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22.初めてのお稽古、小さな挫折

 数日後のお昼過ぎ、執務室にて。セドリック様が見守る中、私は先ほど届いたばかりだという裁縫道具と対面した。


「わあっ……」


 いい年をして子供のような歓声をあげてしまった私を、セドリック様は咎めることはない。優しげに目尻を下げたまま、じっと黙ってくださっていた。私はほっとして、再び裁縫箱に目を向ける。


 蓋には花や鳥を模った細工が施されていて、ところどころに虹色に輝くものがはめられている。


「もしかして、宝石……ですか?」


「いや、それは磨いた貝殻だと思うぞ」


 セドリック様は目を瞬かせ、さらりと言った。


「か、貝……?」


 さすがに貝が何かという知識はあるけれど、そういえば見たことも食べたこともない。目の前できらきら光っているものと、全くつながらない。


 ……とにかく、まるで魔法がかけられたような美しさには息を呑むしかない。蓋の留め具に手をかけて開いてみると、蓋裏にはなんと、私の名前が刻印されていた。


 ああ。こんなにも素敵なものが、私だけの持ち物だなんて夢のよう。名入れのものを手にしたのは生まれて初めてだった。


 今にもはしゃぎたくなる気持ちを飲みこんで、中に入っているものをひとつずつ確認していく。


 ハサミと指ぬきにはもちろん傷ひとつなく、誇らしげな銀色に輝いていた。私なんかが触れればたちまち灰色に曇ってしまうのではないかと、つい畏れ多くなる。


「綺麗……」


「そうだなあ」


 ため息をこぼし、震える手で二段目を開いてみる。中には大小二つの刺繍枠と、色とりどりの刺繍糸がめいっぱい詰まっていた。


 まるで花を摘むように、糸をひとつずつ手に取ってみる。手のひらの上に咲くたくさんの色に心が躍る。これだけ色があれば、どんなものでも描けそうだ。


「あら?」


 なぜか、紫の糸がやたらと多い気がする。いえ、紫と括ってしまったけれど、全てが違う色だ。朝焼けの空のような淡いものから、紫水晶のような深いものまで。少しくすんだものから鮮やかなものまで。


 理由に心当たりはあった。もしかして、私が『紫が好き』と言ったから?


「どうかしたか?」


 何か思いついたような声を出したまま黙ってしまった私を、セドリック様が心配そうに見つめていた。私の大好きな、澄んだ紫色の瞳で。


「あの、糸が……」


「あ、もしかして足りなかったか?」


 セドリック様は、私がすべて言い切らないうちに曇った表情をされた。私は首をぶるぶると横に振った。


「いいえ。とんでもありません。糸があまりにもたくさんあるので、びっくりしたのです。あの、本当にありがとうございます」


「……安心した。まあ、相変わらず向こうに全部お任せで、俺は言われた通りに金を出しただけなんだがな」


 お金、と言われて私はハッとする。セドリック様はニコニコされているけれど、急に心臓がはやりだした。


「あっ! その、高かったですよね。こんなに綺麗で、名前まで入れていただいていますし」


「ああ、まあ、それなりにしたかな。けど、別に使い捨てるようなものじゃないだろ? どうか長くそばに置いてやってほしい」


「はい。もちろんです。ずっと大切にします!」


 セドリック様は目を細めて頷いて、椅子にどかっと腰掛けられた。まるで一仕事終えたかのようなお顔に見えた。


「そうだ、刺繍をするときは、手元が明るいほうがいいよな?」


「ええ。細かい作業ですから、きっとそうですよね」


「……だよな。応接室を自由に使ってくれていい。あそこは日当たりがいいから、()()()で細かい作業をするのにちょうどいいだろう」


「あっ……!! ありがとうございます!!」


 みんな、とおっしゃった。つまり、()()に刺繍を教えていただけるということだ。


「ああ、君が喜んでくれて嬉しいよ。いろいろと頑張った甲斐があった」


 セドリック様は机に頬杖をついて、得意げに笑った。


 ◆


 翌日。私は応接室の椅子にリーネと並んで座っていた。テーブルを挟んで向かいのには刺繍の先生……ここのメイド長のアンナがいる。


 テーブルの上には買っていただいたばかりの裁縫道具。それから刺繍糸と練習用の端切れ、それから新品の白いハンカチ。


 私は背筋を伸ばして、アンナに頭を下げた。


「お仕事がお忙しいのにごめんなさい。よろしくお願いします。リーネも来てくれてありがとう」


「いいえ! ルシア様と一緒で嬉しいです」


 私が刺繍を始めようとしていることを知ったというアンナは、すぐに声をかけてくれた。


 独学で頑張るのもいいけれど、道具の扱い方や基本的なことは、実際に見て覚えた方が上達も早いだろうと。


 それを聞いたセドリック様も、アンナが私の指導役に就くことと、リーネも生徒として同席することを了承してくれたのだ。


「いいんですよ。リーネも本当によかったわね」


「はいっ!! まさか、私にまでこんな立派なお道具を買っていただけるなんて……」


「私たちにとっては贅沢な品ですからね。本当に大切にしなさいね」


「もちろんです!」


 そう力強く頷いたリーネの手にも、セドリック様から贈られたぴかぴかの裁縫箱が収まっていた。私のものとは違い、小ぶりで素朴な意匠のものだった。


 つい自分のものと比べてしまって、申し訳ない気持ちがよぎった。しかし、中に入っている道具はほとんど同じもので、きちんと手入れをすれば一生使えるくらい質の良いものらしい。


