俺を忘れないでくれ
ほら、俺の名前を言ってみろ。口を『ヘ』の字に曲げてる俺の名を。
そりゃあ、道具としての名前は知ってるだろうさ。だけれど、型番なんて知らないはずだ。自分の金で買ったわけでもないし、大切な誰かからの贈り物というわけでもないから。
俺がマスターの手元に来た理由は、会社から貰った商品カタログに載ってたから。半年ほど放置していたカタログの引換期限が迫って、あわてて選んだのが俺ってわけ。
写真を見て分かってた思うが、到着したのは味気も飾り気もないシンプルな俺。安物とまでは言わないが、おしゃれなものではけしてない。
箱から出した俺を見て、うむ社長もケチったな、そう言って、放り投げられるかもしれないと、ビクビクしていたのが本心だった。
確かに俺は安物さ。そいつは認めるよ。
だが、マスターは俺を見てこう言ったね。こういうのは、実用性が有ればそれで良い、こういうので良いんだよね。
俺はその言葉に安心を覚えたよ。ただのつまらない道具として、ホント安心した。
ヒョイと俺をもちあげ、試すように俺に触れるマスター。俺は、ジワリと体温を感じたもんだ。
ありがたい、良いマスターに出会えたのかも知れん。俺はそういう気持ちになったのを覚えているよ。
それから毎日、色々な場面を見てきたな。会社勤めのマスターだからな、仕事の時間が多かったと思う。
会議が押しに押して、アポ先へ向かう移動時間が減っきて、ハラハラしたり。入札の結果待ちの時、取れるか取れないかとドキドキと時を待っていたり。出張先に向かった際に、路線バスが定刻通りに来なくてイライラしたり。
俺も一緒にハラハラ、ドキドキ、イライラしていたよ。
刻々と時間が過ぎて行く、そういう場面だけではなかったかな。プレゼンを時間通りにピタリと終えたマスターが、俺を眺めてニヤリとした時。12時ちょうどの館内放送が響いて、お昼のニュースの時間を告げた時。
決めごとのように、ピタリと俺が動きを止めるて合図する。それがおれの商売なのさ。
あんたはは時間に追われるビジネスマン。ちょうど良いコンビじゃないか?
だがこの男、よく俺を自宅に置き忘れる。こやつは身の回りの小物を置き忘れることにかけては天才なのだ。俺を持って出かけたとしても、色んなところに置いてぼりにするしなぁ。
昼食を取っていたラーメン屋のカウンター。片づけをしていた資料室のキャビネの中。一番多いのが、PCに向かっているマスターのデスクの上。
その都度、回収しているだろ? と言ってもな。ニ三日ほど、俺の所在が分からなくなったことがあるだろ。
それが、何回あるか覚えているか? すでに前科8犯だ。優しい人達が届けたり教えてくれなかったら。俺はどうなっていたか。
つい先日も、また置いてけぼりにされかけた。
あれは先週の金曜日、8時頃。俺の顔を眺めて、今日位は早く帰ろうと仕事を投げ出した俺の所有者。あんたは俺を持ち上げ、帰路につく。
地元の駅に向かう電車の中で泥のように眠る姿を眺めながら、俺は静かに時を待つ。
アナウンスが響く。『……駅、……駅、足元にご注意ください。ドアが――』
眠りこけていたマスターが脊髄反射の勢いで電車から降りる。そして、半ば眠っているようなしまりの無い顔をして、時間を確かめる。
夜の9時20分。俺の顔もあんたと同じでしまりの無いものだったかもな。
で、行きつけの小料理屋へ向かうわけさ。自宅に向かう方向にある、気心の知れたなじみの店。
いまだ寝ぼけた面のまま、暖簾をくぐると、60歳くらいの女将さんが明るい声をかけてくる。
あら、いらっしゃい、今日は早いのね。どうもと軽く頭を下げたマスターは、ドカっとカウンター席に座る。
ひとつ深いため息を吐くと、いつものと言った。そういうあんたの目は、死んだ魚とは言わんが、一週間の疲れがありありと出ていたね。
お疲れさんねぇと言う女将さんが飲み物を準備するのを見ながら、俺のマスターはおしぼりで手を拭って、その反対側で顔を拭う。
ふはぁと顔を拭き終えたマスターは、その腕にちょっとした重みを感じたのかな。俺をカチャリと外して、定位置に置いた。
