ラウンド1:人は本質的に善か、悪か?
(スタジオ内が再び明るくなり、コの字型のテーブルの中央、あすかが進行席に立つ)
あすか「さて、ラウンド1のテーマは……ずばり!『人は本質的に善か、悪か?』です!」
(観客席からどよめき)
あすか「これはもう、哲学や宗教の永遠の問い。小説や映画だってこのテーマを避けては通れませんよね。今回は、“性悪説”の旗手・荀子さん、“神の律法”を授けたモーセさん、現実主義のカトリーヌさん、そして“内面の葛藤”のスペシャリスト・ドストエフスキーさんがどんな火花を散らすのか……楽しみです!」
(カメラが各対談者を順に抜く)
あすか「では、トップバッターは……もちろんこの方。性悪説の源流とされる儒家の理論家。荀子先生、どうぞ!」
荀子「……人の性は、悪である。」
(会場、静まり返る)
荀子「人間は、生まれながらにして欲望を持つ。利己心、嫉妬、怒り、怠惰……。これらは自然に湧き起こる感情だ。もしも、それらに歯止めをかける理と礼がなければ、人間社会は破綻するだろう。だからこそ、教育と法によって善を“作る”のだ。」
モーセ「……異議あり、だ。」
(あすか、目を丸くする)
モーセ「神は、人をその御姿に似せて創られた。つまり、本来人は“善”の種を宿している。しかし、人は自由を与えられた存在でもある。善に従うも、悪に堕ちるも、その選択に責任が伴うのだ。」
荀子「責任とは、理性をもって制御することだ。だが、その理性が育たぬまま自由を与えれば、悪へと転ぶのが人の常。ゆえに、性は悪なり。」
あすか「さっそく火花が……!
これはすごいです。あの、カトリーヌさん、このお二人の意見、どう感じられます?」
カトリーヌ「どちらも理想的すぎますわね。」
(あすか、ツッコミ気味に)
あすか「えっ、あのお二人が理想派!? 正反対に見えますけど……」
カトリーヌ「ええ、でも共通しているのは“人が制御されるべき存在だ”ということ。私は、性善だとか性悪だとか、根っこを探る暇があるなら、現実に対応すべきだと思っています。善も悪も、時の権力にとっては道具です。」
荀子「道具ではない。礼とは、長年の経験と知恵が育んだ制度の積み重ねであり、個人の恣意では壊してはならぬものだ。」
カトリーヌ「理想論に酔っている間に、国は滅びます。私の息子たちの治世では、そんな“理”では秩序は保てませんでしたわ。」
モーセ「人が人を導くのではない。神が人を導く。律法は人の上にある。」
ドストエフスキー(初めて口を開く)「……皆さん、お話はどれも筋が通っていて、しかも整然としている。けれど、私は“人間の声”が聞こえないように思う。」
(全員の視線がドストエフスキーへ)
ドストエフスキー「私が見てきたのは、貧困の中でパンを盗む子供、愛ゆえに罪を犯す者、自分でも止められぬ衝動に飲まれる人間たち……彼らに、“お前の性は悪だ”“神に背いたな”と断じるだけで済むのでしょうか?」
荀子「それでも、社会には秩序が必要だ。」
ドストエフスキー「秩序は否定しません。ただ、“悪”とは何かを簡単に線引きしてしまうことに、私は恐ろしさを感じるのです。」
モーセ「その混乱こそ、神が示した律法の必要性の証である。」
カトリーヌ「逆に、その混乱をも人は利用しますわ。恐怖を煽って民を操る。善も悪も、結局は“物語”でしかないのかもしれませんね。」
あすか(少し沈黙した後)「……“物語”……確かに私もそれを聞く者でした。でも今日の物語は、誰か一人の正解では終わらなさそうですね。」
(カメラが全体を映し、重厚な空気の中、次のラウンドへ移る準備が静かに整っていく)