天使の声
献辞
息子さんを亡くした世のお父さん方に捧げる。
本当に突然だった。君がこの世から居なくなってしまう日が来たのは。
ああ、わが最愛の子よ。私は涙する。
いつか、また会える日が来るのだろうか。
それとも、もう二度と会えないのだろうか。
できれば生まれ変わってもう一度会いたい。
だが私はもう戻らなければならない。
ただ、忙しい日々に。
君よ、許しておくれ。日々の喧騒に揉まれて、君のことを忘れてしまう私を。
⁂
部下が私に話しかける。
「部長。レポート上がりました。拝見のほどよろしくお願いします」
私は部長らしく厳かな声で応える。そう、君のことを忘れた声で……。
「ああわかった。そこの机の上に置いといておくれ」
部下の女性は私のいいなりに、私のデスクにレポートを置いて行った。
私はブラックコーヒーを注いだコップを持って自分の机に座った。
メガネを外してブラックコーヒーを飲み、一息つく。
こうして窓の外を見ていると、君を忘れていた事を思い出す。
――いけない。仕事中なのに。
君が天国へ旅立ってしまったのは、君が三才の時だったね。病名はもう言うまい。今でも思い出すよ。
思い出せるよ。君の笑顔を。
幼いながらも命いっぱいに輝くその笑顔を私は思い出す。
いけない。涙が出て来た。
ついでに鼻水も。
デスク上の箱ティッシュから一枚取って、拭き取る。
私はメガネをかけ直して、レポートを手にした。
――よし、仕事だ。仕事。
私はこういう時に感情の切り替えができるのは、私自身の才能だと思う。
私は非情な男な訳ではない。
私は私を愛している。私は君を愛している。私は部下を愛している。私は生きとし生けるもの、みなすべてを愛している。
しかしそんな私でも愛せないものがある。あの病気だ。ゆはり今でも憎い。
気持ちの折り合いがつかない。
それは仕方がない事なんだ。と、そう自分に言い聞かせる。
私は気を取り直してレポートに向かう。
それには小さい子どもたちをターゲットにしたコマーシャルを作ると書かれていた。
ああ、君がこのくらいの年頃まで育っていたなら、どんな子になっていたのだろうか。
<僕はここだよ>
私はレポートを読み終えて、今度は赤ペンを手にして、レポート内の問題点を修正していった。
「あと一時間もすれば今日も終わりか」
私は精を出して仕事に励んだ。
そうして時間がやって来た。
「部長、お疲れ様です」
「おう、お疲れ様」
私は部下たちの帰るのを見送る。
あとに残っているのは戸締まりの仕事だけだ。
社屋の明かりを消した。
暗闇が一気に私の周りを囲んだ。
――君が今、こんなふうな暗い所に一人で居なければいいのだが……。
私は君を想う。
<僕はここだよ>
私は暗くなった社屋をそのままに、最後の一人として会社から出て、家へと帰った。
⁂
「ただいま!」
私はできる限りの大きな、明るい声でそう言った。
そうすると妻が奥から玄関へやって来て言う。
「おかえりなさい、あなた」
その表情はやはり無理をしている気がした。君にはそんな笑顔は似合わないよ。ダメだよ。笑う時はもっと楽しそうに笑わなくちゃ。
――無理もない。
あの子が去ってからまだ一月だ。
男の、比較的理性的な私と違って、君はまだ振り切れていないんだな。そういう感性的な所に女性らしさを感じたよ。
<僕はここだよ>
私は風呂に入り、そして妻と一緒に夕ごはんを食べた。
「美味しかったよ。今日もありがとうね」
今日も家事に尽くしてくれた妻へ労いの言葉をかける。
「ええ」
私はこうしていつも感謝の声をかける。だから君も反射的に軽く笑う。
「今日も残さず食べてくれてありがとう。あなた」
でも僕はその微笑みの中に混じった悲しみ、憂いを見逃さなかった。
僕は唐突に言う。
「やっぱり忘れられないか?」
そう言うと妻は何の事だか分からないという顔をした。
「え?」
だから私は針で重箱の隅をつつくような気持ちで言った。
「死んでしまったあの子のことだよ」
するとややもすると、妻の目から一筋の涙が静かに――とても静かに――流れた。
「やめて、言わないで」
妻はとても辛そうな声で言った。
「思い出すのが痛いの。今でもまだ私の腕の中に居るような気がして」
<僕はここだよ>
妻はあの子がまだ生きている時はよく抱っこをしていた。その時の事を言っているのだろう。
僕は妻に言う。
「わかるよ。僕もまだ痛むんだ。時々あの子を思い出す時にね」
そう言うと妻は涙を拭って
「あなた……」
と言った。
僕はこんな時の解決方法を知ってる。
「なあ。今日は呑もうじゃないか」
私は妻を誘った。
「そうね。あなたにお付き合いしますわ」
妻はそう言って、とっくりと焼酎を持って来た。
もう何合呑んだろうか。意識が朦朧として、僕たちは深い眠りに入った。
⁂
気が付くと私は見知らぬ大地の上に立っていた。
空は一面の白だ。大地は一面の緑だ。
ここはどこだろうか。
私が誰かということは分かる。
夢なのだろうか。
……すると近くから男の子の声が聞こえた。
「ようやく会えたね。僕だよ。分かる?」
十四五才に見える男の子はそう言った。
私は見当がつかないので、
「えっと、君は誰かな?」
と応えた。
すると男の子が言った。
「僕だよ。――あなたの息子」
私は衝撃を受ける。
しかし、男の子の顔に見覚えがない。なのでこう尋ねた。
「私の息子は君みたいな顔ではなかったんだが……」
すると男の子は軽く笑って言った。
「別に顔なんて関係ないじゃないか。大切なのは中身でしょ? 僕の情緒は僕のままだ」
「そうか。……じゃあ、君は私の息子の本当の姿だと言うんだね」
男の子は頷いた。
「僕ね、ずっと話しかけていたんだよ。たった一つのことが伝えたくて」
一体何のことだろうか。私には分からないので聞いた。
「何を?」
すると男の子は前のめりで言った。
「一緒だよ」
私は
「え?」
と答えるしかなかった。
すると男の子は続ける。
「僕はあなたと――あなたたちと――いつでもどこでも、一緒だよ。……僕たちが離れ離れになった事なんて、一度もないんだ」
私はこう言うしか能がなかった。
「そうか。気付かなかったよ」
男の子は優しそうな顔をして言う。
「思い出してね。目が覚めたらお母さんにも伝えてあげて。――僕たちはいつでもどこでも一緒に居るって。心と心は繋がっているんだって。会いたい時に会えるんだってことを」
私は
「わかったよ」
と言おうとしたが、にわかに男の子の周りの景色が遠のいて行った。
男の子の声が響く。
「時間だね。……またね、お父さん」
男の子が遠のき、白い光の一点となり、夜空の如くなった時に、私は目を覚ました。
⁂
私が眠りから覚めると、妻も丁度起きていた。
私は告げる。
「君に伝えるべきことがある」
そして言った。
「僕たちは一緒だよ」
エリック・クラプトンのティアーズ・イン・ヘヴンを聴いて。