俺の目方はそれほどじゃないが、リラックスしたい時に邪魔なのは認めるぞ
そして、いつものお注ぎしますねと、女将さんが瓶を差し出す。マスターは俺がいなくなり、軽くなった手にもったコップを差し出した。
女将さんが瓶を傾け、トクトクと注がれていく黄金色の液体。それがコップに満たされていくとともに、目に輝きが戻るマスター。
今日は時間に追われて、昼飯もとっていない有り様。だからこそ、いまここに至福の時が始まる。
液体と泡を満足そうに眺めたマスターは、そいつを一息に飲み干して、ぷはぁと幸せそうな吐息を漏らす。
まさに、幸せのひと時。
いい飲みっぷりねと女将さん。マスターは、いやぁ今日も頑張っちゃったよ! とかなんとか言ってやがる。
麦酒をやりながら、女将の手料理を楽しむマスター。花の金曜日に、いい頃合いに飲み始めて、落ち着いて酒と肴をやる。
それは幸せの時間。そんな時を刻むのは、俺にとっても嬉しいものだ。
だから、10時10分頃には、マスターは随分と良い笑顔になっていたし、俺も似たような顔だったさ。
だけどね、そのあとがいけない。
明日は休みだと調子に乗って呑んでたマスターに、そろそろ看板ですよと告げる女将さん。
店の壁にかかった俺の親戚を見遣り、いい時間だなと呟くマスター。
じゃぁお勘定と言って、財布の中に手を伸ばす。この男、ツケで飲むことはないし、支払いは忘れない男だ。
だがな、なにかを忘れている。思い出せ、思い出すんだ ごちそうさんして、店を出ようとするな。
あれれ、忘れものだよと女将さんが声をかけてくれなきゃ、どうなったことか。
ここが全く知らないお店だったらどうするるつもりだった。もう来ることもない出張先だったら、見捨てたんだろう。
そんなことはないって言ったとしても信じられない。非常に怪しい。
だけどね、もう一年の付き合いだから、慣れちゃったよ。
カチャリと俺を腕にしたマスターが、またやらかすとこだったと、えへらと笑い、じゃぁねと告げて家路につく。
いつもの事、いつもの家路。
もう、時間の感覚もなかったろう。フラフラと帰宅して、自室に入ったマスターは、俺を机の端に置く。背広一式を脱いだら、そのままベッドに潜りむ。
風呂を忘れてる。まぁいい、シビアな一週間だったし、酒精も入ってるからな。
すやぁ――随分と短い時間で眠りに入ったもんだ。鼾もかかずに、眠りに落ちている。
今は12時ちょうど。俺のパーツがピタリと合わさるそんな時間。
俺は眠れない性質なので、静かに、ただ静かに時間を刻むだけ。
そして朝。とても気持ちの良い天気。
すうっと太陽の光が差し込んで、とてもとても気持ちの良い朝の時間。
だが、うちのマスターが、そんな幸せな時間を楽しむ事は無い。
差し込む光が、重く瞑られた瞼の奥に入り込むと、脊髄反射の勢いでマスターは飛び起きるからだ。
仕事だ、会社だと慌てふためき、ワイシャツを探して袖に腕を通す。
時間が、時間がとわめきながら、マッハの勢いでネクタイを締める。
習慣のなせる技というか、業だろうか。だらしの無い会社員の朝とはこのよう時間なのだ。
だが、ちょっと落ち着いて欲しいと思う。だから、俺は机の上から声を掛けたんだよ。なぁ、今日は仕事の日じゃ――
そのように話しかけるが、ガン無視される。
曜日感覚が狂ってないか――そう話しかける俺を無視して、スマホやら手帳やらの七つ道具をかき集めるマスター。
そしてマスターは、俺を置いたまま、自室を出ていこうとする。
待て待て待て、立ち止まれ――
マスターが扉を閉めずに、飛び出そうとしたその瞬間。マスターの体がビクッと震えてピタリと止まる。
そうだ、省みるがごとく振り返れ――
マスターが自室にクルリと立ち戻り、なにか騙されたような表情を浮かべながら、俺を手に取る。
俺の顔を良く見てみろ――
ほら、俺の名前を言ってみろ。口を『ヘ』の字に曲げてる俺の名を。
そりゃあ、道具としての名前は知ってるだろうさ。だけれど、型番なんて知らないはずだ。自分の金で買ったわけでもないし、大切な誰かからの贈り物というわけでもないから。
