26.小さな咬み傷、嵐の予感
程なくして執務室に戻ってこられたエルンスト様は、ぼんやりと椅子に座っている私を見て不思議そうな顔をしていた。しかし、机の上に残ったままのもうひとつの箱を見るなり、私の方を振り返って珍しく声を裏返した。
「すみません! お願いしたのはそちらではなく! ああそうか、私から見て右だと思ってくださったのですね」
エルンスト様は、わざわざ向かいに立っていた私にわかりやすいように伝えてくださっていたのだ。
「こちらこそ申し訳ありません。きちんと確認もせず……封筒に入ったものをどのように扱えばいいのかわからなかったので、全く手をつけられずにいました」
本当はそんなことないのに、嘘をついてしまう。
「構いません。私の伝え方に問題がありましたね……こちらは片付けておきますので」
エルンスト様はそう言いながら、釣書の箱を私の作業台から執務机へと戻した。それから蓋を開け、中を覗かれる。
釣書と付箋書きはきちんと封筒に納め、元の順番通りに箱に戻したつもりだけれど、エルンスト様ならほんの些細な違いにも気づいてしまうのではないか。
私は黙って見つめつつも、中身を全て見たことがばれたらどうしようと気が気でなかった。
しかし、エルンスト様はうん、と小さく頷くと、蓋を閉めた。そしてそのまま、執務机の横にある棚の空いているところに無理やり納めた。
やり過ごせたらしいことに安心し、さらには念には念をと思い、話を釣書の箱のことからできるだけ離そうと考えた。
「ところでエルンスト様、さっきの悲鳴はなんだったのですか?」
エルンスト様は部屋の隅に高く積んである書類箱を確認しながら、笑って答えた。
「ああ。やはりヘビが出たようですよ。叫んだのはリーネで……この辺りには毒ヘビはいないから大丈夫だと言ってあるんですが、どうやらヘビ自体が苦手なようです」
部下のことを話すというよりは、家族の、妹のことを話すような調子であることに、ついふっと笑ってしまった。
私がリーネのことを可愛いと思っているのと同じような気持ちを、エルンスト様も抱いているのではと思った。
「私もヘビは怖いので、リーネの気持ちがわかります。さいわい、ここのお庭で出会ったことはありませんが」
というか、私は生まれてこのかた一度もヘビを見たことはない。物語の中でおぞましいものとして描かれる生き物、という認識だ。
お散歩中、目の前にヘビが現れたことを想像して震えた私に、エルンスト様はまるで仲のいいお友達の話でもするような調子で笑う。
「よく見ると、なかなか愛嬌のある顔をしてるんですけどね。この辺りに住んでいるのは図体が大きいものが多いので驚かれるかもしれませんが、そっとしておけば噛みつかれることもありませんよ」
ずきりと、喉のあたりに鋭い痛みが走る。
……そっとしておけば噛みつかれることはなかった。
私は必死で笑顔を保ちつつも、エルンスト様の方ではなく、棚に押し込まれた釣書の箱に目をやってしまう。
もう知らなかった頃には戻れない。心のひび割れから、とめどなく血が流れようとも。私はいつか来る別れの日まで、明るく笑っていなければ。
愛するあなたの心には、ひとつもシミを残したくないから。
どんっ、と、目の前に重そうな書類箱を置かれた。目が覚めたような心地を覚える。
「では、こちらの中身を日付順になるように並べていただけますか? 少し量が多いので、今日中に終わらなくても構いません」
「わかりました」
この仕事だって、セドリック様に与えていただいた大切な居場所だ。せめて役に立てるうちは、きちんとこなしていきたい。
◆
量が多いと初めに言われただけはあって、今日は長丁場だった。作業は昼食を挟んで、お昼のお茶の時間までかかってもまだ終わらず、残り半分ほどを次回に繰り越すことになった。
アンナが運んできてくれたお茶を、エルンスト様と一緒にいただいた。
「お疲れではありませんか?」
エルンスト様に言われてカップを見つめると、模様がじわりと滲んで見える。眉間に力を込めたり、瞬きをすると一度は輪郭を取り戻すものの、またすぐにぼやけてしまう。
最初は……起きているのに、まるで夢の中にいるようだと思った。そう、目の疲れというものを覚えたのもつい最近だ。ここで暮らし始めてから、本や刺繍に夢中になったり、書類に触れるようになったからだと思う。
「そうですね。体は平気なんですけれど、目が少し……」
「……でしょうね。私のように目を悪くするといけませんから、今日は早めに休んでください」
「わかりました。寝る前の読書は短めにします」
と、肩をすくめた私を見て、エルンスト様が目を丸くされたのち、少しずれた眼鏡を押し上げながら苦笑いした。
「本がお好きになられたようで良かったですが、くれぐれも気をつけてくださいね」
するとエルンスト様が、ご自身のことを少し話された。子供の頃は目がとても良かったそうだけれど、学院生の時に目を悪くされたのだとか。夜更かしを繰り返していたらあっという間に、とのことだった。
「きっと、たくさんお勉強されたからでしょうね」
「そういうことにしておきましょうか」
たわいのない会話とお茶の香りを楽しんでいると、廊下を早歩きで進むような足音が近づいてきて……ドアが大きな音を立てて開いた。
「エル!!」
脱いだマントを片手に引っ掛けたセドリック様が、部屋に飛び込んできた。私は驚いてむせそうになったのをぎりぎりのところで耐える。
エルンスト様は立ち上がり、セドリック様に向かってやや声を荒らげる。
「おい……! ドアは静かに開けてください。ルシア様もいらっしゃるんですよ」
