6
粘つくような視線が私の全身を這っている。それは不快感を呼び起こすものではあるが、何処かその視線には焼けるような明確な殺意など一切なく、それとは真逆の憐れみを込めた皮肉な色が込められているように感じる。
戦乙女として数々の修羅場を潜ってきた私には、それ相応の鋭敏な感覚力を有している。僅かな空気の動きでさえも、私にはまるで隣にその神が立っているかの如く理解出来るのだ。
さて誰がそのような視線を私に向けるというのか。余りにも無遠慮な視線に僅かでも視線を返す事なく、ただただその視線を綺麗に受け流す。そうする事によって相手の意図を探るのだ。何が目的なのか知らぬが、放置する事も出来無い。
けれどもふいに、視線の主が離れていく。さっとそちらに視線を向ければ見た所若い神だが、後姿からではどのような神―――悪神なのか、はたまた中立の神なのか―――であるのかは分からない。けれどもこの場に行き交う悪神とは別種の、何処か洗練された空気を持つその神は、直ぐに視界の端から消えて行った。
ああ気持ち悪いものだ、と鳥肌の立った腕を軽く擦る。
「何だったんだ。というより、何が目的だったんだ?」
眉間に皺が寄るのも構わず渋面を作る。〝下〟でかつてこのような視線を向けられた事等一度として有りはしない。流そうと思えばただ日常の一幕として流せる出来事であるというのに、胸が騒ぐ。
もう一度、視線を向けていた神が消えて行った方向を見つめ、次いで周囲を見遣る。変わった所など有りはしない。先程と同じ喧騒が続くのみ。
そうだというのに私の中ではこれが『何か』の始まりのようにも思えてならず、早々に退散する事にしようと決めた。
けれども私は結局、その『何か』によって渦中の中心へと叩き落とされてしまうのだ。
この時にこれから起こる出来事を察していたら、何かが変わっていたのだろうか? いや、きっと変わらなかっただろう。何故ならばこれが、最初の原点でもあるのだから。
*
―――暫くした後、アクラとシュウ、ラキが戻って来た。
沢山の買い物袋達はすべて腰に下げた皮袋の中に入っているのだろう。天上世界では一般的に、このような袋を常用している。皮袋の中に広がる亜空間はアクラの屋敷が丸ごと入る程度の収納力を有し、時を止める効果がある為、例えば新鮮な野菜等は買った当初のフレッシュさを保ったまま亜空間に収納されているのだ。
便利な道具であると同時に、それは欠かす事の出来ない必需品でもある。特にそれは、身の危険を常にその身に纏う悪神であればなおのこと。
「買いたい物は買えたのか?」
「うん! もういーっぱい買っちゃったよっ」
「イヴァルにもお土産があるから、後で渡すねー」
明るくはきはきとしたその声に癒される。どうやら久しぶりの買い物は楽しめたらしい。
「それは何よりだ。良い買い物が出来たようだな」
「もっちろん!」
満面の笑みを浮かべるシュウとラキの頭を撫で、その後ろで静かに立つアクラを見る。しかし、その視線が交わる事は無い。だから確かめる意味で呼び掛ける。
「……アクラ?」
ふと空を見上げたアクラが僅かに眉を寄せる。その視線を辿って空を見上げるも、特に変わった様子は無い。けれども訝し気に張り詰めた緊張感を纏うアクラの様子から見て、何もないとは言い切れない部分がある。
どうした、という声は後方で突如として上がった轟音に掻き消された。
「なんだ?」
白い煙と共に、物が崩去るかのようなバキバキという音が上がり、その瞬間、周囲は動乱の坩堝と化した。逃げ回る悪神達は出入り口となっている場所へと殺到する。一体、何事が起ったのか。
「逃げろー! 衛兵達だぁぁああ!」
「二十八部衆が攻めてきたわっ。逃げてぇえ!」
口々に逃げろ、こっちは駄目だ。
いいや、あっちの出口ならまだ大丈夫だと、様々な声が騒々しさに拍車を掛ける。
兎にも角にも尋常ではないその様に周囲に視線を走らせるが、得物を片手に応戦しようとする悪神は極僅かだった。
ここぞという時に役に立たない神など必要無い。無いのだが、それにしても悪神がこれ程臆病な神々の集まりであった事に些か落胆する。
