第4話【誘拐と、少女の想い】
街の朝は早い。
石畳を照らす日差しは柔らかく、空気にはほんのりと焼きたてのパンの匂いが混じっていた。
ティリオは、いつものように質素な布服に身を包み、宿の前に立っていた。
背筋はまっすぐで、手ぶら。
「何か持つという概念」が彼の中にまだ薄かった。
「お待たせいたしました、ティリオさま」
宿の玄関から姿を現したのは、今日も丁寧で上品な仕草を忘れないリリスだった。
日差しに映える淡い青のワンピースを身にまとい、帽子を手に下げている。
その後ろには、しっかりとした身なりの従者も控えていた。
二人は並んで歩き始めた。
リリスは途中、ティリオの歩幅に合わせるように意識的にゆっくりとした歩みをとった。
ティリオは、無意識のうちに彼女の動きに呼吸を合わせていた。
最初に訪れたのは、町の中央広場近くのパン屋だった。
「良い香りでしょう? この通り、朝はいつも賑わっているんですのよ」
店先には焼きたてのパンが並んでおり、試食用のかごが設けられていた。
ティリオは立ち止まり、香ばしい匂いに目を細める。
ティリオ試食用にと置いてあった小さなパンを手に取り一口かじった。もちもちとした食感に、バターの風味が口の中で広がる。
「……これは、戦う価値がある」
「試食にそんな気概を込めなくても……っ。ふふっ」
リリスが笑いを漏らすと、ティリオはきょとんとした表情を見せた。
次に彼らが足を止めたのは、小さな装飾品や服を扱うブティックだった。
「ここは女性に人気のお店ですの。こういうのも、見ているだけで楽しいですわよ」
店頭に飾られた色とりどりのスカーフやリボン、ブローチにリリスが目を輝かせる横で、ティリオは眉をひそめた。
「これは……鎧ではないのか?」
「いいえ、それは飾りですの。戦いではなく、おしゃれのために着けるものですわ」
「おしゃれ……」
ティリオはそっと一つのブローチを持ち上げ、竜の鱗の記憶と照らし合わせた。
「似ているな。昔、誇り高い竜たちが光る鉱石を身体に巻きつけていた。意味はよくわからなかったが、もしかして……これと同じか?」
リリスは一瞬驚いたように目を丸くしたあと、ふわりと笑った。
「まあ。竜の方々にもそういう習慣が?」
「いや。あれはたぶん、遊びだったと思う」
「……そういう言い方をなさると、何だか……可愛らしく感じてしまいますわね」
従者はやや困惑した顔で二人の会話を聞いていたが、リリスは気にせず、ティリオに次の場所を案内しはじめた。
何件目かを回ったあと、リリスはふと、思い出したかのように言った。
「……あの、お取り置きしていただいたものがあって、ちょっとだけ、寄らなければならないお店があるんですの。少しだけ、お待ちいただけますか?」
散策を一通り終えた頃、リリスがそう言った。
穏やかに微笑む彼女に、ティリオは無言で小さく頷いた。
「ありがとうございます。すぐ戻りますわ」
リリスはワンピースの裾をつまみ、礼儀正しく一礼してから小走りに通りを去っていった。後ろにはエドガーがきっちりとついていたが、その姿もやがて人混みに紛れて見えなくなった。
ティリオは、人気のある広場の一角に腰を下ろし、空を仰ぐ。
陽射しは穏やかで、石造りの街路にはゆっくりと午後の影が伸びていた。
しかし、時が経つごとに、何かがずれていく違和感が胸の奥に溜まっていった。
──リリスが、戻ってこない。
立ち上がったティリオの元に、全速力で走ってくる人影があった。
「ティリオさまっ……!」
それはリリスの従者、エドガーだった。彼の顔には血の気がなく、目には焦りが滲んでいた。
「お嬢様が……リリス様が、消えたのです! ほんの一瞬、私が目を離した隙に……っ!」
ティリオの表情は変わらなかった。ただ、風の匂いをかぐように鼻を鳴らす。
「……あった。微かだが、リリスの匂いが残ってる。ついてこい」
