第一話 朝日・辰巳の終わり、乾・巽のはじまり。
かつて、『悪路王』と呼ばれた最悪の鬼神が居た。
その真名を呼ぶことを忌避されるほどに恐ろしい存在であり、伝説に拠れば、天皇に連なる高貴な血筋に生まれたその鬼神は、何時しか力に溺れて破壊と殺戮に狂うようになり、遂には鬼神に墜ちて黄泉の国より呼び出した不死者の軍団をもって、皇位の簒奪さえも目論んだという。
簒奪こそ叶わぬ夢で終わったが、『悪路王』の振るう力は凄まじく、京の都を百年占拠し、国には死と苦しみばかりが立ち込めたという。
そんな『悪路王』にかつて立ち向かった存在こそ、刀良・宿禰、弓削・豊穂、当麻・刀自。
後に三武者と呼ばれることになる武人たちであった。
三武者の決死の活躍の末に、『悪路王』は討伐されたものの、その死体は不死者を呼び寄せ復活させる為、三人はそ『悪路王』の亡骸をとある島に封印し、その封印を子々孫々に至るまで守り続けることにしたという。
やがて、刀良・宿禰は、剣術の源泉となる朝日家を、弓削・豊穂は弓術の源泉となる十六夜家を、当麻・刀自は体術の源泉となる青海家を興し、今も尚、その島、鬼ヶ島の奥地に封印された『悪路王』の亡骸を監視し続けているという。
今では、歴史の片隅に少しばかり語られるだけの、古い御伽噺である。
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鬼ヶ島。
それは、無数の不死者や妖魔が溢れ暮らす、魔界と人界の境。
そこに棲息する妖魔は強く、そこに生きる者が弱くあることは許されなかった。
それゆえに、この島の住人全ては何かしらの武術を修めた強力な戦士であることを求められ、島で成人として認められる十三の歳に強力な魔物との戦いを行う「立志の儀」を行うのであった。
その年ごとに儀式に使われる魔物は違うが、その全てが災害級の実力を持つ魔王の階級である。
そしてこの日、島を治める三家の内の一角、朝日家の当主である朝日・市之丞の長男である朝日・辰巳は試しの儀に臨み、そして何一つ手も足も出せずに敗北した。
敵となったのは、真っ白な大猿。
身の丈は十尺を越える程の大きさをした巨大な猿であり、白い毛並みの中に浮かぶように赤く染まった顔が印象的な魔物である『大狒々』。
確かに、巨体と其処から繰り出される怪力は恐ろしい物を持っている魔物であり、同時にその巨体に見合わぬ速度で動くことから、『外』では魔王の階級に列せられる魔物の内の一種である。
だが、この鬼ヶ島の戦士にとってみれば、畑や牧場を荒らすだけの能力しかない害獣。
単なる駆除すべきケダモノである。
だが、そんな魔物に辰巳は敗北した。
見事なまでの敗北だった。
振り回した剣戟は一度として大狒々には当たらず、掠る事すらせず。
そして、『大狒々』が繰り出した横殴りの打撃。
それを辰巳は避ける事すらできずに喰らい、石舞台の端まで吹っ飛ばされた。
そうして、辰巳が戦闘不能であることを見て取った審判たちは、あっさりと『大狒々』を殺して始末をつけると、吹っ飛ばされた辰巳の様子を素早く看て取った。
辰巳は、激痛の走る体を無理矢理に石舞台の中央に担ぎ出され、頭を下げさせたまま正座の状態で石舞台の中央に引きずり出されたので、その恰好は一見すると土下座をしているように見えてしまう。
そんな辰巳を見る周囲の目は、様様であった。
今までも、稽古ですら女にも年下の剣士にも勝ったことが無く、稽古を重ねる度に周囲との実力の差が浮き彫りになるばかりであった。
辰巳と同世代の十二人の剣士たちは、幼いうちから娑婆刀を覚醒させ、既に実戦にさえ参加して『天道世代』とさえ呼ばれているというのに、辰巳はどれだけ道場の隅で素振りを振るおうが、どれだけ書庫で魔術の知識を蓄えようと努力しようが、何一つ結果に結びつくことなど無かった。
どれだけ努力を積み重ねようとも、何一つ報われることができない辰巳を見て、周囲の人間は口さがなく、あだ花と嘲り、それを聞いて周囲の人間も軽く笑いながらそれを止めるのが常だった。
だが。今日ここで、そんな辰巳に対する評価は確定した。
