3.藤吉ビル
井上シンゴと相沢カリンは、事件が起こるという藤吉ビルに向かっていた。
二人が藤吉ビルにたどり着いたのは午後六時のことだった。
藤吉ビルは路地裏にある四階建てのビルで、あまり大きなものではない。
通りに面して左手にガラス張りのオフィス部分がある。
建物の右手は、エレベーターのエントランスと共に、上階へあがる階段の入口が見えた。
ビルの外から見る限り、階段は屋上まで繋がっているように見える。
小さなビルだ。
エントランスには特に受け付け等はなく、警備員もいない。
誰でも中に入れるようになっている。
「よくこんなところで自殺しようと思うなあ」
隣で相沢が、屋上を見上げるようにしながらそうつぶやく。
自分もまったく同感だ、とシンゴが思う。
もっと高いビルも、派手に死ねそうな場所も、探せば見つかりそうなものなのに。
理由があるとすれば、誰でも簡単に屋上まで上がれそうなこと、ぐらいだろうか。
不意にシンゴは背筋に風を感じ、ぞっとする。
死へ向かおうとする人間の気持ちを想像してみたせいだろうか。
四月だが、すでに日は落ちて寒かった。
「じゃ、手はず通りに」相沢も寒いのだろうか、軽く手をこすりながら言葉を続ける。「シンゴはもう屋上、上がってれば」
それは道すがら話して決めた今日の役割分担だった。
だが、すでに暗くなっている路地裏に、女子高生を一人おいていく。
少し心配になり、一応シンゴは聞いてみた。
「一人で大丈夫かよ」
「モチのロン。お茶の子サイサイ」
そう言って左手でピースサインを相沢はしてみせた。
その様子を見て、こいつならまあ大丈夫か、とシンゴは思い直す。
何かあっても、的確に急所をつく打撃をお見舞いするだけだろう。
それに相沢の能力はそれだけではない。
すでに決めていたとおり、シンゴは屋上へ向かってビルの内部を進んだ。
ビルの構造や、規模によっては面倒な役割かもしれなかったが、藤吉ビルのセキュリティは甘かった。
ビルに入って左手には一階のオフィスに続くガラス戸。すでにブラインドが下ろされている。
右手には鉄製の階段。ビルの外側に螺旋状に階段がつなげられている。
正面にはエレベーター。エレベーターの表示に、最上階を示すRという文字はない。
少し迷ったが、シンゴはエレベーターで上がることにした。
エレベーターの中に入り、最上階である4階のボタンを押す。
4階の構造も、一階とそう変わらない。
エレベーターから見ると、先ほどとは反対にそれぞれのドアがある。
右手にはオフィス。左手には階段。
左手の階段は、さらに上へと続いている。
シンゴは階段を上った。カンカン、と高い足音が響く。
屋上の見晴らしはそう悪いものではなかった。
屋上をぐるりと囲むフェンスは白い鉄製のもので、胸ぐらいまでの高さがある。
そのフェンスに手を乗せ、シンゴは周囲を見渡す。
春の夜。濃い藍色の空が頭上に広がっている。星はまだ見えない。
かといって、その見晴らしはそういいものでもなかった。
周辺のビルはこのビルと同じ四階建てか、それ以上の高さがある。
明かりがついており、まだカーテンが閉められていないビルでは、中で働き続ける大人たちの姿があった。
反射の関係で、向こう側からはこちらは見えないのだろう、とシンゴは考える。
ポケットからスマートフォンをとりだし、時間を確認する。
午後六時十五分をさしていた。
飛び降り騒ぎが起こる時間は七時らしい。
『予言』ではそのはずだった。
その騒ぎを起こす自殺志望者。
彼が、現場にいつやってくるのかはわからない。少なくとも七時よりは早いだろう。
ふう、と息を吐く。真冬とは違い、白くはならない。
自殺志望者がこの屋上に現れるかどうかも、やはりわからなかった。
そこは相沢の手腕にかかってる。
ふと思いつき、スマホで相沢に電話をかけてみる。
相沢はすぐに電話に出た。
シンゴは屋上にたどり着いたことを報告し、その感想を言った。
「屋上には簡単に入れるな」
「外から見たとおりか。今時、こういうのって責任問題にならないのかな」
「さあ。そもそも、誰のどんな責任になるんだ。勝手に飛び降りられる方が迷惑じゃないのか」
「そりゃ、ま、そうだ。……わたしの方は、まだ何にも。それっぽい人、見つけたら声をかける。そのときはまた電話する」
「了解」
そう言うと電話が切れた。
あとは待つだけだ、とシンゴは考える。
うまく行けば、今日は何も出番がなく終わるだろう。
もしも相沢がうまくやれば、だが。
しかし実際のところそうはならなかった。
それどころか、考え得る限り最悪の、予想もしない展開になってしまった。
それもこれも、相沢の信じられないほど悪い勘と運のせいだった。
人の心にふれることの出来る特殊な力を持っているのに、どうしてそんなことになるのか、後でいくら考えても、シンゴにはわからないままだった。