ラウンド4:人はなぜ“悪”を選ぶのか?
(照明が再びスタジオを照らす。空気には少し重たさが残る。あすかは深く一度うなずき、穏やかに立ち上がる)
あすか
「ラウンド4に入ります。今回の問いは、これまで以上に私たちの“日常”に近いかもしれません。」
(カメラがゆっくりと対談者たちの表情を映す。どこか張り詰めた緊張感と、深い集中が同居している)
あすか
「問いはこうです――『人はなぜ“悪”を選ぶのか?』」
(少し間を置き、あすかが静かに言葉を続ける)
あすか
「制度があっても、信仰があっても、人は“悪”に手を伸ばすことがあります。欲望? 無知? それとも、自由ゆえの悲劇なのでしょうか。皆さんの視点で、この問いに向き合っていただければと思います。」
(ドストエフスキーが最初に口を開く)
ドストエフスキー
「人は、理由なく悪を選ぶことがあります。私はそれを“地下室の人間”と呼びました。合理性も利益もない。
ただ、自分が“選べる”という証明のために、人は自ら不幸を選ぶことがあるのです。」
(荀子が目を細めて)
荀子
「それは、教育と礼が欠けた結果にすぎぬ。人は欲望に支配されやすい。理がなければ、衝動に流され、結果として“悪”に至るのだ。」
ドストエフスキー
「だが、それが人間の“自由”であるならば? 正しいとわかっていても、あえて“悪”を選ぶ、その瞬間にしか人は、自分が“生きている”と感じられないこともある。」
(あすかがやや驚いたように目を開く)
あすか
「……“悪を選ぶことで生きている実感を得る”。それは、すごく、怖いことですね……。」
(カトリーヌが、静かに話し出す)
カトリーヌ
「ええ、でも……理解できますわ。私がかつて行った政治的決断の多くも、他人から見れば“悪”でした。
でも、私はそのとき、“最善”を選んだつもりだった。問題は、後になって“善悪”を判断されるということ。
人は、その時々で“正しいと思った悪”を選んでいる……そんな気がします。」
(モーセが、ゆっくりと視線を上げて)
モーセ
「選ぶ前に、問う心が必要だ。“これは、神の前に正しいか?”と。
だが多くの者は、自らに都合の良い神を創り出す。そして、その“神の名”で悪を選ぶ。」
(荀子が、静かにうなずく)
荀子
「人が悪を選ぶのは、“弱さ”からだけではない。
“自らを正当化する知恵”を得てしまったこともまた、罪なのだ。」
ドストエフスキー
「まったくその通りです。
人は、善と悪を“理解しているからこそ”悪を選ぶことができる。理解なき悪は獣にすぎません。だが、理解したうえで選ぶ悪……それが、人間なのです。」
(あすか、しばし沈黙。そしてゆっくりと問いかける)
あすか
「でも、じゃあ……私たちはどうすればいいんでしょう。
“悪を選ばない”ためには、何が必要なんですか?」
(モーセが、低く)
モーセ
「神を恐れ、他者を愛することだ。愛がなければ、律法も空虚となる。」
カトリーヌ
「私は、“責任”だと思うわ。自分の選択に、自ら責任を持つこと。
“仕方なかった”“命令だった”という逃げ道を、自ら閉ざせるかどうか。」
荀子
「教育だ。幼少より礼を学ばせ、己を知ることで、欲望に支配されぬ人間に育てる。」
ドストエフスキー
「私は、“赦し”を信じたい。
人は、悪を選んでしまう。それでも、誰かの赦しに救われることがある。それが、“善”という火種を、絶やさない希望になる。」
(しばし、スタジオに温かくも切実な沈黙が訪れる)
あすか(目を潤ませながら)
「……ありがとうございます。
悪を選ぶ理由が、こんなに複雑で、こんなに人間らしいなんて……。私は、“悪”って言葉を使うことが、少し怖くなりました。」
(モーセが、穏やかに)
モーセ
「その“恐れ”こそ、あなたを悪から遠ざける力となる。」
(照明がゆっくりと落ちていく)
あすか「いよいよ、次はラウンド5。“善と悪は対立するものか、それとも共存するものか?”
……最後の議論に、皆さま、心の準備をお願いします。」
(音楽フェードイン。ラウンド4、幕)