ティリオは石畳の通りを無駄なく駆け、迷いもなく路地裏へと進んでいった。細い通路の先、古びた煉瓦の壁の影――そこに、見慣れた淡い青のワンピースが揺れていた。
リリスは、男たちの一人に口を塞がれ、引きずられそうになっていた。
三人の男。全員が粗い皮鎧を着こみ、腰には剣。
その目には明らかな悪意が宿っていた。
「貴族の娘とはいい小遣いになる。静かにしてくれりゃ、すぐに済むさ……!」
そう言い放つ彼らに、ティリオの影が忍び寄る。
「……やめろ」
三人が振り返るよりも早く、ひとりが魔法を詠唱した。
「《ファイア・スパーク!》」
小規模ながら鋭い火球がティリオの胸を直撃する。
「ティリオ様っ!!」
リリスが悲鳴のような叫びをあげた。
──が、その炎は、ティリオの胸元で音もなく散った。
白い布地が焦げ、ぱさりと焼け落ちる。
ティリオは、服の裂けた部分を指でつまんで眺める。
「……また破れた」
「な、なにィ!?」
魔法を放った男が後ずさりする。
次の瞬間、視界がぐらりと揺れ、風が走った。
──そして、戦いは終わった。
一人、二人、三人――。
まるで葉を払うように、ティリオの拳は正確に相手の急所を撃ち抜いた。
気を失った男たちが、くぐもった音を立てて地面に倒れ込む。
ティリオは静かに、リリスの前に立った。
「大丈夫か?」
口を覆われていたリリスが、震える手で顔を覆いながら、微かに頷く。
「……また、助けていただいて……ありがとうございます」
その声は震えていたが、瞳はまっすぐにティリオを見つめていた。
「私……何度もご迷惑を……ごめんなさい……」
ティリオは無言で、彼女の頭をそっと撫でた。
リリスは目を丸くし、次の瞬間、かすかな涙を浮かべて微笑んだ。
「……無事で、よかったな」
ティリオが、初めて笑った。
その微笑みは、ほんの少し口角が持ち上がっただけのものだったが、リリスにとっては心臓の音が跳ねるほどの衝撃だった。
なぜ、こんなに胸が高鳴るのでしょう……?
鼓動の早さに戸惑いながら、リリスは自分の気持ちの正体にまだ気づかないままでいた。
⸻
エドガーが駆け寄り、三人の男たちを確認してから深く頭を下げた。
「……ティリオ様。今までの私の態度、心からお詫びいたします。リリスお嬢様に無礼な振る舞いをされた方に対して、私は少々……しかし、今日のことを見て、それが間違いであったと痛感しました」
ティリオは特に返さず、リリスに向き直る。
「今日はもう、休んだ方がいい。屋敷まで送る」
「はい……そうですわね」
静かな道を歩き、やがてリリスの街での邸宅が見えてきた。
「また会えるのは、入学式の頃だな」
ティリオが言うと、リリスはそっと頷いた。
「……楽しみにしておりますわ」
ティリオは軽く手を上げて振り返らずに去った。
その背を見送りながら、リリスは小さく手を胸に当ててつぶやいた。
「……私、どうしてこんなに……ドキドキしてるのでしょう?」
◇◇◇
間章:エドガー視点――貴きものの側にて
侯爵家に仕える従者として、リリスお嬢様の護衛を任されたとき、エドガーは誇りを抱いていた。
家柄、礼儀作法、気品――すべてにおいて並外れた才覚を持つお嬢様を守ることは、騎士見習いだった頃からの夢であり、名誉であった。
だが、その誇りは、出会った“少年”によって早々に揺らがされた。
少年の名はティリオ。
見た目は整っていた。背は高く、目つきは鋭い。だが、纏っているのは見るからに粗末な布服。貴族ならずとも、あれを正装とは呼ばない。
しかも、初対面にもかかわらず、リリスお嬢様に対してまるで礼を尽くす気配がない。
叩き上げの冒険者ならまだしも、貴族の令嬢に無遠慮な目線を向けるなど――本来であればその場で制止すべき非礼であった。
しかし。
「助けられたのですわ。命を」
リリスお嬢様が微笑みながらそう言ったとき、エドガーは、口を噤まざるを得なかった。
