人生についての一考察
その日は良い天気だった
突き抜けるような青い空には雲一つなかった
男は気分が良かったので秘蔵のワインを開けることにした
日がな一日、ワインを飲みながら空を眺めていようと思った
人生に一日ぐらいそんな日があっても良いだろう
そう男は思った
お気に入りのテーブル、一面鏡張りの小さなやつだ、をベランダに置くと念入りに磨き始める
それこそ針の先程のくすみも見逃さずに拭き取った
小一時間もたったろうか、男は満足そうにテーブルを眺めた
テーブルは空を映し美しい青に染まった
そこに座り、空を見上げるとまるで空に座っているような気がした
男はますます良い気分になり、とっておきのチーズの存在を思い出した
そうだ、この際だからチーズも食べてしまおう、と男は思った
人生に一日ぐらいそんな日があって良いのだ
冷蔵庫の奥からチーズを取り出し少しにおいを嗅いでみた
大丈夫だ、腐ってはいない
いや、チーズなんて代物はそもそも腐ってなんぼのものなのだ。と男は自分に言い聞かせる
が、やはり少し不安になったので、ガスコンロで程よく焦げ目をつけることにした
完璧な焦げ目がつくよう男は慎重に、ざっと半時ほど時間をかけてチーズをあぶった
完璧だ
男はできあがったチーズをみて満足そうな笑みを浮かべる
そして、ワインを入れたデキャンターとチーズをもって意気揚々とベランダへでた
雨が降っていた
あれほど青かった空は、今や宵闇のように真っ黒で、締まりのない蛇口のように雨がだらしなく漏れ流れてきていた
男はため息をつきながらテーブルについた。少しの間、落胆したようにうつむいていたがやがて顔を上げる。
まあ、長い人生においてはこんな日もあるのだろうな、と思う
どんなにあがこうとも、自然の気まぐれには人は逆らうことはできないのだから、と達観して、ワインを一口飲む
渋い
思った以上の渋みに驚いたようにグラスを見た。かすかな滓が赤い液体の中をゆらゆらと揺蕩っているのが見えた。どうやらデキャンタージュに失敗したようだ
男はため息をつく。さっきより深く、長いため息だ
そして、ああ、よかった。雨が降っていて本当に良かった、と男は静かに思った
自然のせいで完璧な日が台無しになるのは、自分のせいですべてを台無しにするより、何十倍もマシではないか
感謝のグラスを土砂降りの雨に捧げながら、男はもう一度ワインを口に含んだ
舌先にじんわりとして渋みがひろがる
これもまた、人生というものだ と、男は思うのだった
2024/07/06 初稿