「あっ……! ごめんな、びっくりさせて」
セドリック様は、椅子を目掛けて投げようとしていたのであろうマントを胸元でぐるっと丸めて抱えると、静かに着席し、小さく口を開いた。
「王都中心部に魔獣が出た」
セドリック様からマントを取り上げて、ハンガーにかけようとしたエルンスト様の眉がわずかに吊り上がる。私も息を呑んだ。
セドリック様は頬杖をつき、苦いものを噛んだような顔で続ける。
「出たのは小型低級が数体だけどな。発見した騎士が対処して、民への被害はなかったらしいが……」
「王都に魔獣が出ることなんてあるんですか?」
つい口を挟んでしまい、おふたりからの注目を浴びる。私は部屋に閉じ込められていたとはいえ、ずっと王都で暮らしていた。そんな騒ぎが起こればさすがに耳に入るはずだけど。
そもそも、王都は魔獣が住む暗黒地帯からは遠く離れているし、とくに王城のある中心部は強固な防護結界が張られていて、中から喚ばない限りはよからぬものは入り込めないのだという。
「迷い込みの線はまずなくて……あとは魔術学院の召喚実習で失敗して……みたいな事故がたまにあるくらいか?」
「そんなことが起こっても、すべて内々で処理するからな」
エルンスト様から、セドリック様への敬語が消えている。もしかすると、いつの間にか密談の域に入っているのかもしれない。聞いていてもいいのかしらと思いながらも、私はお二人の話に耳を傾けた。
「ああ。もし学院の敷地内から魔獣を出したら教授の首が危ないからな」
そう言いながら冗談っぽい笑顔を浮かべたセドリック様だったけれど、それも束の間のことだった。
「しかし、人攫いの次は、魔獣の出現か」
「あっ、そうだよ!!」
エルンスト様が呟くと、セドリック様は大きな声を上げ、いかにも机を叩き出しそうな勢いで話を続けられる。
「そっちもまだ解決してねえんだよ。ていうか、騎士団のやつらめ、被害者が何人いるかすら正確に把握できてないと抜かしやがった……もはやこれはただの人攫いじゃねえのに、何もわかっちゃいねえ……」
「あの、人攫いって……?」
おふたりの視線が再び私の方へと向く。
お仕事の話に口を挟むべきでないと分かっていたのに、思わず声を上げてしまった。
「あ、ごめん。うーん……」
セドリック様は少し迷われたような様子を見せながらも、詳しく話してくださった。
「ここ最近、王都の周辺でいわゆる『色付き』の子供が何人も攫われているんだ。荷物が届きにくいのもその事件のせいでな」
王都で何かがあったせいで荷馬車の検問が強化されている、とセドリック様が言っていたのを思い出した。そういえば、庭に植える予定の花の種や苗もまだ届いていない。
ちなみに、色付きというのは……。
「色付き……というのは、エルンスト様のような?」
エルンスト様は頷いた。平民として生まれながら、魔法の素質……鮮やかな色の髪の方のことをそう呼ぶ。
貴族に生まれながら灰色の髪で、素質を持たない私とは、よく似ていてもまるっきり逆の存在だ。
「けれど色付きの方と言っても、まだ子供というなら……魔法は使えないんですよね……? それなのに、ただの人攫いではないって、どういうことなのですか?」
セドリック様は首を横に振る。
「いいや。別に魔法を使える必要はない……いや、むしろまだ魔法は使えない方が好都合かもしれない」
おっしゃることの意味がよくわからなかった。魔法が使えなければ意味がない……物心ついた時からずっとそう言われて生きてきた私には、いまいちしっくりとこない言葉だったからだ。
「魔法を使える必要はない……のですか?」
放った疑問にまず返ってきたのは、深く息を吐く音。私を見つめるセドリック様の顔は、これまでになく険しかった。
「……ああ。魔力を持っている、それだけで十分に利用価値はある。特に悪いことを考えてるヤツにとっては」
私の背中を、冷たいものがぬるっと這っていく。セドリック様の眼光の鋭さに怯んだわけではない。
いつの間にか胸を押さえていた手にさらに力が入る。たとえ自覚していなくとも、ここに眠っているもの。セドリック様が求められているもの。
……魔法は使えなくても、魔力はある……つまり、それは私のことでもあるのでは?
ふと、父が突然ここを訪れ、売ったはずの私を取り返そうとした時のことが脳裏をよぎる。とにかく焦っているのが見てとれた。
考えすぎかもしれないけれど、あの時期の訪問は果たして偶然だったのだろうか?
セドリック様は厳しい眼差しをそのままに、言葉を続けた。
「これは俺の考えとは違うというのを前置きしてから言うが、魔術師団が本当に危惧しているのは攫われた子供の命が危険にさらされていることではない」
「そんな……」
子供の命は二の次と言われてるようなもので、落ち着いてなどいられなかった。どうしてなのだろう。もし、もしも。平民だからだという理由だとしたら……そんな酷いことはないと思う。
私が口を出すべきではない。わきまえているのに、何かを言わずにはいられない。けれど、ふつふつと沸く感情をうまく言語化できない。
ただ、握りしめた手に少しずつ力がこもっていく。
「……その子達を生贄にして、何らかの強大な魔法を仕掛けようとしているのではないか、ということだな」
「ああ……そんなものを打たれたら、とてつもなく大きな犠牲が出る可能性がある」
執務室の中に凍ったような空気が満ちた。私はえもいえない恐怖で言葉を失い、ふたりの魔術師の表情も硬い。
窓の外では何も知らない小鳥が、楽しそうな歌声を奏でていた。