命を賭して魔物から守ったという事実。それはどんな非礼も帳消しにして余りあるものだった。
悔しいが、認めるしかない。守るべきお嬢様を、自分は守りきれなかったのだから。
**
馬車の中で、お嬢様と“あの少年”が二人きりで乗り合わせるなど、本来であれば従者として断固反対すべき事態であった。
だが、「恩人だから」という理由のもとに、お嬢様は静かにその横に座った。
エドガーは、前方の御者台から何度も振り返りそうになる自分を押さえ込んでいた。
そうして走る馬車の扉が、突然の音を立てて開いた。
「!? 危ない、何を――」
驚く間もなく、少年が身を翻して地に飛び出し、まるで弾丸のような速さで森の奥へと駆けていった。
「……人か?」
そう呟いたのは本心だった。あの速度、あの着地、あの身のこなし。
少なくとも、街で見かける冒険者風情には到底できない動きだった。
**
半日をかけて、ようやく王都近郊の街へと到着した。
その日のうちにリリスお嬢様のために用意していた邸宅へと案内し、数人の使用人たちと今後の準備を確認した。
翌朝。
お嬢様はまだ疲れが残っているであろうというのに、昨日の少年のことを気にされ、学園へ向かうと告げられた。
エドガーはもう一人の従者と共に、お供として同行した。
学園の門で再会した少年は、相変わらず無遠慮だった。
だが、お嬢様は微笑みを絶やすことなく、彼に街を案内するよう命じた。
「そこまでする必要があるのですか……」
小声で呟いた言葉は、もう一人の従者の共感を得たが、お嬢様に届いていたかはわからない。
**
翌日の散策。
お嬢様は街の案内を楽しんでいるように見えた。だが、事件は、何の前触れもなく起きた。
少年──ティリオと別れた矢先のことであった。
──お嬢様が、いない。
エドガーは気づいた瞬間、血の気が引いた。
「……お嬢様?」
店の中から外へ、通りから裏路地へ。あらゆる方向を確認したが、姿が見えない。
空気に魔力の残滓を感じた。恐らく、何らかの魔法によって視線を逸らされたのだ。
思考が白くなり始めた頃、ふと通りの先にあの少年を見かけた。
「お嬢様が……リリス様が、消えたのです! ほんの一瞬、私が目を離した隙に……っ!」
縋るように声をかけた。
少年は空を仰ぐと、ついてこいと言い踵を返し、走り始めた。
エドガーもその後を追った。
細い路地。煉瓦造りの壁。湿った空気。
そして、その先に――
「お嬢様……!」
彼女が、口を塞がれ、三人の屈強な男に囲まれていた。
身を乗り出した瞬間、火球の魔法が放たれた。
「っ……!!」
少年に向けて撃たれたそれが命中する。
──が、彼は、無傷だった。
一瞬の沈黙のあと、すべてが終わっていた。
三人の男たちは地に倒れ、まるで音もなく眠るように動かない。
エドガーは、しばし息を呑み、そして深く頭を垂れた。
「……ティリオ様。今までの私の態度、心からお詫びいたします。リリスお嬢様に無礼な振る舞いをされた方に対して、私は少々……しかし、今日のことを見て、それが間違いであったと痛感しました」
悔しいが、認めるしかない。
あれは――ただの少年などではない。
騎士の卵? いや、それ以上の何かだ。
**
リリスお嬢様が、無事に屋敷へ戻り、少年と別れたあと。
エドガーはお嬢様の様子に違和感を覚えた。
頬が、赤い。
あの少年の背を、じっと見つめている。
「……お嬢様?」
返事はなかった。
その顔は、まるで夢見る少女のようだった。
(……まさか。いや、そんなはずは……)
従者として、それ以上口に出すことはなかった。
だが、エドガーは知っていた。
侯爵令嬢の瞳が向けられたその先に、少年がいたことを。
騎士のように無骨で、けれど不思議な優しさを纏う、あの少年が。
「……そんなこと、ないですよね?…お嬢様…?」
彼の長い従者人生の中で、間違いなく最初の“警鐘”が、静かに鳴っていた。
入学前はこれでおしまいです。
次でようやく学園編いきます。