悪神達が力を合わせて立ち向かえばそこらの有象無象の神々などに敗北する事など無いだろうに。
「アクラ、シュウ、ラキ、私の後ろに居ろ」
ぐっと力を込めて虚空を掴むと、流麗な長剣が姿を現し、私の手の中に納まった。ずっしりと重いその長剣は、私が長年鍛え上げた愛剣だった。飾り気が少なく、常に磨き抜かれたその長剣は、神を殺す事とて容易な神器の一つでもある。アクラがその刀身に視線を走らせ、注意するように声を上げた。
「イヴァル」
「分かっている。シュウ、ラキ、もう少し下がって居ろ」
剣の長さから言えば、背後に居るアクラやシュウ、ラキに当たってしまう可能性もある。故に刀身が届かぬ程度に下がる様にと指示を出す。もしも巻き込まれてしまっては拙い。念の為にと三人を結界で囲い、物理攻撃や魔法による攻撃を防ぐ機能を結界に付与する。後はこのままじっとしておけば問題は無い。だが、いつまでそれが持つものか。
僅かに振り返ると、妙に落ち着いたアクラとシュウ、ラキが警戒感を滲ませて私の前方へと視線を向けていた。轟音は、徐々にこちらに近付いている。それに伴ってか、争うような声も徐々にこちらに近付いて来ている。
待ちきれないとばかりに敵の姿が現れるのを待つ事無く敵の姿を待つ事無く敵の居るであろう方向へと駆けていく悪神の姿が幾人か見受けられた。恐らくは戦闘狂なのだろうその顔には、溢れ出す愉悦の色に染まっていた。
私がするべき事は、アクラやシュウ、ラキを守る事のみ。それ以上の事は他の神々に任せてしまえば良い。私は、アクラの戦乙女なのだから。
「……来た」
誰ともなく呟いた瞬間、目の前に影が現れる。フードを被ったその影は、白銀に煌く長刀を振りかぶった。ガキンという鈍い音と共にそれを受け止め、渾身の力で弾き返す。ざっと後ろに飛び退いて距離を取ったその影は、直ぐに再びこちらに攻勢をかけて来る。相当な手練れで在る事は、長刀を受け止めた瞬間に分かっていたものの、決定的な一打を与えるには隙というものが存在せず、僅かに唇を歪めた。
「はぁっ!」
「……くぅっ」
基本的に私は大きく動く事が出来ない。背後にはアクラ達が控えているのだ。幾ら結界を敷いているとはいえ、安全とは言い難い。早くここを抜けられれば良いが、これだけの事を起こしているのだ。流石に通してはくれないだろう。
極力足を動かさず、両足を軸にして相手の攻撃を防ぎながら持てる力を存分に振るう。
間合いを詰められた瞬間に左足を軸に右足で横腹を蹴り上げるが、固い筋肉によって邪魔をされ、上手く蹴りが入ったとは言いにくかった。
「硬いな」
「―――そちら程ではない」
答えを望んでの呟きでは無かったが、目の前の影は静かにそれに応え、僅かにフードから覗く口元を吊り上げた。
「よく言うよ。まだ本気を出してはいないのだろう?」
「それはそちらも同じ事だろう。イヴァル戦乙女」
「ほう、私の名を知っているとは、やはり只者では無いらしいな。―――二十八部衆、ヘイムダル」
その名を呼んだ瞬間、周囲の喧騒が一瞬途切れ、息を飲むような音も聞こえてくる。
それもそうか。ヘイムダルは非常に有名な神であり、評議会を熱烈に支持する過激派としても知られている。つまりヘイムダルがフードで顔を隠していようとも、意味の無いことなのだ。
目の前に立つ相手――ヘイムダルは私の言葉に僅かに口角を上げるのみ。その無言が、私の予想を肯定させている。それでもこの場でフードを落とさないのは、この場にヘイムダルが居たという決定的な証拠を残さない為の方策なのだろうか。それにしても稚拙に過ぎるとは思うが、悪神達を毛嫌いしている評議会の事だ。今日起こった出来事など、どうせ握り潰してしまうのだろう。
胸糞の悪い事だ。
「その珍しい長刀は、鍛冶神に打って貰った一級品だろう? 私がそれを知らぬ筈もない」
「ああ、そうだったな。イヴァルは だ」
僅かに声を落とし、音も無くその名を紡いだヘイムダルに、今度は私が無言で口角を上げる番だった。そうだ。私とヘイムダルは決して知らぬ仲ではない。寧ろこの場に居る誰よりも近しい血筋を持っている。だが、その間には相容れぬ深い溝が横たわっている訳だが。
