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幕間:知の交差点

(スタジオの照明がゆっくりと落ち、BGMが静かにフェードアウトする。休憩時間の表示が出るが、舞台袖のカメラが二人の姿を捉えている。ドストエフスキーが舞台の隅で一人静かに佇んでいる。彼の背中には疲労と沈思が滲む)


(そこへ、ゆっくりとモーセが歩み寄ってくる。杖を突く音だけが静寂のなかに響く)


モーセ

「……何を考えているのか、聞いてもよいか?」


ドストエフスキー(振り返り、薄く微笑む)

「神の沈黙について、です。」


モーセ

「沈黙は、語るより多くを伝えることがある。」


ドストエフスキー(目を伏せ)

「はい。だからこそ、私はあなたに聞きたいと思っていました。あなたが書いたと言われるヨブ記のことを。」


モーセ(わずかに目を細める)

「……あれは、私が書いたのではなく、神が語らせたものだ。」


ドストエフスキー

「では、あの苦しみの記録は、神の意志だと?」


モーセ

「ヨブは、信仰とは何かを問うた男だ。彼の苦難は、試練であると同時に、人の信を明らかにするための舞台であった。」


ドストエフスキー

「舞台、ですか……。私はカラマーゾフの兄弟の中で、イワンにこう言わせました。罪なき子どもの涙の上に成り立つような和解なら、そんなものは要らないと。」


モーセ

「それは、神を告発する言葉だな。」


ドストエフスキー(わずかに目を伏せる)

「ええ、そして私は、告発する者の声にも、耳を傾けたいと思ったのです。神が沈黙しているとき、人は……どう生きるのかと。」


モーセ

「沈黙のなかで、人は選ばねばならない。信じるか、離れるか。ヨブは沈黙のなかでも語りかけ続けた。だから、彼は祝福を受けた。」


ドストエフスキー

「でも……神は彼の問いに、答えてはくれなかった。理不尽に財産を奪われ、子を失い、友人に責められ……それでもなお神を信じろと?」


モーセ

「神は、人の知を超えた存在だ。答えではなく、沈黙の重みを通して、人に深さを与える。ヨブはそれを受け入れた。」


ドストエフスキー(静かに)

「それは、私の作品におけるアリョーシャの姿にも重なります。理不尽を受け入れる信仰。…でも私自身は、イワンとラキチンの声も消せませんでした。」


モーセ

「人は、どちらの声も抱えながら歩むのだ。沈黙に耐えながらも、祈る。怒りながらも、手を差し伸べる。その矛盾のなかに、人の尊厳がある。」


(ドストエフスキーが、目を見開き、ゆっくりと頷く)


ドストエフスキー

「……私が描こうとしたのは、神がいない世界ではありません。神が沈黙する世界で、それでもなお信じる人々の姿です。」


モーセ(うなずき)

「それが、信仰の真の姿だ。」


(しばらく二人の間に沈黙が流れる。だが、それは先ほどの緊張とは異なる、静かな理解の沈黙である)


ドストエフスキー

「ヨブは最後に、すべてを取り戻しました。でも、失ったものは……本当に戻ってきたのでしょうか。」


モーセ(ゆっくりと)

「それは、読む者に委ねられている。だがヨブは、怒りや悲しみを乗り越えたわけではない。ただ、それを抱えて立った。それが回復なのだと、私は思っている。」


(ドストエフスキーが小さく、涙のようなものを拭う仕草を見せる)


ドストエフスキー

「……ありがとうございます。あなたとこうして言葉を交わす日が来るとは、夢にも思いませんでした。」


モーセ

「私もまた、あなたの筆が神の声に近づいていたことを、認めよう。」


(その言葉に、ドストエフスキーは何も返さず、ただ深く頭を下げた)


(照明がゆっくりと戻り、幕間の終わりを告げるチャイムが鳴る)


