第3章5
王家が支配し、白の教会の魔導士が魔法を操り、魔物が徘徊する世界。修行僧のイオは、成人のための修行の旅に出ていた。道中、同じく修行の旅をしている騎士サリューと道連れになり、困窮の旅を続けていた。そのサリューを探す追っ手に捕まってしまう。サリューは一国の姫で、城を抜け出してきたのだ。サリューを城に連れ戻すべく、行き先を変えた一向に従うイオ。途中教会に寄り身支度を整えてもらう。
「今夜、会う相手はこんな場所にいるのですか」
サマールは初めて足を踏み入れる貧民街の酒場で、怖気づいていた。軒の低い建物が半ばかしいで建っている。日が落ちてかなり経つというのに、人通りは多く、猥雑な声がする。女郎宿から甲高い声が媚びて投げかけられるのも、居心地を悪くする。サマールは法衣をすっぽりと覆う長い外套を着ている。外見からは魔法使いとはわからない。女たちもまさか彼が法師とは思わず、卑猥な言葉で誘いをかけている。
「メンター・アダマ様、待ち合わせの場所は本当にここなのですか」
「怖いか」
「いえ……」
怖かった。なぜだかわからないが、底知れぬ恐怖が沸き立つ。低い軒の連なる細い路地は、多くの商店が並び、女郎宿や男娼宿の前で客引きをしている。他に奴隷商人が店を出し、幼い子どもが鎖に繋がれて店の前に並んでいた。
ザワッと背筋に冷たいものが走る。見てはいけないものを見た、そんな感覚だ。アダマはサマールの背を叩いた。
「お前もあんな風だったな」
鳥肌が立つ。思い出したくない記憶が鮮明に浮き上がる。あれは三歳くらいだったか、サマールは奴隷だった。あの日、サマールは腹を減らしていた。
何日もろくな物を食べていなかった。サマールの主人は彼を最初は高く売ろうとしていた。かわいらしい幼子を拾った奴隷商人は金持ちの家の内働きとして売りつけようと、こぎれいな服を着せ、奴隷市場に売りに出したが、売れなかった。
サマールには魔物が付いて回った。いつまでも売れないので、商人はサマールを大事にしなかった。普通、奴隷は商品だ。見苦しかったり、やせ衰えていたら売れない。だから食事や衣服には最低限、気を使ってもらえるのだが、サマールは違っていた。まともな食事も与えられず、ぼろを纏っていた。さりとて捨ててしまうにはもったいない、ひょんなことで売れるかもしれないと、商人はサマールを飼っていた。
サマールは飢えをしのぐ為に盗みを働いた。近くの家に忍び込み、こっそり喰い物を盗む。そうやって生き延びていた。
あの日、サマールは近くの家に忍び込んでいた。洗礼の宴が催され、ごちそうが厨房で作られていた。置き場がなかったのか、裏庭に台が引き出され、そこに料理を盛りつけられた皿が置かれていた。サマールはそれを狙った。すばしっこく盗むのが常だったが、その日は運悪く家人に見つかった。
「この鼠が」
男がサマールを掴みあげた。
「あ、ごめんなさい」
泣き声を出したが、それが通じる相手ではない。
「こいつ、このあたりを荒している奴じゃねえか」
「ありゃ野良犬の仕業と思っていたが、こいつだったか」
男たちが集まってきた。サマールは恐怖で全身が震える。泣いて謝るが誰も耳を貸さない。
「どうしました」
長身の男がやってきた。
「どうもこうも、こいつが洗礼の祝い膳を穢しやがった」
サマールに祝いの膳がどういう意味のものか知らない。ただ食べ物だと手を伸ばしただけだ。
「盗人の腕を切り落とせ」
農夫らしき男が怒鳴る。
「お願い、もうしません」
泣きじゃくるサマールは薪割り台の上に押しつけられた。
「いや、いや……」
振り上げられた斧が鈍く光る。
「いやー!」
叫んだ。途端、空間がぶれた。男は尻もちを付き、斧は遠くに飛んで行く。
「これは……」
背の高い男が端然として呟いた。
「法師様が止めたんですかい」
男たちがざわめく。
「あ、まあ、そうですね。腕を刎ねるほどのことはないでしょう」
「ですが、性悪なガキですよ」
「この子供、私が引き取ります」
どよめきが湧く。騒ぎを聞きつけて飛んできた奴隷商人が法師の前に進み出た。
「法師様がこいつを買ってくださるんで」
「ああ」
「それじゃあ、金貨百枚で」
