19.なくしたもの、うたかたの夢
私はセドリック様の私室に呼ばれ、ドアの前に立っていた。
ノブを捻ると、ドアが滑らかに開く。
「失礼いたします……」
雨の音があまりにもひどいので、いつもより少し大きめの声を選んだ。返事は聞こえなかったけれど、構わずに中へと入る。
カーテンは開いていても、天気が悪いせいで室内は薄暗い。部屋の様子を見るには、少し目を凝らす必要があった。
私が使わせていただいている客間より広い。けれど調度は似た雰囲気のものだ。主人の部屋と聞いて想像していたよりはずっと質素なお部屋だった。
贅沢そうなものは机くらいだろうか。とても広くて、本やノートが山積みになっている。日々勉強を欠かしていないことが伺える。
机の後ろに並べられた棚には魔道具らしきものや、船の模型、勲章などがごちゃごちゃと置いてある。おもちゃ箱、という言葉がなんとなく合う雰囲気だった。
香が焚かれているのか、朝のお庭のような爽やかな匂いが満ちていた。セドリック様の香りだわ、と思ったけれど、胸の高鳴りはない。
「ルシア」
セドリック様はマントとジャケットを脱いだ姿で、部屋のいちばん奥、ベッドの淵に腰掛けていた。
もしかすると、私が来るまでは横になっていたのかもしれない。顔色は明らかに良くなく、背中を丸めて小さくなっている。初めて見る弱々しい姿だった。
隣に座るように手で示されたので、ためらいながら腰掛けた。苦しそうな息遣いが確かに伝わってきて、心配になる。
「……大丈夫か?」
「私は大丈夫です、あの、それよりもセドリック様のほうが」
セドリック様は力なく笑った。
「俺も大丈夫。怒りに任せて適当に魔法を使ったせいだ。自分の力に制限があることをすっかり忘れていた。ごめんな、びっくりしただろう」
「え、えっと……」
そう口にしてみたものの、いったい何から話せばいいのかわからない。それほどまでに先ほどの出来事の衝撃は大きく、私の頭の中はいまだに混乱していた。
「……隠していてごめんな。落ち着いて聞いて欲しい」
セドリック様は観念したように話し始めた。
「君はここにきてすぐに、アルヴェン家から籍を抜かれた。受理証明の写しはとっくに受け取っていたのだが……身寄りがなくなってしまったことをどう伝えたものかとずっと悩んでいた」
……つまり、私は貴族の身分を失ってただのルシアとなってしまったということ。
「そうですか……」
俯いた私の背を支えるように、セドリック様の手が添えられた。けれど、私はもともと苗字や家はいずれ捨てるものだと言い聞かされて生きていた。行き先が修道院ではなかっただけで、その時が来ただけとすんなり受け入れられている。
「これによって君の扱いを変えるつもりはない。君は俺の大切な魔道具で、客人だ。これからも安心して暮らしてほしい」
「ありがとうございます」
伯爵家という後ろ盾をなくしてしまった私にとって、その言葉だけで十分すぎるというのに、セドリック様は私に頭を下げた。
「ごめんな。伯爵に隙を与えて、君に手を上げさせてしまった」
「どうか頭を上げてください。エルンスト様が痛みや腫れを取ってくださいましたし……叩かれるのには慣れていますので」
「ルシア……」
私はもう何ごともない頬に触れながら、今も体のあちこちに残る傷のことを思う。セドリック様が明らかに息を呑んだけれど、私は構わず続けた。
「あのとおり気性の荒い人なので、言うことを聞かないと……棒や、鞭で叩かれることもありました。それに比べたら、平手打ちなんて大したことないです」
「そんな」
「ですので、私は平気です。どうか気に病まないでください」
強がりなどではないから、私はごく自然に笑ったけれど……セドリック様は拳で胸を抑えて俯いている。その姿があまりにも痛々しく見えた。言わなければよかったと、罪悪感が雨と一緒に降ってくる。
「そうか。ずっとつらかったんだな……今日は目の前にいたのに。守ってやれなくてごめんな。本当にごめん」
あなたが苦しむ必要なんかないのに、どうしてそんなにつらそうなお顔をされるのだろう。喉の奥で、また言葉になりきらない感情が丸まっていく。
