頷いた。


「ああ、わかります……避けようがありませんものね」


 アンナとクララの間ではきちんと話が通じているようだけれど、私には何を言っているのかわからなかった。けれど、アンナとクララはそのままにこやかに話を続けていて、アイロンって何なのかを聞くに聞けない雰囲気。


 そうだ、何かの本に書いてあるかしら? 次に行くところが決まった。


 ◆


 私は手伝いをさせてもらったお礼を言ってから、書庫にやってきた。壁沿いにずらりと造り付けの本棚が並び、今は半分ほどが埋まっている。


 私はたくさん並ぶ背表紙をひとつひとつ目で追いながら……ため息をついた。ここにあるのは、ほとんどが魔術書。ここの主人であるセドリック様は魔術師なのだから当然だ。


「うーん」


 考えながら腕を組む。メイドの話題に出るということはおそらく魔法関連のものではないはずで……どうやって探せば分からず途方に暮れていると、ドアが開いた。


 別に立ち入りを禁じられているわけではないけれど、気まずさで思わず肩が揺れる。入ってきたのはエルンスト様だった。


「ルシア様。調べものですか?」


 銀色の眼差しが私を射抜く。少し迷ったけれど、エルンスト様には仕事のことなどで質問し慣れている。思い切って助けてもらうことにした。


「はい。えっと、アイロンって何なのかなと……思いまして」


「ん? わかりました……こちらでお待ちください」


 言われた通りにソファに座って待っていると、エルンスト様が「どうぞ」と本を開いて持ってきてくださった。私はそこに書かれている絵と文にじっと見入る。


 アイロンというのはどうやら服のしわを伸ばす道具らしい。金属製の道具に炭を入れて布の上を滑らせると、熱の働きでしわが伸びるのだそうだ。


 つまり、小さな火鉢を手に持っているようなもの、と理解した。ならば、夏につらいのは当然のこと。


 まって。もしかすると、刺繍をした後はアイロンで仕上げるべきだったのじゃないかしら。手で触っているうちにできたしわは一生懸命手で伸ばしていたけれど、間違っていたかもしれない……。


 ひとりで納得して頷いたり恥ずかしくなったりしていると、エルンスト様が口を開いた。


「……近頃、メイドの仕事を熱心に見てまわられてますよね」


 ぎくりとした。私が見たのは洗濯場だけではないのだ。お散歩のふりをして、あちこちを覗いては、皆さんの行動や手つきを観察していた。


 静かな口調がまるで私を咎めるように聞こえ、心臓が早鐘を打つ。皆さんのお仕事の邪魔をしている自覚はあったので、なおのこと。


 それに、理由を尋ねられたら、どう答えたらいいんだろう。


「そ、そうなのです。皆さんがどんなお仕事をされているのか、興味があって……すみません、お邪魔ですよね。今後は……」


 控えます、と言おうとしたけれど、銀色の瞳からふっと力が抜けた。


「まあ、苦情は出ていませんので安心してください。ただ、危険な作業をしていることもありますので、下手に手出しをするのはご遠慮いただければ。お怪我をされてはいけませんので」


「すみません、ありがとうございます……」


 もっと強く叱られると思ったけれど、それ以上は何も言われなかった。だけど私は逃げるように書庫を後にした。



 ◆



 メイドのお仕事を見て回ること以外にも、始めたことがあった。今度は自分の部屋……ではなく、私が住まわせていただいている客室。


「文字を書くのって難しいわ……」


 夕食をとった後、机に向かっていた私は、思い通りに動いてくれない指先を恨めしく眺めながら呟いた。


 机の上には紙の束と手紙のセット、それからペンとインクが並んでいる。エルンスト様にお願いして分けてもらったり、貸してもらったものだ。


 文字を読むことはできても、書くとなるとなかなかうまくはいかない。自分の署名すらろくにしたことのない私には、人に何かを伝えるための文章を考えるのはなんとも骨の折れることだった。


 真っ白な便箋に、少しずつ文章をしたためていく。字が下手で恥ずかしいけれど、セドリック様は近頃はお忙しそうでまともに話ができない。何かを伝えるには、手紙にするほかないと思ったのだ。


 書こうと思っているのは、これまでの感謝と、お願い。もちろん見習いからでいいので、働かせてくれる家や場所を紹介してほしい。それと、クララとのやりとりを許してほしい……クララは少しだけ字を読めるから、手紙を書く練習をしているのはそのためでもある。


 そう。メイドの仕事を見ていたのは、もちろん平民として生きていくのに備えてのことだ。何の取り柄もない私が仕事をして身を立てるのはきっと簡単なことではないけれど、やるしかない。


 ……できれば出ていくのは早いほうがいいと思っている。


 ……あなたの隣に他の女性が立っているのを見てしまう前に。


 ふと、大きくて温かい手を、優しい笑顔を思い出す。もう触れられないもの。


 ぎこちなくも進んでいたペンが止まり、便箋に次々としみができはじめる。


 心はすっかり固まっているのに、それでも。ひとりになると大声で泣きたくなってしまう。


 あなたにふさわしい幸せが訪れるのを、邪魔してはいけないのに。


 ◆


 翌朝。私は早めに起きて、リーネの手を借りずに自分で服を着て髪を束ねた。いつもの時間にやってきたリーネは相当慌てたけれど『早く目が覚めたから』と言い訳して、雲が垂れ込めて灰色に染まった空を見て頷く。


