第1章2
遥かなる昔か、まだ見ぬ未来か、教会と王家が支配する大陸があった。イオは16歳の修行僧、成人のための修行の旅に出て、初秋の森で、季節外れの豪雪の中で行き倒れてしまった。そこに現れた天使のような人に助けられた。
。
「大丈夫なの」
「たぶん、そのうち目覚めると思いますよ」
「一発殴って、叩き起しちゃえば」
「そんな……」
周りで誰かが話している声に気がついて、イオは目を開けた。あたりはぼんやりとしていたが、しばらくすると目が慣れてきた。低い天井は丸太を組んで作られていた。壁もすべて剥き出しの丸太で出来ている。隙間を漆喰で塞いであるのか、中はとても温かい。
「ほら、大丈夫だったでしょう」
脇にふくよかな女性が座っていた。
「あなたが私を助けてくれたのですか」
「いいえ、そちらの方があなた様を連れてきたのですよ」
そう言って女性は眼で反対の方を示す。イオはゆっくりと頭をめぐらした。頭の下には藁を木綿の布でくるんだ枕があった。足元の暖炉には、薪がくべられ、ごうごうと燃え盛っている。床は日干し煉瓦を敷き詰めた土間だ。その上に羊の毛皮を敷き、そこに寝かされていた。体の上にはごわごわとした毛布がかけられ、服は乾いた麻の寝巻のようなものに替えられている。
「雪の中で倒れていたあなた様をここまで引き摺ってきてくれたのですよ」
「引き摺って……」
そう言えば体のあちこちが痛い。
「良かった、生きていたんだね」
金髪の人が、暖炉の光を受けて微笑んでいる。雲の切れ間の光の中で天使に見えた人は騎士の格好をしていた。半袖の胴着の下に、赤紫の刺繍を施した白い絹の長袖のブラウスを着ている。ズボンは柔らかいなめし皮で出来ていて、それに合わせたようなブーツが真新しい。脇に置かれたマントには同じ赤紫の縁取りがしてある。その色が高貴な家柄を象徴している。騎士はまだ若い。イオと大して変わらない年だから彼もまた成人修行なのか。
白の魔法使いは十六歳になると成人修行のために一年間諸国を旅する。その間の旅費は各地にある教会から支給される。騎士も同様に成人の証しとして一年間の武者修行が義務付けられている。それを全うしないと騎士の称号を得ることが出来ない。騎士も同様に教会から旅費の支給を受けることができる。
「あなたがおれを助けてくれたのか」
「そうだよ」
「引き摺ってって、あの、雪の道を引き摺ってここに運んだのか。もう少し他に……」
行き倒れの人間を引きずって運ぶというのは、あまりにも乱暴だ。せめて担ぐとか、人を頼んで馬に乗せるとかして欲しい。体のあちこちが痛いということは道に転がっている石に打ちつけた結果だろう。
「しょうがないじゃない。だってあんたは重かったし、担ぐとか、おんぶするなんてできなかったんだもの。周りに家も見当たらなかったし、マントにくるんで足を引っ張って運んだの」
けらけらと明るく笑う騎士に何も文句は言えなかった。ほっておかれたら、今頃死んでいる。助けてくれたのだから感謝こそすれ文句を言える立場ではない。ただ、頭の後ろに大きなたんこぶが出来ていた。
「感謝するよ」
「うん」
騎士はにっこりと笑って大きな匙を突き出す。
「それは」
「ここの家の人に頼んでスープを作ってもらったの。おなか、空いているんでしょ」
そう言われて猛烈な空腹感が沸き上がった。スプーンを受け取ろうと手を伸ばしたが、口につきつけられた。
「食べさせてあげるよ」
有無を言わさず口にスープが流し込まれる。豆と野菜がわずかに浮いた薄いものだ。かすかに塩味がする。教会で出されるようなベーコンや腸詰が入ったものとは格段に落ちるが、暖かさに救われた。体はまだ寒気がする。起き上がるには辛く、力が入らない。イオは寝たまま差し出されたスプーンからスープを飲んだ。何度もスプーンが運ばれ、体の中に温もりが戻ってくる。
「パンもあります。ここに置いておきますから」
農婦が黒パンを騎士に渡す。麦をそのまま挽いたもので、荒い格子模様がついている。見るからに硬そうなパンだ。
「ありがとう、おばさん」
「騎士様もお食べください。ずっと法師様についていてあげたのでしょう」
農婦がもう一つの木鉢を騎士に渡す。イオは改めて騎士を見つめた。イオをここに運び、この家に助けを求め、暖炉の前で暖めてくれたのだろう。ずっとそばにいてくれた騎士、その間、食べ物を取らず、看病してくれたのだろうか。足元の陶器の鉢に炭が入れられていた。体を温めるために気遣ってくれたようだ。スプーンを運ぶしぐさは教会の賄いの女たちのようなしとやかさには負ける。手慣れたしぐさではない。
