6.失敗
井上シンゴは男に銃を突き付けられ、ビルから飛び降りることを強要されていた。
屋上のフェンスは胸の高さまである。白く塗装されたそのフェンスの上部に手をかける。
体を持ち上げながら、隣にいる相沢にささやきかける。
「わかってるよな」
相沢は小さくシンゴにうなずき返してきた。
足でフェンスをまたぐときは、さすがにひやひやした。
運動神経が悪い方ではないが、足でも滑らせたら本当に死んでしまう。
フェンスを越えた先には、まだ一メートルほどのスペースがある。
その小さなスペースに足を下ろす際に、体を半回転させ、銃の男と向き合うような形になる。
銃の男は、案外近くにいた。それでも三メートルほどの距離がある。
ただ、これなら届くな、とシンゴは考える。
相沢に向いていた銃口が、シンゴの方に向けられる。
だが、シンゴがすでにフェンスの向こう側にいるせいか、あまり早急な動きではなかった。
そしてその銃は下ろされた。
「おい、どうした」と銃の男がたずねてくる。「怖じ気付いたか」
ビビってるのはあんたの方だろ、とシンゴは考える。
「相沢」とシンゴは言った。「『手』を使う」
「よしきた」
井上シンゴは見えない『手』を操ることができる。
それは体の任意の場所から出せ、他人にも、シンゴ自身にもみえない。
見えないが、シンゴには感じることができる。
その手の伸ばせる距離は、長くて四メートル程度。
だから、いま銃の男との間にある距離なら、簡単に『手』が届く。
相沢が素早く、銃の男へ向き直る。
男が反応し、銃を持つ右手を相沢に向けようとした。
だがその右手は、シンゴの『手』にすでに掴まれ、押さえ込まれている。
上げようとしても動かない右手に、男が違和感を覚えたらしい。
慌てて右手に視線を向ける。しかし、そこには何もない。
そのときすでに相沢は銃の男の目前に迫っていた。
右の拳を握り、上半身をひねって反動をつけながら、叫んでいた。
「歯ァ食いしばれっ!」
銃の男に向かって振り抜かれた右手は、おそらく、当たりどころが悪かった。
顎付近に拳を受けた銃の男は、シンゴの『手』に掴まれたままの右手を軸にして、体を直立にさせたまま倒れ込んだ。
男の動きに力はなかった。
そしてシンゴの『手』は、男の右手を握ったままだった。
すべての体重が預けられた男の右肩が鳴らす、ごきっ、という嫌な感触が伝わってきた。
「いったたた」
相沢が右手を振りながら、倒れ込んだ銃の男を見下ろしている。
銃の男は、『手』に掴まれている右手だけを宙にのばしたままだ。
おかげで肩は痛めたが、頭を強く打つことは避けられたらしい。
男はどうやら、意識を失っているようだった。
シンゴは男から『手』を放し、それからゆっくりとフェンスを乗り越えた。
「手、痛めたのか?」
「ううん。ちょっと、骨に響いただけ」
足下には銃が転がっている。
拾い上げようとしたシンゴは、少しためらい、それから制服の袖越しに銃をつかんだ。
「本物?」
相沢がそう聞いてくる。
銃はオートマチックで、プラスチック製だった。
それでも、中に込められている銃弾のせいか、外側から見て想像するよりはずっと重い。
あるいは、モデルガンもそんなものなのか。
「わからん」
「そりゃそうか。……で、どうしよ。中田のおっさんでも呼ぼうか」
「そうだな」
相沢がスマートフォンを肩に下げていたバックから取り出す。
よくわかんないんだけど、と切り出す相沢の声を聞きながら、シンゴは銃の男を見下ろした。
この男も災難だな、とそんなことを思った。
人を待つ間、シンゴは相沢から、こうなった経緯を聞いていた。
といっても、大した話ではなかった。
「路地裏にこいつが現れたとき、オーラは真っ赤だった。何かひどく興奮しているみたいでさ。だからたぶんこの男なんだろうな、と思ってわたしは声をかけてみた」
話ながら相沢は、通学カバンから取りだしたビニールの荷造り紐で、男の腕を縛っていた。
まだ意識がはっきりとしない男は、ただうめくばかりで、ほとんど無抵抗に近かった。
「なんて?」
「あなた、何か企んでるでしょ、って。こいつはすぐに顔色を変えたね。だからわたしは確信して、ビルのエントランスに導いた。そっちで話を聞くから、って。……そしたら銃を突きつけられた。くそっ」
男はすでに、足も腕も、ビニールの荷造り紐にグルグル巻きにされていた。
「わたしは落ち着け、話せばわかる、人違いでしたと言ったけど、こいつは聞いてくれなかった。オーラをいじろうにも、先に背中に銃を突きつけられるし。で、仲間がいるかと聞かれたから、屋上へ案内したというわけ」
「……あのさ、そういうときって普通、仲間を守ろうとするんじゃないの?」
シンゴがそう指摘すると、相沢は男の肩に軽く足を乗せた。
「悪いのはこいつだ。人の話、聞かねえんだもん」
「俺まで巻き込むなよ」
「だって、ほかに方法もなかったし。まじめな話、助かったよ」
まあ、そう言われて悪い気はしない。
そしてシンゴはふと気づき、ポケットからスマートフォンを取りだした。
待ち受け画面の時計を確認する。時刻はちょうど、午後七時を回ったところだった。
耳を澄ませてみるが、ビルの下に野次馬の気配はない。
飛び降り騒ぎは起きなかったらしい。
「午後七時」
相沢にそう言ってみると、彼女は目をほそめてみせた。
「『予言』が外れた」相沢はそう言い、頭上に瞬きはじめた星を見上げた。「骨折り損のくたびれもうけか」
あるいは自分たちの行動が、『予言』の前提条件を変えてしまったのかもしれない。
いずれにせよ、自殺志願者を止めることはできなかった。そもそも、会うことすらできなかった。
仕事は失敗だ。
シンゴはため息をついてみせた。
まあ、どうせヒマつぶしだ。
ヒマつぶしだが、徒労は徒労だ。
「おっさんが来たら、帰るか」
「そうだね」