 時間になったら朝食を自分で取りに行ってみようと決めたところで、ノックの音が響いた。セドリック様だった。


「ごめん。大切な話があるから、食事の後に少し時間をとってくれないか」


 今日はお仕事を全て休みにしたと言ったセドリック様から、呼び出しを受けた。


 手紙は結局書けなかった。もう自分の口で伝えよう……私は何も待たずに応接室に向かった。


「失礼します」


 おそるおそる応接室のドアを開くと、セドリック様が既に席についていた。手で促され、私もその向かいに座る。


 冷たい空気が満ちた部屋で、私たちは見つめあう。運ばれてきた湯気立つ朝食に、黙って祈りを捧げて食べ始めた。


 メニューは同じ。量は少ないながらも、私も少し前からセドリック様と同じものが食べられるようになった。ひとくちひとくち、しっかりと噛み締める。


 何日振りかに会えたのに、いくら力を入れても頬が持ち上がらない。食事の間くらい、たわいのないことでも話さなければと思うのに言葉がひとつも出てこない。セドリック様もまた、ときおり私を見つめながらも、静かだった。


 かちゃかちゃと、カトラリーがお皿に触れる音だけが響く。


 ここでふたり、笑いながら朝食をとっていたのがもう遠い昔のように思える。曇りのせいで少し室内が暗いのもあってか、セドリック様の顔色は冴えない。なによりも、表情が硬い。私の背筋も同じように硬くなる。


 食事を終えて、セドリック様はようやく話し始めた。


「ごめんな、急に呼び出したりして。やっと時間が取れたから」


「いえ、とんでもございません」


 私は机の上に目を落とす。セドリック様の前には、分厚くて大きな封筒が置いてある。それは重要な書類を収めるための、上等なものだ。


 セドリック様はというと、私の姿を見てわずかに眉を寄せていた。そして、こわごわといった様子で口を開いた。


「……服、着てくれていないんだな」


 どきりとする。前にセドリック様が贈ってくださった服は、ほとんど着なくなってしまった。まるで春の花のように鮮やかな色は、私なんかが触れてはいけないもののように思えるようになってしまった。


「すみません。仕事をするのに、汚してはいけないと思って」


「そうか……」


 セドリック様は呟くように答えると、目を伏せて黙り込んでしまった。どこからともなく時計の音が聞こえてくる。終わりの見えない沈黙に……いえ、先に言われてしまうかもしれないのに耐えられなくて、私は口を開いた。


「あの、申し訳ありません……先に私からお話をさせていただいてもよろしいですか」


「な、何か……?」


 私が先手を打ったのが意外だったのか、こちらを見つめる紫の目が明らかに丸くなる。もう引き返せない。


 私は勢いのまま、言葉を進めていく。


「大変厚かましいお願いなのはわかっています。ですが、私には、他に頼れる人がいなくて……」


 しかし……私の決意は、聞いたことのない鳥の鳴き声に遮られる。


 ふたりして窓の外に視線を投げる。


 外の風景に特に変わったことはない。しかし、鳴き声が近づくにつれて木々が揺れはじめ、枝で休んでいた鳥たちが曇り空に散らばるように飛び立った。


 鋭い鳴き声は、すでに耳をつんざくほどになっている。


「何だ?」


 セドリック様がとうとう立ち上がり、窓辺に立つ。すると、空の彼方から黒い塊がこちらに向かって矢のような速さで近づいてきた。


 真っ黒な鳥が、まっすぐこちらに突っ込んでくる!


「きゃっ……!」


 このままでは窓にぶつかる!! ……咄嗟に耳を塞いで目を閉じたけれど、いつまでもガラスが割れる音がしない。


 えっ……? 恐る恐る目を開くと、鳥はセドリック様の肩に行儀良く止まっていた。


 私は驚いて口をぱくぱくさせていたけれど、セドリック様は落ち着いていて……わずかに顔を傾けると、鳥は途切れ途切れの歌のような、不思議な調子で鳴きはじめた。


 魔術師の方が使われる暗号だ、と気がつく。


 そう、この邸に来る時にも見た通信魔法だ。魔力で作られた精霊のようなものらしく、実体を持たない……つまり、窓や壁をすり抜けられるのだそうだ。


 私には鳥の歌の意味は全くわからないけど、声色からはどこか必死な様子が伝わってくる。


 やはりよからぬ内容なのか、セドリック様の顔がみるみる険しくなっていく。話を終えた鳥が煙のように消えると、セドリック様は机の上の封筒を乱暴に掴んだ。


「何で今なんだよ……!」


 大きな声に、つい身がすくむ。ただならぬ様子に少し迷ったけれど、私は尋ねる。


「あの、何があったのでしょうか?」


「……ごめん。急ぎの呼び出しがあった……話はまた帰ってからする」


 セドリック様は早口で言うと、素早く踵を返した。


「は、はい……」


 私も後を追うように、応接間を出た。セドリック様が荒っぽい足音を立てて階段を駆け上がる姿をぼうっと眺める。


「エル!! エルンスト!!」


 やがて、二階からばたばたと、ふたり分の足音が響いてくる。


 おふたりがこんなに慌てる姿を、私は初めて見た。


 ……もしかして、なにか大きな事件があったのでは。心臓が嫌な速さで音を立てる。


 私は、ためらいながらも階段にそっと足をかけた。


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