「いえ。お父様……が、お騒がせして申し訳ありませんでした」
父のことをどう呼ぶか、少し迷った。だけど父としか呼びようがない。血の繋がりがあるだけの他人のことを示す言葉があるのかどうかを私は知らない。
「お願いだから、謝らないでくれ……君はなにも悪くないんだから」
セドリック様は今にも泣きそうな声で言うと、私の手をそっと取った。いつもは熱いくらいなのに、今は血が通ってないみたいに冷たかった。
しばらく雨の音を聞いたあと、私はようやく、父との間に何があったのかを尋ねることができた。
「父からの手紙には、なんと書いてあったんでしょうか?」
「俺が払った金額の倍額を出すから、身柄を渡して欲しいと。もう俺のものだと断っていたんだが、本当に本当にしつこかった。まさかここに直接押しかけてくるとは思わなかった。距離があるから油断していた」
父にも魔法は使えるけれど、生活魔法程度だ。ここまで来るには当然馬車を使うしかない。王都にあるアルヴェン家からここまでは馬車で丸一日かかる。遠すぎるわけではないけど、気軽に来られる距離でもない。
つまり、よほどの理由があったはずだ。
「お父様は、私が高値で売れたと喜んでいたはずなのに」
「……だな。だけど手紙に理由は書かれてなかったし、さっきも何も言わなかった。『とにかく買い戻したい』の一点張りだ。訳がわからない」
セドリック様は頷いて、「締め上げてでも聞き出しておけばよかった」と小さく呟いて頭を抱えた。
私は、今までのことを思い返していた。そういえば、父はこういった不可解な行動をよくとっていたような気がする。
私の灰色の髪を恥と呼んで、家から出ないように言っておきながら、突然部屋から引きずり出されるようにして夜会に連れていくこともあった。理由を聞いても叱られるだけなので黙って従っていたけれど。
私も結婚を考える年頃だからかと思っても、仮に綺麗に着飾ったとて、灰髪にご縁があるとも思えない。それに父は私を周りに紹介するでもなく、いつも壁際に放っていってしまうのだ。
『しばらくの間、ここに立っていろ』
……と言い残して。そう言われると私は壁に溶け込んで、周りからの嘲笑に耐えながらじっと帰る時間を待つしかない。セドリック様と初めて会った日もそうだった。
あの日……セドリック様と目が合わなければ、魔道具には他の人が選ばれていたのだろうか。
そんなことを考えていると、セドリック様に問いかけられた。
「ちなみに、君の妹君は……その、大切にされていたんだよな?」
「はい。私はともかく、妹ふたりのことはとても可愛がっていたように思います」
父は天塩にかけて育てたはずの妹を、無能と言って追い出した私の代わりに差し出すと言った。幸せを願っての言葉である訳がない。
おそらく父はセドリック様について大きな誤解をしたうえで、『下の娘を』と言ったのだ。
セドリック様は決して私を痛めつけて泣かせるような方ではないのだけれど、父は妹のことすらどうでもいい、と思っていたということ。
……あんまりだと思う。確かに貴族の女に生まれた以上、家に利益をもたらすための駒として扱われるのも致し方ないことだとは知っているけれど。妹は、灰髪の私と違う。軽く扱われていい理由なんて何もない。
「妹のことは、ちゃんと愛していると思っていたのに」
「ルシア」
名前を呼ばれて顔を上げると、セドリック様の両腕が私の方へと伸びてくるところだった。その先に起きることを覚悟して目を閉じる。
「きゃあ」
セドリック様が突然、ぽきりと折れるように倒れた。なんと私までそれに巻き込まれて……まるでベッドに押し倒されるような格好になってしまった。
「大丈夫ですか!?」
上半身を押さえつけるようにのしかかる腕の下でもがきながら叫んだ。口を開けば間違いなく心臓が飛び出してきそうだ。
「ごめん。なんか、めまいが……」
顔を見れば、視線がふらふらと定まっていない。明らかに様子がおかしい。血の気が引いた。
「えっ! お、お医者様を呼んでもらいましょう」
「……魔力が切れただけだ。魔力を分けてもらえないだろうか」
背筋にぴしりと力が入った。求められれば儀式に応じるというのは、ここに置いてもらう上での契約で、私の務め。