しかし二十八部衆という輩は大分姑息らしい。私がヘイムダルと対峙している間にも一瞬の隙を突いて左右から得物を片手に飛び込んでくる神が複数居るのだ。まあ、数で圧倒するのは常套手段だが。それにしても弱腰という他あるまい。
―――やはりここが、悪神達に心を寄せる神が作り給うた世界である事が彼等の慎重さを表しているのかもしれない。
勢いを殺さず飛び掛かって来るそれらを剣で薙ぎ払い、体術で相手の骨を粉砕する勢いで蹴り飛ばし、剣で相手の肉が薄い場所を突き転がせば、私の周囲には幾人もの虫の息となった神々が凄惨な姿で転がる地獄絵図が広がっていた。当然の如く、私の握った剣には斬った神々の血が滴り、返り血を浴びた黒い軍服には鉄臭い匂いが広がっている。
周囲に視線を走らせると、悪神達が混戦に持ち込んだのか二十八部衆達を押しているようだ。これならばそう時を待つ事なく決着が着くだろう。
不意に私の意識が僅かに緩んだ瞬間、ヘイムダルが私の脇を抜けアクラ達の前に迫っていた。
くそっと声を上げる間もなくヘイムダルを追い、結界に囲まれたアクラ達の目の前に滑り込む。先程の打ち合いよりも尚重いヘイムダルの渾身の一撃をどうにか弾き返すが、一瞬の後に頬に熱が走った。どうやら弾き返された一瞬の内に頬を突いてきたらしい。ぱっくりと開いたその傷から顎を伝い色鮮やかな血が滴り落ちて来る。
背後で何事か叫ぶ声が聞こえるけれど、それらを黙殺し滴り落ちて来る血を乱暴に拭った。
油断していた訳では決してない。
だが私は一瞬でもアクラ達を危険に晒してしまったのだ。それは戦乙女として致命的とも言えるミスだった。
「しね」
その瞬間、私は周囲への被害が大きすぎる為に封印していた力を開放した。
天上世界では攻撃魔法――便宜上そう呼んでいるだけだ――が厳しく制限されている。如何な評議会議員であっても、ある一定の条件が揃っていなければ自身の力を100%発揮する事など出来はしないのだ。しかしながら、私自身はその範疇にない。
何故なら私は、神々を守護する戦乙女なのだから。
巨大な光の柱がまるで空から降ってくるかのように至る所に出現する。これが私の力。すべてを無に帰す事の出来る魔法の如き攻撃の前兆だ。光の柱の中に居るのは、背後に居るアクラ達と同じ悪神達だ。その周囲に居る二十八部衆はその範疇に入ってはいない。
「まさか…!」
目の前に立つヘイムダルが空を見上げ、焦ったように声を上げた。成る程、ヘイムダルは私の攻撃を知っているらしい。だが、もう遅い。ここで逃げの姿勢に転じたヘイムダルをしかとその目に見定めながら、握っていた剣を落とし、虚空を掴むように天上へ手を振り上げ、勢いよく前へと手を振り下ろした。
その瞬間、幾千、幾万もの光の矢が天上から降って来た。
「なんだ、これはっ」
「引け、引けー!!」
「ぎゃあぁぁああ!」
悲鳴にも似た声が上がるものの、矢の勢いは凄まじく、直ぐにその声は轟音に掻き消えていった。
降って来る矢を躱そうにも弾いた側から次々と霰の如く降って来る。
簡易結界を作れる者はまだ良い方だ。一時的に矢を凌ぐ事も出来るのだから。
しかしその結界も直ぐに意味を成さぬものとなる。何故ならばこの光の矢は、特定の条件を付与した結界でなければ防ぐ事の出来ない物なのだ。
それは即ち、圧倒的な暴力の嵐だった。
恐らく実際に降り注ぐ矢の中に居る者にとっては、目を焼く程の閃光をその身に浴びながら、光の中に溶け込むように苦しむ間もなく死を迎えた事だろう。
「楽に死ねただけ、有難いと思って貰わなければな」
同胞の死を間近にしても、私の心が震える事など無い。既に私の手は血に塗れているのだ。この後、何十、何百の神々の血を浴びようとも同じ事。私は私の職務を全うするのみだ。
「終わりか」
光の柱が消えると同時に、天上から降ってきた矢も淡雪の如く消え去っていく。
視界が良好になった瞬間に見えたのは、赤土が露わになった無数のクレーターの如き抉れた地面と、消滅した神々の遺品ばかりが残っていた。




