ふなゆうれい
中学二年のとき、ソータは二つ年上の兄のルイとともに、小舟を出していた。
薄曇りの夏の夕まずめ。魚は釣れないので、少し沖にあるワナかごをひきあげて、もう帰ろうと考えていた。
海から、小舟の上から見る紅霞に染まった村は、とてもわびしく見えた。潮風にあたった木壁の木造住宅から、灯りがつきはじめていた。
ここが、世界の終わり。世界の果て。世界の果てに俺たちは住んでいる。
兄のルイはよくそんなことを言っていた。
波は穏やかで、曇り空の割れ目から、夕陽が海にスポットライトを当てているようだ。
あそこが魚がいっぱい獲れる場所だよと神が言っている。そんな話をしていた。
「へえ、すごい」そんなルイのホラ話に、ソータは素直に騙された。
しかし、小舟がワナかごの地点に到着すると、あたりは急に暗くなった。
あたりに、潮の匂いに混じって、死肉の腐った匂いが漂ってきた。
小舟に当たるチャポ…チャポ…という波の音が急に大きく感じられた。
どこからか、人の声が聞こえる。お経を唱えているような、意思の感じられない朗読。
「もうれん…………もうれ…… いなだ……」
どこから聞こえてくるんだろうな。
「兄ちゃん、この声なんだろう?」
兄を見やると、わなカゴを引き上げるロープに手を絡ませていた。
いつもやっている作業、重いカゴというわけではないはずなのに。
「ソータ、ちょっとこっちきて、手伝ってくれ」
兄貴のロープをほどこうと手を伸ばす。兄の手に絡まっていたのは、海藻のように海をただよう、人の手だった。
「うわっ!なんだこれ!」
あわてて、手を引きはがす。兄の顔は真っ青だ。
ふたたび、今度ははっきりとこう聞こえる。
「もうれんやっさ もうれんやっさ いなだくれえ」
「もうれんやっさ もうれんやっさ いなだくれえ」
海面に人の顔が浮いている。黒く汚れた肌色、うすだいだい色の海藻、1.5メートルくらいの長さのある人の皮。死者の皮を剥いで海に浮かべたような、目、鼻、口にあたるところはすべて真っ黒な闇。
数体の人面海藻の口からこの地獄の呪言が発せられている。
兄ルイは水面を叩き、「あっちへ行け!あっちへ行け!」と叫んでいた。
「兄ちゃん、もう帰ろう!」
「あっちへ行けえ!」
人面海藻たちは、水面を叩くルイの手をぐっと掴み、海中に引きずり落した。
「うわぁぁ」
無情な水音が響き渡る。今でこそライフジャケット着用が義務づけられているが
ルイはその当時未着用であった。それが悪かったのだろうか。
次の日、ルイは浜辺に打ち揚げられた。
苦しそうな顔、兄貴を助けられなかった。ソータの心に大きな傷を残したのである。
◇◇◇
二年後……ソータは高校1年になった。
ソータの住む村は、兵庫県の日本海側に位置する温泉街からほんの少し離れた漁村である。
近海で、よく売れるカニが獲れるので、父はそれを加工してサービスエリアや道の駅などで販売するのだ。
母はソータの物心つかないほど小さいころに亡くなった。
以前は自宅を改造してカフェをやっていたが、母の死によってそれは廃業した。
観光客が訪れるには少し遠いエリアになるのだろう。それほど客も来なかったと父はいう。
二年前に長男を亡くし残された次男と二人きり、村の助けを得ながら、たった二人で手をとりあって生きてきた。
「それは『猛霊八惨』だよソータ、船ゆうれいとも言うんだよ」
缶ビールを飲みながらカレン・マッカーシーがそう言った。
「いなだっていうのはひしゃくのことで、ひしゃくを渡せばそのひしゃくで海水をくんで、船を水で満たして沈めようとする妖怪なんだよ、だから、次に『いなだくれ』と言われたら、底の抜けたひしゃくを渡せば、全員無事で帰ってこれるんだよ」
兄の死というセンシティブな案件を面白半分で妖怪話に変換してくるこの女は、父の彼女である。つまりソータの母になってくれるかもしれない女性なのである。
父は、漁師だった祖父の影響もあって、若い頃からずっと海とともに生きてきた。父は村も海も愛している。
しかし、父は兄が死んでからは海に出ることもせず、水産加工だけで生きて行こうと考えていた。
そんな父が出会った女性が、なぜかカレンなのだ。
ブロンドで、細身の巨乳のメガネでよくしゃべる。礼儀知らず。いかにも父さんの好きそうなアメリカ女である。そして日本ダイスキ!て言ってそうなオタク女なのである。
自由や平等に対する意識からか、自分の意見をはっきり言う。はっきり言うことでなんでも通ると思っている。俺はこの女のそういうところが苦手だ。
「船ゆうれいは、聞いたことがあるなあ。猛霊八惨ってのは何なんだ?」
食卓の上にはカニのカルパッチョ、カニのペペロンチーノ、カニのピザが並んでいる。
新たにちょっとデカイ冷凍庫を導入したので、新メニューを、父と二人で色々とチャレンジしているのだ。
ひとつまみづつ食べながら、そう聞いた。
「船ゆうれいは海で死んだ人間の魂が、あの世に行けずに同胞を求めて船を沈める妖怪だよ。猛霊八惨が死体を集めて皮を剥ぐんだね、猛霊八惨がボスなんだね」
「なんでこんなところで出るんだ?このへんにもそんな昔話でもあるんか?」
「ふなゆうれいの昔話は日本中でみられるので、このへんでもあっておかしくないんじゃないかな?」
「お前はなんでそんなことを知ってるんだい?」ちょっとイラっとしてきた。
「こら!ソータ、カレンにお前とか言うな」親父が割って入って来た。
「だってよ父さん、こいつ兄貴のことを──」
「まあいいじゃねえか、妖怪退治で兄貴が浮かばれるなら妖怪退治もやるべきだろ」親父もワインが回って来たのだろうか。
しかし、兄貴のことをなんだか馬鹿にされたみたいで面白くない。二人は妙にイチャイチャしだした。
居場所がないのでさっさと食卓を離れて自室にこもることにした。