9 クレアが見聞きしたもの
リリカント家に不協和音が鳴り始めていた頃、リリカント家の屋敷を見つめる人影が一つあった。
大柄でそれなりにしっかりとした装いだった。帽子を目深に被っているためその表情をうかがい知ることはできない。
仕事を終えて屋敷へ戻ろうとするクレアが、そんな男の存在に気が付いた。
男は自身に注がれる視線に気が付き、慌ててその場を立ち去った。
不思議に思ったクレアだったが追いかけるわけにもいかなかった。できることと言えばせいぜい報告することぐらいだった。
クレアは男の姿に尋常じゃないものを感じた。
明らかに男の様子はおかしかった。意識がリリカント家に向いているというべきか、何かしらの思惑があって屋敷を見ていたことは間違いない。それならこれが最初ではないだろうし、最後でもないだろう、と、そんなことを考えながら謎の人物が立っていた場所を見ていた。
庭の掃除や門等の清掃等で外へ出た時に意識して見ておいた方がいいだろう、とクレアは思いつつ屋敷へと戻った。
玄関と開けるとエントランスにはすでに誰もいなかった。先ほどのことを報告しようと考えていると、ふと執事と使用人のイザベラの声が聞こえてきた。
「……さてどうなることか。旦那様は何とかするとおっしゃられてはいるが」
執事が不安そうな声で言う。
「厳しいと思います。殿下との婚約のいざこざはこれで二度目。いい加減王家もリリカントを見放しますよ」
一方イザベラははっきりとした物言いだった。イザベラはここで使用人となってからまだ数年も経っていない。使用人としての経験も浅い方だとクレアは聞いていた。しかし手際がいい。それでいて頭も回る。アルガイルを始めとする家人たちだけでなく執事ら使用人を管轄する立場からも厚い信頼を得ている。後輩ながら見習うところは多いとクレアは感心していた。
「王后殿下の件もある。国王陛下としても自身の子の、いわばこれからの家族の問題にしても敏感にならざるを得ないだろうな。それに加えてサリバン殿下は、貴族というものを、特にリリカントのような名門とされる家を嫌ってらっしゃる」
「今度こそリリカントは終わりだ、なんてことを言っている使用人も何人かいます」
「いくら王家でも爵位持ちをつぶすことは容易ではないよ。……その気にならなければな」
「そういえば、気になる噂があるのですが」
「噂?」
「あの、殿下が庇ったアイリーンという娘。あくまでただの市民ということですが」
「ドーラ家が庇護していた、だったか」
「ええ。その時点でも大分おかしいのですが、実は強力な力、魔導士としての才があるのではないか、とも。なんでもこちらに来る前にドーラ家所領で一つ事件を解決したと。それを聞きつけた王家がドーラ家へ学院入学を打診しこちらにやってきたいきさつがあると聞きました」
「学院は国王陛下の政策の一つで貴族階級の平衡化を画策したものだが、それ以外の生まれの中から能力のある者を政治、統治の場に組み入れる手段でもある。アイリーン嬢が本当にそういう力を持っているのなら、王家は喉から手が出るほど欲するだろう。だがお嬢様はそのようなことは何もおっしゃられてはいなかったが」
「力を隠すように言われていたのでは?」
「かもしれないが」
「大陸側の戦争は十年ほど前に終わりましたけど、今度は逆にこちらの情勢が不穏なものになっていると聞きます。隣国との陸海の境界にしてもそうです。手ぬるいことをしているとみんな言っています。この間、メイデン伯爵がいらっしゃったときの旦那様との話の中でも……」
「イザベラ、一つだけ忠告するが、あまり余計なことに首を突っ込まない方がいい」
執事の言葉にイザベラは何か言いかけた口を閉じた。
「我々は旦那様にお仕えしているが立場は他の市民と何も変わらない。職務上、他の市民より知りえる情報が多いが、それ故に警戒される立場でもある」
「口が過ぎたようです」
「口だけだといいがな」
「と言いますと?」
「お前が地下書庫にいたと、他の者から聞いたが、何をしていた?」
「無論掃除です。この頃奥様が頻繁に出入りしますので」
「奥様からは立ち入り無用と言われている。余計なことは慎め」
「申し訳ありません。以後気を付けます。」
「評価を上げたい気持ちはわかるが、貴族や王家という存在はお前の想像以上に重たいものだよ。何を考えて、どう動いているか、下手な立ち回りは怒りを買いかねない。お前は有能な人間だ。こんなことで失うには惜しい」
「ありがとうございます」
イザベラは頭を下げた。
少々独断気味に動くこともあるがイザベラはリリカント家使用人の中でも特に優秀だった。
いずれ年季を迎える家政婦長の後任として最有力とも目されている。もちろんそれに対して隠れた不満がないわけではないが、表立っては皆無だった。
執事もなんだかんだ言いながらイザベラのことは買っていた。
「それはそうと、他の使用人たちにくれぐれも注意を向けておいてくれ。昨日の祝賀会での話。旦那様からは決して使用人たちには漏れないようにと言いつけられていたが、今朝には皆に広まっていた。誰が何をしているか分かったものではない。不審なことがあればどんなことでもいいから知らせてくれ」
マチルダの一件は昨日の時点でリリカント家に伝えられていた。もちろん伝わったのはリリカント家当主アルガイル・リリカントのみで、それから伯爵夫人のマデアン、嫡男グローデンにも伝わった。だがいつの間にか使用人たちにも話が広まってしまっていた。
今朝方、執事から使用人たちへ昨日の一件について浮足立たないよう話をされたが、それはなかなか難しいことだった。使用人たちが口々にリリカント家の今後を悲観しているのをクレアは聞いた。クレア自身はそう言った話には加わらず自分の主人たちを信じていたが、それにしては嫌な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
「もちろんです」
「それと」
「それと?」
「クレアのことも気にしておいてくれ。あの娘は、別の意味で気を払っておかなければならない」
「お嬢様のお気に入りだからですか?」
「確かにそうだな。だがそれ以上にいろいろとある」
「わかりました」
自分の名前が出てしまったことで出るに出られなくなったクレアは二人の気配が消えるまでその場で身をひそめるより他になかった。
執事はクレアを名指しで気を払わなければならない人間だと言った。確かにクレアは執事の自分に対する態度が他の使用人とは違っているように感じていたが、それはマチルダから特に信頼され、一方でクレア自身もマチルダへ姉妹のような情を持っている関係性によるものだとばかり思っていた。
それ以上のものが何かあると言われがクレアだったが、実のところ心当たりがないわけではない。執事すら知らないリリカント家の重大な秘密を打ち明けられていた。
執事から名指しで警戒されている以上、迂闊なことはできないとクレアは思った。
そのせいか、あの不審な男についてついに報告できなかった。