俺がマスターの手元に来た理由は、会社から貰った商品カタログに載ってたから。半年ほど放置していたカタログの引換期限が迫って、あわてて選んだのが俺ってわけ。
写真を見て分かってた思うが、到着したのは味気も飾り気もないシンプルな俺。安物とまでは言わないが、おしゃれなものではけしてない。
箱から出した俺を見て、うむ社長もケチったな、そう言って、放り投げられるかもしれないと、ビクビクしていたのが本心だった。
確かに俺は安物さ。そいつは認めるよ。
だが、マスターは俺を見てこう言ったね。こういうのは、実用性が有ればそれで良い、こういうので良いんだよね。
俺はその言葉に安心を覚えたよ。ただのつまらない道具として、ホント安心した。
ヒョイと俺をもちあげ、試すように俺に触れるマスター。俺は、ジワリと体温を感じたもんだ。
ありがたい、良いマスターに出会えたのかも知れん。俺はそういう気持ちになったのを覚えているよ。
それから毎日、色々な場面を見てきたな。会社勤めのマスターだからな、仕事の時間が多かったと思う。
会議が押しに押して、アポ先へ向かう移動時間が減っきて、ハラハラしたり。入札の結果待ちの時、取れるか取れないかとドキドキと時を待っていたり。出張先に向かった際に、路線バスが定刻通りに来なくてイライラしたり。
俺も一緒にハラハラ、ドキドキ、イライラしていたよ。
刻々と時間が過ぎて行く、そういう場面だけではなかったかな。プレゼンを時間通りにピタリと終えたマスターが、俺を眺めてニヤリとした時。12時ちょうどの館内放送が響いて、お昼のニュースの時間を告げた時。
決めごとのように、ピタリと俺が動きを止めるて合図する。それがおれの商売なのさ。
あんたはは時間に追われるビジネスマン。ちょうど良いコンビじゃないか?
だがこの男、よく俺を自宅に置き忘れる。こやつは身の回りの小物を置き忘れることにかけては天才なのだ。俺を持って出かけたとしても、色んなところに置いてぼりにするしなぁ。
昼食を取っていたラーメン屋のカウンター。片づけをしていた資料室のキャビネの中。一番多いのが、PCに向かっているマスターのデスクの上。
その都度、回収しているだろ? と言ってもな。ニ三日ほど、俺の所在が分からなくなったことがあるだろ。
それが、何回あるか覚えているか? すでに前科8犯だ。優しい人達が届けたり教えてくれなかったら。俺はどうなっていたか。
つい先日も、また置いてけぼりにされかけた。
あれは先週の金曜日、8時頃。俺の顔を眺めて、今日位は早く帰ろうと仕事を投げ出した俺の所有者。あんたは俺を持ち上げ、帰路につく。
地元の駅に向かう電車の中で泥のように眠る姿を眺めながら、俺は静かに時を待つ。
アナウンスが響く。『……駅、……駅、足元にご注意ください。ドアが――』
眠りこけていたマスターが脊髄反射の勢いで電車から降りる。そして、半ば眠っているようなしまりの無い顔をして、時間を確かめる。
夜の9時20分。俺の顔もあんたと同じでしまりの無いものだったかもな。
で、行きつけの小料理屋へ向かうわけさ。自宅に向かう方向にある、気心の知れたなじみの店。
いまだ寝ぼけた面のまま、暖簾をくぐると、60歳くらいの女将さんが明るい声をかけてくる。
あら、いらっしゃい、今日は早いのね。どうもと軽く頭を下げたマスターは、ドカっとカウンター席に座る。
ひとつ深いため息を吐くと、いつものと言った。そういうあんたの目は、死んだ魚とは言わんが、一週間の疲れがありありと出ていたね。
お疲れさんねぇと言う女将さんが飲み物を準備するのを見ながら、俺のマスターはおしぼりで手を拭って、その反対側で顔を拭う。
ふはぁと顔を拭き終えたマスターは、その腕にちょっとした重みを感じたのかな。俺をカチャリと外して、定位置に置いた。
俺の目方はそれほどじゃないが、リラックスしたい時に邪魔なのは認めるぞ
そして、いつものお注ぎしますねと、女将さんが瓶を差し出す。マスターは俺がいなくなり、軽くなった手にもったコップを差し出した。
