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第一話 繊月

「こんばんは」


清涼感のある声が自分に声を掛けられた様な気がして、手に持った本から目を移すと、傍に女の子が立っていた。身長は私より少し低いくらいの、肩にかかる茶色の髪はさらさらで、美人というより可愛いという表現が当てはまるような女の子だった。二十代半ばな私より明らかに年下だろうと思われる彼女はにこりと笑った。


「…こんばんは?」


明らかに私に話しかけていたので、とっさに挨拶を返すが、誰だか思い出せず曖昧な挨拶になってしまった。語尾が疑問系になってしまい軽く慌てるものの、彼女は気にする風でもなく、会釈してからそのまま横を通り過ぎて行く。すれ違い際に、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

(誰かしら…?)


顔は見たことがあるような気がするものの、会社と自宅を往復することが大半の生活の中で、最近女の子と知り合いになるような事はなかったはずだと、ついつい後ろ姿を眺めていると、私の視線を感じたのか彼女が何気なく振り向き思わず目が合ってしまった。


「!」


咄嗟の事に何だか気まずくなり、慌てて会釈すると彼女も軽く微笑んでから店の外に向かった。結局、私はその女の子が誰だか思い出せないまま家路に着いた。



それからしばらくして、私は彼女と再会する。



仕事が終わり、疲れた体を引き摺りながらぼんやりと夕食のメニューを考える。アパート近くにあるスーパーは大抵この時間タイムセールで惣菜や生鮮品が割引かれており、私は良く利用していた。

一人分の食事の準備は面倒臭いが、高校の頃からずっと独り暮らしの様な環境だったので、節約の為に体力と時間に余裕がある時は自炊する事が多かった。頭の片隅に冷蔵庫の食材を思い浮かべつつ、あれこれとかごに入れレジに向かう。

(卵は買ったし、パンもある…よし、忘れ物はないわね)


「いらっしゃいませ」


ぼんやりと考えていた頭に聞き覚えのある声が届き、ふと視線を上げると、先日書店で会った彼女がレジにいた。


「こんばんは」


私に笑いかける彼女は、店員用のシャツの上にエプロンをしており、胸のプレートに"研修中"の三文字が見える。


「この間の…!」


思い出した。最近スーパーのレジにいる子だ。仕事帰りに何度か買い物をした時に彼女のレジに並んだ事を思い出して、漸く納得した。店の制服を着ていないと顔が一致しなかった私に対し、彼女はお客の顔を良く覚えているらしい。商品のバーコードを通しながらこちらを見てにこりと微笑んだ。

何か言おうとも、どう声を掛けるべきか分からず、結局私は、その日も曖昧に笑い返し会計を済ませた。



どうやら彼女のレジに立つ時間と私の買い物の時間は同じらしく、それからも何度か顔を合わせる事があった。基本的に会話が苦手で話下手な私に、何故だか彼女は良く話しかけてきた。彼女のネームプレートから"研修中"の文字が無くなる頃には、会計の間にたわいもない会話をするようになり、私は彼女が大学生であり、ここにはバイトで働いている事を知った。職場では年配の男性ばかりで、いつも事務的な会話ばかりが続く毎日に、彼女との言葉の掛け合いはとても心地良かった。


季節は徐々に秋に変わろうとする九月、昼間暑かった外は夜風がひんやりと涼しく、街路樹の根元では虫が鳴いている。周りにはビルもあるが、地方都市らしくそこまで高い物ではない為、空を見上げると僅かに幾つかの星明かりと細い月が見えていた。

涼しい空気を感じるようにゆっくりと歩いて、行き付けの書店に向かった。これと言って読みたい本があった訳ではなかったが、本を読む事が好きな私は、社会人になってからは深夜まで営業している書店を良く利用していた。


書店に入ると、人はまばらで中は肌寒いくらいの冷房が入っていた。いつものように新刊をチェックした後、文庫コーナーをゆっくり眺めていると、隣に誰か立った気配を感じた。


「こんばんは」


控えめな声ながら、どことなく可笑しそうに挨拶をする声に既視感を覚えて振り向くと、先日と同じように彼女が私の隣に立っていた。何も話せなかった前回とは違い言葉を返す。