でも、たとえ役目でないとしても……と今は思う。決められたからではなく、私の意思で。
私はゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
セドリック様は躊躇わなかった。そのまま冷たい唇を受け止める。心臓の下にもうひとつ、鼓動を打つものが浮かびあがってくるような不思議な感覚を久々に覚える。
『儀式』はいつもより長く、ようやく唇が離れて息を吸えた私を、セドリック様はぎゅっと抱き寄せた。
「あのっ、ど、どうされましたか?」
飛竜を落とした後、勢いのままに抱きつかれて以来のことに、動揺して声が裏返ってしまう。
「ごめん。まだ目が回っている。起きられるまで待ってほしい」
「はっ、はい……」
回された腕にさらに力がこもった。とは言え、あの時の乱暴な抱擁とは違い、包まれるように優しい。私はされるがまま、セドリック様の広い胸に顔を寄せた。
大好きな匂いに包まれて幸せで、どうかこのまま離さないでほしいと思ってしまう。抱きしめ返したくなる気持ちを抑えつけて、私はひたすら物のようにじっとする。
冷えていた体が、優しく温まっていく。
こうして、セドリック様の腕の中で眠れたらいいのに。
人は、ひとつ幸せを知ってしまうと、どんどん欲深くなってしまう。少し前までは、眠る場所があるだけでも感謝していたのに。
「ずっとここにいていいからな」
「……ありがとうございます」
抱きしめる力がさらに強くなる。同時に、胸を締めつける痛みも。甘い囁きが耳を撫でる。
「いや、ここにいてほしい。君がいなければ、俺は……」
「わかっています」
だけどそれはあくまでも、魔道具としてだ。
涙がこぼれないように目を閉じた。
ふと気がつくと、苦しそうだった呼吸の音はすっかり穏やかになっていた。だけどセドリック様は動きを見せない。
「楽になられましたか……?」
返事がない。不思議に思ってなんとか顔を上げると、なんとセドリック様はすやすやと寝息を立てていた。寝顔はまるで少年のようにあどけない。どきっとした。
セドリック様は王都まで移動して戻ってこられたところだ。移動魔法では移動時間は省略できても、移動に伴う疲労は溜まるという。片道で丸一日かかる距離を一日で往復したのだから、さぞお疲れだったのだろう。
たとえ眠っていても抱きしめている腕はしっかりとそのままで、とうてい自力では抜け出せそうにない。早く人を呼んでなんとかしてもらわなければ……と声を上げようとしたところで、ふと、悪い考えが頭をよぎる。
私はそれに従って、広い胸に顔を寄せて目を閉じた。
「ごめんなさい……」
どうかもう少しだけ、ここにいることを許してください。
身分を失ったことについて、今になって胸を焼くような悲しさが込み上げてくる。
……この国では、貴族と平民の結婚は認められていない。だから、私にとって『ルシア・アルヴェン』であることは、一粒の希望だったのだ。
だけど、もうそれすらもなくしてしまった。
あなたがさらに遠い人になったと思い知るのは、束の間の甘い夢から目覚めた後でもいいでしょうか。
雨は、依然として止みそうにない。
◆
つい先日のこと。少しずつ読み進めていた『灰まみれ姫』を、ようやく最後まで読むことができた。
物語の結末は、家族に虐げられて苦労を強いられてばかりだった彼女が、勇敢で優しい王子に見そめられて結婚し、末長く幸せに暮らすというものだった。
ちなみに灰髪の私と灰まみれの彼女は、似ているようで全然違った。
灰まみれ姫は家族から虐げられてぼろを着ていても、最後まで貴族令嬢のままだった。そして、頭にかぶった灰を落とせば、誰もが羨む美しい金色の髪をしていた。理由があって隠していたけれど、魔法も使えた。
戦で傷を負って瀕死の王子を魔法で救って、彼女は人々から聖女と崇められた。そして、目を覚ました王子となんの障害もなく結ばれる。しかし、これは奇跡などではなく当然のことだった。
王子妃になるために必要なものを、彼女は全て持っていたのだから。
だけど……私には、なにもない。
私の願いは、叶わない。




