私のお願いは……
大学での本日の最終講義が終わったのは午後六時だった。
今日はこの後、家庭教師のアルバイトがあるから急いでアルバイト先の家に向かわなければならない。
大学生になってアルバイトを始めようとしたときに募集が多いのは接客業だったが、不特定多数の人に笑顔を振り撒きながら接客する自分の姿がどうも想像できないでいた。そんな時にたまたまだサークルの先輩から声を掛けてもらったのが今のバイト先だ。高校時代は特別優秀というわけではなかったのだけど、その子が自分の卒業した高校に通っており、進路も同じように付属大学への進学ということだったので引き受けることにした。
大学の最寄り駅から地下鉄で数駅ほど行った先にある高級マンションのインターフォンを鳴らして自動ドアを開けてもらい目的の部屋に向かう。途中のエレベーターで時間を確認すると約束の時間には少し余裕があったのでホッとした。
玄関ドアの前で再度インターフォンを鳴らすと直ぐに鍵の開く音がしたのでわざわざ玄関で待っていてくれたのだろう。
「先生、今日は余裕の到着だね」
玄関ドアが開けられると廊下とは違うこの家の匂い、いや、この子甘い香水が優しく香った。
俺の教え子である暮方茜は、進学校である母校では珍しいギャル系の女の子だ。
綺麗に染められたロングの茶髪、第二ボタンまで開けられたシャツからは大きな双丘がちらりと見えるし、スカートは短いからちょっと油断すればすぐに下着が見えてしまいそうだ。
本当に目のやり場に困るんだけど。千草は絶対にこんなふうにならないように言っておかなければ。
「こんばんは、暮方さん。今日は時間通りに講義が終わったからね」
一度リビングの方に行って今度は暮方さんのお母さんに一言挨拶をする。お母さんは娘と違って落ち着いたマダムという雰囲気だ。
「さあ、先生、始めよう。明日、数学の授業で当てられそうなんだけどわからないところあるから」
お母さんへのあいさつもそこそこに暮方さんの部屋へと向かい勉強を始める。
暮方さんは見た目こそギャル系のいかにも遊んでいますというような格好をしているが、勉強に対してはいたって真面目だ。頭の回転も良くて、俺が説明したことをすぐに理解する。おそらく、俺がいなくてもそれなりに成績はいいはずだ。
だから、俺の役目の四分の一くらいは大学はどんな授業があるとか高校と違ってこんなところが面白いというような彼女のモチベーションを上げることだと思っている。
受け持ち時間の半分が過ぎたところで、小休憩ためにお母さんが飲み物を持って来てくれた。毎度毎度ありがたいことである。
暮方さんは持って来てもらったアイスティーを飲みながら俺を値踏みするように上から下まで見ている。
「どうかした?」
「うーん、先生、もしかして、彼女でもできた?」
全くの予想外の問い掛けに思わず飲み物をこぼしそうになった。
「彼女なんかできてないよ。どうして急にそんなこと思ったの」
「だって、先生の服、今まで野暮ったいというか、あまり色や上下の組合せも考えていない感じだったのに、先週くらいから急にちゃんとした感じになったからこれは彼女ができたなと思ったわけ」
たしかに千草と一緒に暮らすようになってから前よりは服のことは考えるようになった。いくら幼馴染とはいえ、年頃の女の子にダサイと思われるのが嫌だという薄っぺらい自尊心によるものだ。
「俺だってオシャレというわけではないけど、ちょっとくらいは見た目に気を使うわけ。こうやって家庭教師をするのに清潔感がないと暮方さんだって嫌だろ」
「そりゃ、清潔感はあった方がいいけど……、ってか先生まだ彼女出来てないの。新入生が入ってきてせっかくのチャンスなのに」
「いいんだよ。俺は彼女を作るために大学に行っているわけじゃないから」
「はぁ~、今年こそは童貞卒業できるかと思っていたけど無理っぽいね」
「こらこら、女の子が童貞とか言わないの」
「じゃあ、魔法使いの弟子とか」
暮方さんはニヤニヤが止まらないという様子だ。どうもこの子は俺のことを先生とは呼んでも先生とは思っていない。からかいがいのある親戚のお兄ちゃんくらいの感覚だろう。
「ほらほら、そんなことはもういいからそろそろ続き始めるぞ」
「は――い」