---


(スタジオは再び休憩時間。観客席の明かりが落ち、対談セットの裏手、静かな控室のような場所。窓の外には夜のような青いライトが差し込み、控えめな照明の中にカトリーヌ・ド・メディシスが一人座っている。グラスの水を手に、ゆっくりと揺らしている。


(しばらくして、足音とともに荀子が現れる。彼はあえて距離を取り、少し離れた椅子に腰を下ろす)


荀子

「……静かな時間がお好きなようだ。」


カトリーヌ(グラスを揺らしたまま)

「静けさは、私の知っている宮廷とは正反対の贅沢ですもの。皮肉なものね。」


荀子

「戦場もまた、静寂の前に嵐が訪れる。言葉の戦いも、似たようなものだ。」


(カトリーヌが微かに笑うが、その笑みに影が差す)


カトリーヌ

「あなたも、聞いているのでしょう? 私のことを。毒殺の女王、悪女、冷血な母……そう呼ばれていると。」


荀子

「うわさ話は、歴史の常である。だが私は、それが真かどうかには興味がない。」


カトリーヌ

「真実など、歴史が決めるもの。私が決めるものではないわ。けれど…」


(彼女は視線をテーブルに落とす)


カトリーヌ

「……人は、私の決断を悪と呼ぶの。でも皮肉ね、本当のところ、私の優しさではなく、私の強さこそが、人々に恐れられていたのだわ。」


荀子(しばし沈黙し)

「人が本質的に悪に傾く存在だと、私は信じている。だが、強さが悪と見なされる世界には、別の問題があるようだ。」


カトリーヌ

「私は、弱くなかった。王妃であり、摂政であり、母だった。 でも、同時にずっと……一人だった。敵に囲まれ、味方にも裏切られ、決して泣いてはいけなかった。 その姿を冷酷と呼ぶのなら、それは耐えた者への罰でしょうね。」


(荀子がゆっくりと立ち上がり、テーブルの向こう側に立つ)


荀子

「あなたは、制度の中で悪を引き受けた。自らを律し、他者をも律した。私の礼の思想に通じるものがある。あなたのように、強くあることを選んだ者を、私は責めない。」


カトリーヌ

「礼ね。ええ、私はあなたの礼が嫌いではないのよ。美しく整った世界観。けれどね、あなたの礼には、母の焦りがない。」


(彼女の声に熱が混じる。静かな感情の波が押し寄せる)


カトリーヌ

「病弱な子供が、王になるまでに死んでしまうかもしれない。王妃の座から一歩踏み外せば、宮廷で毒を盛られる。 あの混沌の中で、理想の秩序が何になるというの? 私は、今日生き延びるために、命を取引したのよ。」


(荀子は目を細め、深く頷く)


荀子

「あなたの言葉は、理を超えた現実だ。私の時代にも、王の座を巡って血が流れた。だがあなたの悪は、血を止めるための刃だったのだろう。」


カトリーヌ(声を震わせ)

「……ありがとう。でもそれでも、悪女の冠は外れない。 私が、涙を流せば許されたの? 弱さを見せれば、哀れな女と称された? ……私は、泣かなかったから、悪になったのよ。」


(しばし沈黙。水の揺れる音だけが響く)


荀子(低く、はっきりと)

「私の性悪説は、人を悪と断じるものではない。 それは、人が善くあろうと努力する姿にこそ、人間の価値があるという思想だ。 あなたの選択は、その努力の極みだ。……誇ってよい。」


(カトリーヌは、わずかに顔を伏せる。静かに、グラスを置いた手がかすかに震えている)


カトリーヌ

「……もし、あなたの時代に私がいたら……少し、救われたかもしれないわね。」


荀子

「あなたは、今この対話の中で、救われている。」


(ふと、二人の間に穏やかな沈黙が訪れる。悪と呼ばれた強さと、悪を前提とした優しさが、今、交差する)


(スタジオ奥の明かりがゆっくりと灯り、収録の再開を告げている。)

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