 アンナが言うには……使用人が住む部屋では、個人の持ち物を置く場所は限られている。だから、小さくまとまっているものをあえて希望したそうだ。


「私にも、擦り切れたりしたものはないかって声をかけてくださったんですよ。お優しいですよね」


 アンナはそう言って、自分の裁縫箱を開いた。中の道具は若い時からお金を貯めて少しずつ買い集めたものだそうで、どれもしっとりと落ち着いた輝きを放っている。長い間、大切にされているのが見てとれた。


「では。時間も限られていますし、さっそく始めましょう」


 まずはアンナに針やハサミ、糸や刺繍枠の扱い方、縫い始めや縫い終わりの糸の始末のやり方、針の進め方などを実際に見せていただく。


 一通り見て、今度は自分でもやってみる。アンナはいとも簡単にやってみせたのに、これがなかなか思ったようにはいかない。


 同じく針仕事は初めてのはずのリーネはとても上手にできていて、アンナに褒められているのに。


 私も、と思っても、空回りするだけで全然上手くいかなかった。


 針に糸を通すだけで一苦労し、糸端を結ぶのもなかなか上手くいかない。縫い始めてみれば針で指を何度も刺すし、しまいには糸が絡まるしで、そのたびにどんどん気持ちが萎んでいってしまう。


 その日は特に成果が生まれないまま、時間となってしまった。


 道具を抱えて部屋に戻った私はソファに腰掛けると、初心者用の図案の本を取り出した。裁縫道具や教本とともに、セドリック様が買ってくださったものだ。


 次からは、さっそく作品に取り掛かりましょう。アンナの言葉を思い出した私は、本を開いて困り果てていた。


 中には可愛らしいお花から、美味しそうな果物、動物、鳥や魚、それに、いかにも男性が好まれそうな勇ましい絵柄、実用性重視の魔法陣まで様々な柄が掲載されている。


 今まで通り絵を眺めているだけでいいのなら、とても楽しいのだけど。


「はあ。どうしたらいいの」


 本の横には、刺繍枠。布には酔っ払いの足跡のような点線が這っている。これが今日のお稽古で私が生み出したものだ。


 刺繍枠から布を外して、丸めてしまう。


 次のお稽古は二日後。それまでに、どの図案を刺すかを決めないといけない。だけど、思い通りに針を動かすことすらままならない私に、いったい何が作れるというのかしら?


 今日のお稽古でのことを思い出すと、胸の中にもやもやしたものが涌いてくる。それは今までに感じたことのない、なんとも苦い感情だった。


 泣き出したいような、足を思いっきり踏み鳴らしたいような。心がこんな揺れ方をするのは初めてで、どう受け止めたらいいのかわからない。


 ついでに、何を作りたいのかもわからなくなってきた。


 私は本を手に取ることをやめて、膝に手を落としたところで、ノックの音がしてアンナが入ってきた。


「ルシア様、お手を見せていただけますか?」


「はい……」


 私が首を傾げながら両手を前に差し出すと、アンナは迷わず私の左手を取った。


「先ほど、針でたくさん刺してしまったでしょう?」


 恥ずかしくて顔が熱くなり、つい手を引っ込めそうになる。しかし当然アンナの力の方が強く、私にはなす術がない。


「だ、大丈夫ですっ」


「いいから、見せてくださいな」


 刺繍に使う針は細いから、刺し傷を作ったところで血も出ないし、痛みも針を刺してしまった時の一瞬だけだったから、もうすっかり忘れていたくらいだ。


 アンナは私の手をじっと見ている。逃げ出したい気持ちになる。


「本当に、大丈夫なので……」


「ええ、確かに布を当てるほどではないですね。けれど、手当てはしておきましょうね」


 そう言って、エプロンのポケットから取り出した塗り薬を丁寧に塗って、手を握って温めてくれた。


「あ、ありがとうございます」


 アンナの目線は、私が先ほどくちゃくちゃに丸めた布に向いていた。


「ルシア様。上手くいかなくて悔しいかもしれないですが、最初はみんなこうですよ。私もそうでしたから」


「え? は、はい」


「大丈夫。きっとちゃんとできるようになりますからね」


 そう言い残すと、アンナは足早に部屋から出て行った。


 窓の外では、すでに陽が傾き始めている。よく考えれば、今は夕食や就寝前の準備などで忙しいお時間のはず。私のために、わざわざお仕事を抜けてきてくれたのだ。


 塗り薬の清涼感のある香りは目の前のもやも晴らしてくれるようだった。アンナが手当をしてくれたのは指先だけではなかったのだ。


「ああ、私は悔しかったのね……」


 上手くやりたいのに、アンナのようにはいかなくて。課題を難なくこなすリーネと、針で手を刺してばかりの自分を比べて。悔しくなったのだ。


 今までは何かにぶち当たっても諦めるしかなかった私が、そんな感情を抱いたのはもちろん初めてのことだった。

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