幽霊船との遭遇
部屋に戻ってベッドに横たわっていると、窓の外に月明かりが静かに輝いていた。今夜は満月の夜だ。
しかし、どうしても、カレンのせいだろう、兄を失った悲しみや無力感が頭から離れない。
机に座って勉強でもして気を紛らわせようとする。
窓から海を見下ろすと、月明かりが海面に映し出される。遠くに船が浮かんでいた。
帆船かな?船体はずいぶん傷つき、荒れたもので、まるでこの現世とは異なる存在のようだ。
じっと見つめていると、その船はゆっくりと近づいてきて、やがて港に入って行った。
帆柱の上に人がいるような気がする…懐かしい気配を感じた。
「ソータ!」
カレンの声が耳に飛び込んできた。急いで部屋のドアを開けると、廊下には誰もいなかった。
どうするか迷ったが、そのまま階段を駆け下り、玄関から外に出た。
桟橋まで駈け寄ると、先程見た帆船の帆柱の上に、人の姿が浮かんでいるのが見えた。
やはり…兄がそこにいる。するすると甲板まで降りてきて俺に手を振っている。
「兄貴!何をしているんだ!?」俺が叫ぶと、兄ルイも応えた。
「おう、元気だったか?」
「降りてここまできてくれよ、その船なんだ?」
「質問ばっかだな。それよりお前はこんな時間にどこに行こうとしていたんだ?」
兄貴がいるから飛び出してきたんだよ。
「まあいいや。俺は母さんと、この港を離れることにしたんだ」
「母さん?そこにいるのか?出てきてくれよ」
「それは無理だ。行く場所があるからな。じゃあまたな」
そう言うと、兄貴は一瞬で姿を消した。
「えっ?」周囲を見回すが、もう船も兄貴もどこにもなかった。
一体、今のは何だったのだろうか。夢を見ていたのか。気が付けば俺はベッドの上にいた。
「ソータ!」
カレンの声が響く。親父は、あんな女のどこがいいんだ?本当の母さんの記憶は俺にはない。
本当の母さんは、俺が物心ついた頃にはすでに波にのまれていた。彼女はサーファーだった。
サーフィン中の事故で行方不明になってしまったという。
兄貴は母さんのことをよく知っていたが、俺は写真でしか知らない。
しかし、兄貴が母さんとどこかに行くというなら、俺は母さんにも会いたい。
「ソータ!」
カレンの呼び声に部屋を出ると、彼女は心配そうな顔だった。
ためらいなくハグをしてくる。ちょっとやめてほしい。
「どうしたのカレン?」
「ごめんねソータ!、私、茶化したかったわけないお兄さんのこと」
「ああ、そのことか」ハグは慣れないな、気恥ずかしいので両腕でやんわり拒絶した。
「カレン、さっき外で兄貴を見たんだ、母さんと遠くに行くと言っていた」
「お兄さんが?」
「アンティークで豪華な船に乗ってたよ、船の上から話をした」
「ふうん?へんな夢ね」
俺はカレンにさっきあったことを話した。
「夢にしてはなんだか妙な雰囲気で」
「妖怪の話でもいい?」
「妖怪好きだね、妖怪以外なら?」
「妖怪じゃない夢判断なら、たぶん船は旅と別れの象徴で、船が大きかったらそれはお父さんの象徴で、現状の不安が夢に出ています。海が綺麗なら健康、濁った海ならちょっと体調不良よ」
「それっぽいね、妖怪だったらなんだと思う?」
「妖怪なら、それはフライングダッチマンだと思うよ」
「フライングダッチマン?」
「そう、さまよえるオランダ人と日本では呼ばれています。神様に悪態をついたから神様の呪いで永遠に海をさまようことになった船なのね」
「そんなのにどうして兄貴が乗るんだい?」
「さまよえるオランダ人にはいくつかバリエーションがあるの。有名なのは、真実の愛を知ったら呪いが解けるというやつ」
「永遠に海をさまようのに、真実の愛がわかるのか」
「そこは、7年に一度だけ南アフリカの重要な港、喜望峰に立ち寄ることができるなど、あります」
「ふうん、そのフライングダッチマンは兄貴となにをするんだ?」
「フライングダッチマン本人は永遠の呪いを受けているんだけど、乗組員たちは呪われてないのよ」
「乗組員もいるのか」
「フライングダッチマンは色々なバリエーションがあるけど、お兄さんを連れて行くということは、世界中で海難事故で亡くなった人を乗組員として連れて行ってくれるみたいね」
「乗せられた霊も、永遠に海をさまようのかい?」
「うーん、よくわかんないけど船に乗ってるうちにいつの間にか『ネハンニイタル』らしいよ」
「涅槃のことかな?涅槃に至る?さとりをひらくのかな」
「キリスト教では、死んだら神の御許に行くことができるので、キリスト教の人たちはある程度働いたら神の御許に行くのです。ヒンズー教の人は輪廻転生するみたいね」
「仏教も輪廻転生するんじゃないの?」
「仏教はミホトケになるんじゃないの?」
「ああ、なんか色々あるみたいね」ソータは、仏教に幽霊はいないなんていう言葉を思い出して、まあなんでもいいやと思った。
カレンが話を続けてくれる。
「フライングダッチマンに乗った人は、しばらくしたらフライングダッチマンのマストに炎があらわれて、その炎に焼かれて次の段階に進むことができるようね」
「マストが燃えるのか」
「セントエルモの火なんだってさ」
「セントエルモの火……」
「悪天候時などに、船のマストの先端が発光する現象よ、むかーしからある怪奇現象だけど、科学的に証明されているのかどうか、どうかしらね」
「それはそれは、面白いな、兄貴と母さんが、まあしっかり成仏するってことでしょ」
「そういう妖怪だからね」
「いい妖怪だねえ」
「フライングダッチマン本人は、いつか故郷に帰ることを夢見ているんですって」
「なんだか悲しい人なんだね」
カレンとそんな話をしたからか、その夜はなんだか眠れなかった。何を考えているわけでもない。不思議と眠れず、月明かりの下、ずっと読みかけだった小説を読んでいた。兄貴の乗るフライングダッチマンが頭から離れなかった。母さんも乗るらしい。潮騒の音が頭に響いていた、小説には集中できなかった。