アイスティーの入ったコップを机の隅に置いて、再び机に向かう暮方さんはさっきよりも何だか嬉しそうな表情をしていた。
●
暮方家でのアルバイトを終えて再び地下鉄で自宅の最寄り駅まで戻ってきた頃には午後九時を回っていた。アルバイトのある日は帰るのが遅くなることを事前に千草に伝えてはいるが、一人で寂しくないだろうかと少し心配だ。
ホーム階への階段を昇り、改札を抜けたところで、見慣れた黒髪の少女が柱にもたれながら立っているのが見えた。
あいつ、夜は出歩くなって言っているのに。
千草は俺の姿を見つけるとぱあぁと表情を明るくして駆け寄って来た。
「おかえり、達に――」
「バーロ、なんでこんな時間に一人で出歩いてんだ。非行の始まりか? 俺の指導不足か? それとも反抗期か?」
さっきまで暮方さんといたせいだろうか。不良になってしまった千草の姿を想像してしまいちょっと強く言ってしまった。
「そんなに怒らなくてもいいじゃん。さっきから雨が降り出したから傘を持っていないと思って迎えに来たのに。そんなに怒るなら持ってきた傘使わせないよ」
たしかに外から駅の構内に来る人は傘を持っている。天気予報では深夜から雨の予報だったのでこの時間は大丈夫だろうと高を括っていたが降り出すのが早くなったようだ。
「えっと……すまない。持って来てくれるなんて思っていなかったから」
「謝ったから許す。それじゃ、帰ろう。ご飯もまだでしょ」
千草から差し出された傘を受取り二人並んで出口へと向かう。まだ、今のことで怒っているのだろうか千草の眉間には皺が寄っている。
「ご飯ありがとうな。でも、バイトの日は今日みたいに遅くなるから無理に俺の分まで作らなくてもいいぞ」
「いいの。私が作りたくて作っているんだから。それに私が目を離すとすぐにコンビニ弁当やカップ麺とかで済まそうとするでしょ」
「否定はしない」
地上に出ると、雨粒にビルのネオンの光が当たりきらきらと輝いている。どうやら本降りの雨のようだ。
「うわ、けっこう降ってるな」
「でしょ。それなのにこの雨の中迎えに来た私にバーロって言うんだから酷いものよね」
「悪かったよ。迎えに来てくれたことは嬉しいけど、夜は心配になるからほどほどにな」
「普段はちゃんと暗くなる前に帰って来ているからいいでしょ」
千草は不満な時のお決まりポーズである少し口を尖らす表情になった。その子供っぽい仕草を指摘するとますます怒りそうなのでそのことは胸に秘めておくことにする。
「過保護って思うかもしれないけど、千草に何かあったら千草のお父さんに面目立たないからな。親父と母さんが海外に行って、うちには俺しかいないって知っているにも関わらず、親父に後見人を頼んだってことは、俺に千草をちゃんと見ていてくれっていうことと同じだろ」
「それはそうだろうけど……、お父さんはきっとそれだけじゃなくて、私と達兄がつk――」
傘に当たる雨音が千草の声をかき消していく。横を歩いている千草の方を見たが傘で顔が隠れていてその表情は見えない。
「ん? 千草、なんて言ったんだ。雨音でよく聞こえなかったんだけど」
「ううん、何でもない。……そういえば、こないだ一つだけお願いを聞いてくれるって言っていたよね」
「俺が高校入ったくらいから千草と遊んだりしなくて、凹ませてたお詫びのことか。リッ〇カールトンのアフタヌーンティーは勘弁してくれよ。あと、ペニ○シュラとかも勘弁な」
どうも高級ホテルのアフタヌーンティーとかってどうなふうに振舞えばいいかよくわからない。出来れば餃子の○将とかで好きなだけ食べてもらった方がこっちも楽でいい。
何をねだれるのかと考えながら再び千草の方を見ると今度は傘をあげていたのでその顔を見ることができた。
しかし、千草の顔は何かをねだる時のような甘えた顔ではなかった。むしろ、決意を帯びた瞳が俺に向けられていた。
「あのね、私そんなのいらない。私のお願いは……、その……、私を達兄の許嫁にして!」
かくして、保護者代行としての矜持を守ろうとする俺と俺の許嫁になろうとする千草との戦いの火ぶたが切って落とされた。
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