女将さんが瓶を傾け、トクトクと注がれていく黄金色の液体。それがコップに満たされていくとともに、目に輝きが戻るマスター。
今日は時間に追われて、昼飯もとっていない有り様。だからこそ、いまここに至福の時が始まる。
液体と泡を満足そうに眺めたマスターは、そいつを一息に飲み干して、ぷはぁと幸せそうな吐息を漏らす。
まさに、幸せのひと時。
いい飲みっぷりねと女将さん。マスターは、いやぁ今日も頑張っちゃったよ! とかなんとか言ってやがる。
麦酒をやりながら、女将の手料理を楽しむマスター。花の金曜日に、いい頃合いに飲み始めて、落ち着いて酒と肴をやる。
それは幸せの時間。そんな時を刻むのは、俺にとっても嬉しいものだ。
だから、10時10分頃には、マスターは随分と良い笑顔になっていたし、俺も似たような顔だったさ。
だけどね、そのあとがいけない。
明日は休みだと調子に乗って呑んでたマスターに、そろそろ看板ですよと告げる女将さん。
店の壁にかかった俺の親戚を見遣り、いい時間だなと呟くマスター。
じゃぁお勘定と言って、財布の中に手を伸ばす。この男、ツケで飲むことはないし、支払いは忘れない男だ。
だがな、なにかを忘れている。思い出せ、思い出すんだ ごちそうさんして、店を出ようとするな。
あれれ、忘れものだよと女将さんが声をかけてくれなきゃ、どうなったことか。
ここが全く知らないお店だったらどうするるつもりだった。もう来ることもない出張先だったら、見捨てたんだろう。
そんなことはないって言ったとしても信じられない。非常に怪しい。
だけどね、もう一年の付き合いだから、慣れちゃったよ。
カチャリと俺を腕にしたマスターが、またやらかすとこだったと、えへらと笑い、じゃぁねと告げて家路につく。
いつもの事、いつもの家路。
もう、時間の感覚もなかったろう。フラフラと帰宅して、自室に入ったマスターは、俺を机の端に置く。背広一式を脱いだら、そのままベッドに潜りむ。
風呂を忘れてる。まぁいい、シビアな一週間だったし、酒精も入ってるからな。
すやぁ――随分と短い時間で眠りに入ったもんだ。鼾もかかずに、眠りに落ちている。
今は12時ちょうど。俺のパーツがピタリと合わさるそんな時間。
俺は眠れない性質なので、静かに、ただ静かに時間を刻むだけ。
そして朝。とても気持ちの良い天気。
すうっと太陽の光が差し込んで、とてもとても気持ちの良い朝の時間。
だが、うちのマスターが、そんな幸せな時間を楽しむ事は無い。
差し込む光が、重く瞑られた瞼の奥に入り込むと、脊髄反射の勢いでマスターは飛び起きるからだ。
仕事だ、会社だと慌てふためき、ワイシャツを探して袖に腕を通す。
時間が、時間がとわめきながら、マッハの勢いでネクタイを締める。
習慣のなせる技というか、業だろうか。だらしの無い会社員の朝とはこのよう時間なのだ。
だが、ちょっと落ち着いて欲しいと思う。だから、俺は机の上から声を掛けたんだよ。なぁ、今日は仕事の日じゃ――
そのように話しかけるが、ガン無視される。
曜日感覚が狂ってないか――そう話しかける俺を無視して、スマホやら手帳やらの七つ道具をかき集めるマスター。
そしてマスターは、俺を置いたまま、自室を出ていこうとする。
待て待て待て、立ち止まれ――
マスターが扉を閉めずに、飛び出そうとしたその瞬間。彼の体がビクッと震えてピタリと止まる。
そうだ、省みるがごとく振り返れ――
マスターが自室にクルリと立ち戻り、なにか騙されたような表情を浮かべながら、俺を手に取る。
俺の顔を良く見てみろ――
マスターはその眼を眇め俺の顔を繁々と眺める。
そうだ、思い出せ――
俺の顔には、「土」の表示。仕事はないぞ?
ふへぇと気が抜けて、そのまま椅子に座り込むマスター。
そんな彼をあきれたように眺める俺は、7時20分。
休日の時は、喜劇でいつも始まる。
ふと見つけた『ヤオヨロズ企画』が面白そうだったので、書いちゃった初作品。
投稿してから3ヶ月、文章と内容の粗が目立つ目立つ。
ということで大改稿しました。