当主の血を引く出来損ない。
この結果を知った人々の反応は様々である。
辰巳の守役を務め、剣術の師匠を自認していた武塔・彰常は憐みの視線を、
天道世代の剣士たちの多くは隠そうともしない蔑みの視線を、
剣士の武術を計る熟練の戦士たちは嘲りの視線を、
それぞれ遠慮容赦なく辰巳の背中に投げつける視線の種類は様々であったが、ただ一つ共通していたのは、全員が全員、辰巳のことを下に見ていたことだった。
まあ、辰巳であれば仕方がない。
言外にそんな言葉が籠っている視線を、悪意のある囁きと共に投げつける周囲の人間達に、思わず辰巳は拳を握り締めてしまう。
それは或いは羞恥であったのかもしれないし、屈辱であったのかもしれない。或いは、怒りだったのかもしれない。
そんな中、辰巳の実妹である桔梗と雛菊だけが、ただ不安そうに「立志の儀」を執り行う石舞台を眺めているだけであり、姉の桔梗これから先辰巳がどうなるのかも知らずに未だに応援を重ねており、妹の雛菊は泣きそうな顔を歪めて石舞台の辰巳をじっと見つめることしかできずにいる。
そんな中、辰巳の父であり、『剣聖』の称号を取る朝日家の当主である朝日・市之丞兵部卿が静かに口を開いた。
「……辰巳、今日を持ってお前をこの島から追放する。依存無いな?」
父からの言葉は冷たく、何処までも感情を感じさせない物であったが、それでもこの「立志の儀」において、鬼ヶ島の御三家当主の口から言葉がかけられるというのは、異例のことである。
辰巳は決して床に擦りつけた頭を上げる事は無かったが、内心では驚きを隠すことができなかった。
この父が辰巳に対して必要のあること以外で言葉をかけたことなど、否。
そもそも、この父が自分の子供に対して、情を感じさせる言葉や態度を見せたことなどない。
その人生を剣に捧げ、絶剣と呼ばれる天才剣士
異母弟であるドラコにも、実妹である二人にも甘い顔など見せたことが無かった。
だからこそ、今此処でこうして父が自分に話しかけるなどとは思いも寄っておらず、静かに父の言葉を待つ。
「我ら鬼ヶ島の武士は、或いは朝日家、十六夜家、青海家の三家に連なる武人は、五千年前にこの鬼ヶ島の守護と悪鬼滅殺の任。そして、この島で打たれる娑婆刀の独占を皇室直々に許されている」
「…………は」
「それも一重にこの島の武士が、剣士が、戦士が、この島の守護と悪鬼滅殺の任がそれほど重いということにほかならぬからだ。故に弱い者などいらないのだ」
「………………は、存じております」
「立志の儀式を超えられぬ者は、娑婆刀を扱う資格は無い。
娑婆刀を使えぬ者に、三家に仕え、鬼ヶ島の武を学ぶ資格も無い。
早急に荷物をまとめて、この島より出て行け。そして今日より私とお前の親子の縁を切る」
滔々と語り出す父の言葉を聞きながら、辰巳は地べたに頭を押し付けたまま思わず苦笑の笑みを浮かべてしまっていた。
父である市之丞から、父親らしい言葉を聞いたのは、これが初めての事だからだ。
或いはこれは、諧謔なのかもしれない。これまでの人生を賭けた、冷血と呼ばれる男が初めて口にする諧謔
そう思ってしまえば、父の表情が気にかかる。
そこで初めて辰巳は、冷たくただ淡々と言い捨てる市之丞の顔を盗み見、道端の虫けらを見るような冷たい父の瞳を見て、寧ろ安堵してしまった。
恐らく、彼にとっては本当に、辰巳の事などどうでも良いのだろう。
何故なら、当主の役目はただ一つ、『忉利天流剣術』を受け継ぎ、そしてそれを次代につなげる事。
それは或いは、非人間的な、機械的な生き方の様に見えるが、人生を剣に捧げ、鬼ヶ島の使命を全うする事のみに捧げていた事を考えれば、それもさもありなんと言ったところだろう。
そんな、一種の非人間として生きて来た父である市之丞に、辰巳は今までの怒りや恨みよりも、蔑みと憐れみを覚えてしまう。
そしてそれはもしかすると、この島に生きる全ての武士にも言える事かもしれない。
だが、別に辰巳にとってはどうでもよい話だ。
この島を出ていくことは、全て辰巳の計画通りであるのだから。