「こんばんは、また会ったわね」


にこりと笑い返すと彼女は嬉しそうに微笑んだ。いつものエプロン姿ではなく、シックなハイネックのシャツ上にジャケットをはおり、黒のスカートを身につけている。

人を惹き付ける様な笑顔と明るい雰囲気、真っ直ぐに向ける視線がくすぐったいくらいで、同性ながら可愛いと素直に思う。


「本好きなんですね?」


二度も同じ場所で会えば、そう思われても仕方ないだろうと苦笑して答える。


「うん、好きだね」


手元にある本のタイトルを覗くように少し体を近づけた彼女から、再び甘い香りがした。香水だろうかふわりと控えめに薫る匂いが彼女の雰囲気によく似合っていた。


「……ファンタジー物ですか?」

「意外かな?」

「意外です。何だか経済誌とか似合いそうな気がしたので…」

「流石に経済誌は読まないわよ。楽しく読める本が多いかな?」

「そうなんですね、私は普段雑誌くらいしか読まないですよ?」


私に向ける視線が尊敬を含んでいるようで照れ臭く、そっと視線を逸らした。


「今日はバイトは休み?」

「いえ、さっき終わって…明日は休みなのであっちのコーナーで何か借りようかと思って来たんです。此処に入っていく姿が見えたので、思わず声を掛けちゃいました」


彼女の視線の先には、併設されたCDとDVDのコーナーがあった。年上の私を気遣い敬語で話す彼女の言葉を聞きながら、そう言えばお互い名前も知らない事に気付く。いや、少なくとも私は彼女の名字が"香田"であると知っていた。ここで会ったのも何かの縁だと思い、話しかけてみる。


「私は立木夏樹。確か香田さんだったよね?」


彼女は私が名前を覚えてくれていたことに、ぱっと嬉しそうな表情をした。


「香田綾乃です。そう言えば、良く会っているのに名前を聞くのは初めてですね」

「本当ね」


二人で笑い合うも、近くにお客さんがいる事に気付き声を潜めた。


「立木さんは本を買いに来たんですか?」

「ええ、何か面白そうな物があればと思ったのだけど…今日はやめておくわ」

「ひょっとして、私、お邪魔しました?」

「ううん、特に読みたい本もなかったから。ちょうど切り上げようと思っていたところよ」


「それなら…立木さん、これから何か用事が有ります?折角なのでもう少しお話しませんか?

私一度ゆっくり話をしてみたかったんです」

「えっ、…特には予定はないけど、香田さん何か借りに来たんじゃないの?」

「私も何となく暇で来ただけだから、気にしないで下さい」


突然の申し出に迷ったものの、無邪気に笑いかける彼女の誘いを拒む事が出来なかった。

結局私たちは店の外の自販機の側にあるベンチに移動し、そこに並んで腰掛けた。自分用にホットコーヒーを買うと、香田さんは炭酸ジュースを選んだ。秋の涼しげな夜気の中お互いの事を当たり障りない程度に聴き合っていく。

会話が苦手な私は最初は戸惑い気味だったものの、趣味、好きな音楽、日常の事…様々な話題を話しやすい彼女の雰囲気につられて、何時しか少しずつ会話が弾んでいった。


年齢も、今まで過ごした環境も、何もかもが違うのに、香田さんとは不思議と話が合い、仕事以外での久しぶりの会話が私の心に少しずつ潤いを与えていく。


こんなに談笑したのはいつくらいだろう?随分と昔の楽しかった事を思い出してしまい、一瞬心がぎゅっと苦しくなった。

ふと気がついて時計を確認すると、話始めてから一時間程経っていて、香田さんもスマホを確認して驚いた顔をした。


「ごめんなさい。こんな時間までつい話し込んでしまって…時間大丈夫?」

「私は全然大丈夫です。それより私の方こそすいません。楽しかったのでついつい甘えてしまいました。

立木さん明日は仕事じゃなかったですか?」


二人で立ち上がりながら言葉を交わすと、周りの喧騒が耳に入る。まるで今まで止まっていた時間がゆっくり動き出した様な気分になった。


「ええ。そうだけど、私は遅くなっても大丈夫よ。

今日は付き合ってくれてありがとう。久しぶりに楽しい時間が過ごせたわ」

「私も楽しかったです。

…あの、良かったらまた会ってもらえませんか?」


思ってもみなかった香田さんの言葉に、少しどきどきしながら返事をする。


「え?ええ、構わないわよ」

「ありがとうございます!それじゃあ、連絡先交換してもらえます?」


ぱあっと明るい表情で香田さんはいそいそとスマホを取り出し、お互いに連絡先を交換した。仕事以外で自分のスマホに新しく入るアドレスは久しぶりで"友達"のフォルダの"香田綾乃"の文字を眺め大切に保存した。


「また連絡しますね」


別れ際にそう声を掛けられ、微笑んで手を振る。香田さんは私の家と反対方向に向かって歩き出した。家にたどり着き、スマホを見ると香田さんから早速メッセージが入っていた。


"今日は楽しかったです。これから宜しくお願いします"


可愛いスタンプが手を振っている。


"私も楽しかったです。今度はゆっくり話そうね"


可愛いスタンプがなく、仕方なく絵文字で送った。すぐに既読の文字が付き、喜んでいるウサギが動いていた。ウサギのスタンプが彼女に似合っていて、思わずくすりと笑った。


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