吸葛の行方
「あ……坂本くん」
「久しぶり、野々宮さん」
一週間ぶりに会った彼女は、なんだか少しだけやつれているような気がした。
△▽△
「誰? 実紗」
「坂本くんだよ。高校の頃同じクラスだったの」
マンションの部屋の玄関で出迎えてくれた彼女といくつかの言葉を交わしていると、部屋の中にいた車椅子に乗った男が睨むようにして僕を見た。左頬に濃く残る、火傷の跡が痛々しい。
「……野々宮さん、今少し出られるかな」
「今から? 少しなら大丈夫だけど、何かあった?」
「うん、ちょっと話したいことがあって」
野々宮さんに笑いかけつつ、彼女の背後に見える男をちらりと見る。興味のなさそうな顔をしておきながら、こちらから目を離そうとしない男にこっそり笑ってしまう。独占欲が丸分かりだ。
「実紗。悪いんだけど、俺のカップ取ってくれない? 棚の上のやつ」
野々宮さんが口を開く前に、男が彼女に言葉を投げる。男の瞳には、僕への警戒が色濃く滲んでいた。
それに気づいているのかいないのか、分かった、と返事をして、彼女は申し訳なさそうな表情で僕に向き直った。
「ごめんね、少しだけ待っててもらっても良い?」
「ああ、うん。ゆっくりで良いよ」
ぱたぱたと彼の元へ走っていく彼女の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、ポケットに隠しているものをキツく握り締めた。
△▽△
「彼の部屋で同棲してるんだってね。大変じゃない?」
彼女とマンション近くの適当なカフェに入り、四人がけの席にふたりで向かい合って腰掛けた。
ブラックをひと口飲んでから彼女にそう問いかけると、野々宮さんはゆったりとした動作でカップを置いた。アッサムとレモンがふわりと香る。そういえば彼女は高校時代からレモンティーが好きだった。
「大変だけど……苦じゃないよ。だって彼があんな風になってしまったのは私のせいだから」
彼女は後悔を滲ませた瞳で苦く笑みを唇に乗せた。その様子に、酷く胸が苦しくなる。
――1ヶ月前。
彼女の住んでいたアパートが火事になった。原因は放火だと言われているようだが、不運にも体調不良の為に自室で寝ていた彼女はそれに巻き込まれたのだ。
催眠の副作用がある薬を飲んで寝ていた彼女は火事に気づくのが遅れ、逃げ遅れてしまった。
そんな彼女を救うために炎の中に飛び込み、結果としてあの男は足の自由を失ったのだ。そして、顔には醜い火傷の跡が残ってしまった。
それが原因で彼は家族からも友人たちからも敬遠されていると聞く。
野々宮さんが彼に対して責任を感じるのは分かる。現に彼女は彼のために彼の部屋に住み、甲斐甲斐しく彼の世話をしている。
それが命を救ってくれた彼への恩返しであり、彼女にとっての通すべき筋なのだ。
けれど――
「君がそこまで責任を負う必要はないよ」
結婚しているのならまだしも、野々宮さんとあの男は所詮他人だ。いくら交際関係にあって、彼に命を救ってもらったとは言え、その恩義が彼女にとって一生の重荷になって良い筈はない。
「君が望むなら、僕は君をあの男から解放してあげられる」
ポケットに仕舞い込んだ、僕の狂気。君が望んでくれるなら、僕は喜んで十字架を背負うよ。
高校の頃からずっと想っていた。真っ直ぐで優しくて、花のように微笑う君を、僕はずっと好きだった。だから。
君が心から笑ってくれるなら、君を縛り付けているあの男を、優しい君の代わりに殺してあげる。
「……、」
ふたりの間を、秒針の音だけが流れる。
先に口を開いたのは、彼女だった。ふっと息を吐いて、蕾が花開くようにゆるやかに微笑む。
「……ありがとう。そこまで私のことを思ってくれて」
だけど、と彼女は静かに続けた。
「私はずっとあの人の傍にいるわ」
高校の頃から変わらない真っ直ぐな瞳に、迷いの色はなかった。
「どうして……」
予想していなかった返答に声が掠れる。彼女が優しいことは分かっていた。けれど1ヶ月もずっとあの男の世話を焼いて、きっともう限界だと思っていたのに。
「嫌にならないの? このままだと、君は生涯あの男に縛られる」
どうして、どうしてどうしてどうして。
僕はこれだけ君のことを想っているのに。そんな僕より、君を罪の意識で縛り付けることしか出来ない男を選ぶ理由がどこにある?
「嫌になるわけがないわ。だって――」
彼女の唇から滑り出た言葉に、僕は耳を疑った。
だって――
――こうなるように仕組んだのは、私なんだもの。
彼女は笑っていた。タレ目がちの瞳をゆるやかに細めて、心底愉しそうに笑っていた。
それがあまりに狂気染みていて、嫌でも分かってしまった。
――嗚呼、すべてが彼女の策略だったのだ。
火事に巻き込まれた彼女を彼が助けたことも、それによって彼が顔に火傷を負い、挙げ句足の自由を失ったことも。そして、それが原因で彼が周囲から孤立したことも。すべて彼女が仕組んでいた。
彼が部屋にくる約束の時間の直前に、彼女は自分で火をつけた。もちろん、警察に疑われないよう外部犯の放火を装って。
彼女の目論み通りに彼は彼女を助けに入り、そして彼女の望んだ通りに怪我を負った。
彼の両親は彼の怪我が生涯治らないことを知り、「たかが女ひとりのために何てことを」と嘆いた。彼の友人たちにも辛辣な言葉を重ねて手を回し、彼には彼女しか頼れる者がいなくなったと。
彼女は酷く愉しそうに語った。
「素晴らしいと思わない? あの人が頼れるのは私しかいないのよ。この広い世界で、私だけ。あの人の怪我が治らない限り、あの人は私を求め続ける。ああ、なんて素敵なのかしら!」
――頬を紅潮させ、うっとりと潤んだ瞳で哄笑するこのひとは誰だろう。
今僕の目の前にいる彼女は、僕の知っている野々宮 実紗ではなかった。
――助けてあげたいなんて、所詮は僕の独り善がりだったのだ。
僕が狂気を隠して生きてきたように、彼女もまた同じものを背負っていた。愛するひとを手に入れるためならば手段は選ばない、酷く歪んだ愛し方。
僕が何も言えないことを悟ったのか、彼女は落ち着いたようにふふ、と薄く笑った。
「そろそろ帰るね。あの人が私を待っているから」
紅茶を飲みきり、彼女はゆっくりと席を立った。伝票を取ろうとした彼女を止めると、彼女はありがとう、と笑って僕に背を向け店から出ていった。
きっと今から、彼女は彼の為に夕飯を作り、彼の為に部屋の掃除をするのだ。それは彼女の望んだ彼と彼女だけの世界であり、誰であろうとその邪魔をすることは出来ない。
何も知らない周りの人間は、彼女は酷く献身的だと言うのだろう。傷を負った彼氏に健気に尽くす、とても良く出来た彼女だと。
そしてあの男は、彼女が自身を陥れたことを知らずに、その愛情を享受して生きていく。
「はは……笑わせてくれる」
滑稽なのは僕か、それとも彼女に魅入られたあの男か。
静かなカフェの窓際で、吸葛の花が笑っていた。
【Fin】