8.落ち着いて
銃の男を撃退し、家に帰りはじめた井上シンゴと相沢カリン。
その帰路の途中で突然、相沢カリンが「見つけた」とつぶやいて走りはじめた。
相沢の身体能力は、飛び抜けて高いわけではない。
不意に駆けだして驚かされたが、シンゴはすぐに相沢に追いついた。
まだ息は切れていない。走りながら、相沢に話しかける。
「どうしたんだよ、いったい」
「見つけたの。ついてきて」
新しい情報がまったくないその返事に、シンゴは内心いらいらした。
「だから、何を見つけたんだ」
「自殺志望者」
路地裏を相沢はしばらく走り続けた。
そうして不意に足を止める。
荒い息を吐きながら、相沢は目の前の建物を見上げていた。
ビルのエントランスには、「住吉ビル」と書かれている。
「形も似てれば名前も似てるんだ」はあ、はあ、と息を吐きながら相沢はそんなことを言う。「なんでこんなところで自殺をしようと思うんだろ」
住吉ビルの構造は、藤吉ビルによく似ていた。
ビルの左側はオフィス。ビルの右側には、階段とエレベーターホール。
相沢は屋上を見上げていた。
その目に何が見えているのか、シンゴにはわからない。
「たぶん、もう屋上にいるな」
「オーラが見えるのか?」
「今はもう見えない。たださっき一瞬、階段を上がっていく妙なオーラが見えた。濃い灰色。絶望の色」
相沢はそう言って、住吉ビルのエントランスに向けて、一歩踏み出す。
「静かにいこう。音で気づかれるかもしれない」
シンゴは相沢の後を追ってビルの中へと進む。
住吉ビルは五階建ての建物だった。
二人はエレベーターの中に入り、最上階である五階のボタンを押した。
「『予言』は外れたんじゃなかったのか」シンゴはそう言いながら、ポケットからスマートフォンを取りだした。ちょうど『20:00』と表示されている。「時間まで違う」
「さてね」
「本当に見たのか。見間違い、とかじゃなく」
「見た。間違いなく見た。むしろなぜ疑う」
相沢の言葉には自信と苛立ちがあふれていた。
シンゴは黙るしかなかった。
やがて相沢が言った。
「シンゴ、ここに来るまでに言ってたでしょ。『自殺の根本的な原因がなくなるわけではない』って」
シンゴは黙って聞いていた。
確かに、藤吉ビルに向かう間に、そんなことを話していた。
「もし自殺しようとして訪れたビルに、すでに先客がいた場合、その人はどうするかな。たぶんその場所でやろうとはしないよね。じゃ、明日に自殺をのばすかな。それとも、別の似た場所で決行しようとするかな」
藤吉ビルに似た、別の場所。
つまり、住吉ビルだ。
「わからないな」
そのとき、チーン、と音を立ててエレベーターの扉が開いた。五階にたどり着いたらしい。
「わたしも。だから、本人に聞いてみよう」
相沢はそう言って、先にエレベーターを出た。
五階から屋上へ上がるには、階段を使うしかなかった。
藤吉ビルとほぼ同じ構造だ。
鉄製の階段を、二人は音を立てないよう、静かに登った。
シンゴたちが屋上にたどり着いたとき、その男はちょうど、屋上のフェンスを乗り越えるところだった。
生死をわけるビルの縁に立ちながら、ビルの屋上にやってきたシンゴと相沢に対して、男は言った。
「誰だ、君たち……」
シンゴたちの反応は、想定していた状況に応じたものだった。
シンゴはすでに駆けだしていた。
相沢が言った。
「あの男、飛び降りる前に……」
その言葉が終わる前に、すでにシンゴは行動していた。
シンゴの『手』が届くのは、長くて四メートルほどだ。
相沢の言葉を背中に受けながら駆けだして、男が動揺しているうちに間に合った。
伸ばした右手から、さらに伸びた『手』は、屋上の縁に立つ自殺志望者の体を抱き寄せるように支えた。
「え」
そう男が言葉を漏らす間に、シンゴはフェンスに到達していた。
今度は自分の両手で、スーツを着ていた男の襟元をしっかりとつかんだ。
やっとフェンスまでたどり着いた相沢が、男の肩に右手を置き、耳にささやいた。
「落ち着いて。とりあえず、落ち着こう」
男はゆっくりと息を吐いた。それから、相沢の顔を不安げに眺めた。
「落ち着こう。落ち着くんだ。落ち着いて……」
肩においた右手を強く握りしめながら、相沢は同じ言葉を何度も繰り返した。