「それでは高過ぎでしょう。こんな小汚い子供、相場では金貨二十枚、腕を刎ねられるような性悪なら、十枚もあれば十分ですよ」
法師は金貨を放り投げた。
「ついてきなさい」
法師の言葉にサマールは地面にひれ伏した。
「はい、ご主人様……」
その日、サマールはアダマに買われた。
「何をぼうっとしている」
「あ、いえ」
アダマに声を掛けられてサマールは現実に引き戻された。あれは昔の話だ。今は法師で奴隷ではない。胸がちりちりと痛む。奴隷であったことを隠し、ここまでやってきた。表向き、アダマの親族の子供という触れ込みだ。奴隷であったことは忘れることにした。それなのに、こんな店先で忌まわしき記憶がサマールを縛る。
「あの奴隷を見て昔を思い出したか」
「いいえ、私は法師です」
「そうだ。私が引き取り魔法学校にも入れた。私の自慢の弟子だ。これから私の力になってくれるだろう」
「勿論です。今まで育てていただいた御恩に報いるためにも、この身に代えましてもあなた様の為に働きます」
「あてにしているぞ」
満足げにアダマはサマールの肩を叩く。
「仲次の言っていた待ち合わせの店はここらしいのだが」
酒場の中は暗く、ろうそくが申し訳程度に灯っているだけで、人の顔もはっきりしない。
「地図屋が来ていると聞いたが」
尋ねると店の主人は無言で店の奥を指さした。黒い影がわずかに動く。
「お前か、地図を売ると言ってきたのは」
アダマは法衣をすっぽりと覆う外套を脱いで、客の前の席に座った。
「あんたが買主か。法師だとわかっていたら、こんな店で待ち合わせをすることはなかったが」
「あまり表だって買える代物ではないからな。それにしても空人の地図屋とは珍しい」
黒い影は息をのんで押し黙った。
「空人……」
サマールは改めて影を見た。空人は背の高いと聞いていたが、目の前の人物はさほど高いとは思えない。よく見ると、ひどく低い椅子に座っていた。ちょっと見にはわかりにくいが、ローブで椅子を覆ってその背丈を隠していた。
「わかるものだな。おれはこれでも背の低い方なのだが……」
店の中は薄暗い。アダマに言われなければ、サマールは目の前の相手が、空人だとはわからなかっただろう。地図屋はゆっくりとローブのフードを下ろした。煌めく金髪と、翡翠のような大きな眼が現れる。
「空人の割には、まともな物言いをするな。空人は人のことを物扱いにして、これとか、それとか呼ぶのではないか」
「人相手に商売をしているんだぜ。少しは譲歩するさ。それよりあんたが欲しいのは西と北の国境のあたりの地図だと言ったな。あのあたりは魔族が多くて割高になるぜ」
「足元を見る気か。地図屋は他にもいっぱいいるぞ」
「おれをそんじょそこらの地図屋と一緒にするな」
押し殺した声だが、怒りが滲んでいた。
「人の地図屋ではドラゴンでさっと飛ぶ程度で、大した地図は出来ない。大雑把にあそこに森がある、山がある、そのくらいの地図、王宮にいくらでもある。あんたはそんな地図が欲しいのか」
「お前の地図は物の役に立つのか」
「勿論、おれは空虫につかまってゆっくり森の上を飛ぶ。時には森の奥に降りることができる。ドラゴン使いとおれと、どっちが詳しい地図が描けるか、わかるだろう」
アダマは外套の中から袋を取り出した。
「地図を……」
空人は袋の中身を確かめてから、少し不満そうだったが、それでも大きな羊皮紙を数枚、アダマに差出した。
「いくつか紅いしるしが入っているだろう。それは魔物の営巣地だ。飛竜で飛ぶときはそこを避けた方がいい」
「ほう……」
アダマが地図を広げている間に空人は店から出ていった。街の喧騒はそんな取引を気に留めない。猥雑な言葉が飛び交い、酒に酔った男たちが小競り合いを繰り返す。裸に近い女たちが嬌声を上げながら、音楽に合わせて身をくねらせて、男に媚びる。サマールはそれから目をそらし、早くここを立ち去ることばかり考えていた。
陰謀が進んでいく。メンターアダマは何を目論んでいるのか。古文書を解読することのできるこの魔導士は教会の中枢に取り入り、地図を求め、何かを企てている。イオたちが旅をする裏で大陸には暗雲が立ち込める。