まだ大人になりきっていない少女のような華奢な体つき、きらめく金髪が緩やかに波打ち、卵型の顔にそって流れている。澄み切った夏の空のような綺麗な大きな蒼い瞳には吸い込まれそうだ。細い眉はくっきりと弧を描き、鼻筋の通ったその先のふっくらとした唇が強い意志を示している。空人と見間違えてもおかしくないほど、美しい顔立ちだ。十六の少年にしては細くひ弱な印象だが、服にはかなり身分の高いものだけに赦される赤紫の刺繍が施されている。どこかの大貴族か、王族の末裔か何かだろうか。脇に置かれた剣の柄にも、細かい文様の細工が施されている。花のレリーフがちりばめられ、鞘の革にも打ちだされた同じ花の文様がある。手の込んだその細工物をこの騎士は無造作に床に置いていた。
騎士はひとしきりイオにスープを飲ませ終わると、大きく千切ったパンを突き付けた。
「どう」
「もう自分で食べられるよ」
スープと違ってパンを無理やり口に突っ込まれるのは少々辛い。イオは身を起してパンを受け取った。暖炉の温もりと足元の火鉢、ごわごわしているが分厚い毛布のお陰で体は温まり、力も戻ってきた。
「そう、じゃあ、どうぞ」
騎士は微笑んでパンを手渡す。しぐさは優雅で、気品がある。が、夢うつつに聞いた言葉はこの騎士が言ったに違いない。確か、一発殴って叩き起こしちゃえば。相当おおざっぱな騎士だ。
食べ終わると農婦が食器を下げに来た。
「お二人ともこの雪の中で行き倒れかけたんでしょう。何もないですが、ここで休んでいってください。暖炉には新しい薪をくべておきますから、暖かくしてお休みくださいね」
数枚の毛布を渡してくれた。いくつかの幼い顔がドアの陰からイオたちを覗き込む。ここの家の子供たちだろうか。物珍しそうに顔を出していたら、農婦がドアの向こう連れて行く。ドアが閉められると、イオは改めて騎士に向き直った。
「ありがとう。助かったよ」
「どう致しまして。なんだか魔物が集まっていたから気になって見に行ったたらさ、あんたが雪の中で寝ころんでいて、あのまま置いておいたら死んじゃうんじゃないかと思ったんだ」
騎士はそう言って大きく口を開けて笑う。イオは複雑な気分になった。イオには小さなころから魔物が付いて回る。さすがに教会の中にまで魔物が入ってくることはないが、ちょっと教会を離れると、どこからともなく魔物が近寄ってくる。この成人修行の間中、修行というより魔物からいかに逃げるか、それに腐心していた。その魔物がまとわりついたおかげで、この騎士に見つけてもらえたのだとしたら、奇妙な幸運だ。
「おれの名はイオ。成人修行のために旅をしている。君は」
「サリューだよ。よろしくね」
「君、何者なの。雪の中で見たとき、まるで空人みたいだった」
イオはまだ本当の空人を見たことはなかった。教会にある絵や人の話によると、空人とはかつて天から降りたが、地に着く前に森にとどまったという天使の末裔だとか。背が高く、金色の髪と翡翠のような瞳を持ち、男も女も見とれるほど美しい姿形をしていると聞く。風を操り、大きな球形の空虫につかまって、空を自由に行き来するという民で、人や魔物とはかかわりなく気ままに生きているという。
「まさか、空人ほど背も高くないし、綺麗でもない」
「綺麗だと思うけど」
イオは正直に言ったつもりだったが、サリューは少しばかり不機嫌そうだ。
「あんたも綺麗だよ。銀色の髪の毛なんて珍しいね。そういう人がいるって話、聞いたことはあるけど、見たのは初めてだよ」
イオは自分の髪を触った。確かに銀色の髪の毛は珍しい。しかもイオのように煌めく銀髪はめったにあるものではない。肌の色は普通だし、目の色も深い茶色で取り立てて変わった色ではないが、髪の毛だけは人目を引く。そのおかげでずいぶんいじめられた。イオはこの髪の色が好きではない。
「綺麗な髪だね。それに可愛い顔してるよ」
サリューがくすくすと笑う。十六歳にもなって可愛いと評されるのは心地悪い。成人のための修行に出ている身だから、もう大人の仲間入りをしていると思っている。それを可愛いとは子供扱いだ。
「あんたの方が可愛いよ。それでよく武者修行が務まるね。あんただって成人として認められるための修行中なんだろう」
イオはやり返す。
「ま、そんなもんかな」
そう答えるとサリューはくるっと背を向け、毛布を被って寝てしまった。イオはもっと聞きたいことがあったが、満腹感につられてそのままサリューの横に寝転がると、穏やかな寝息を立てた。
サリューに救われ、安堵したイオ。これからどんな旅が待っているのか、サリューの正体は、そしてなぜ、こんな季節外れの豪雪が降っているのか。謎は始まったばかりだ。