3
3
「主様…!」
アクラの屋敷に帰ると、慌てた様子で侍女達がわらわらと飛び出してきた。侍女達のお仕着せたる深衣の裾がふわりと舞う。
普段から冷静沈着な侍女達らしくないその様子に訝しく思いつつ、常になく明るい声が上がる屋敷を見やる。些か緊張した面持ちながらも、別段危機的な表情を浮かべてはいない侍女達の姿を見てアクラはふっと息を吐いた。
この侍女達はアクラを前にしても怯える事も敵意を抱く事もない稀有な人材である。古くからアクラに仕えているだけあって肝が据わった侍女達ばかりの筈だが、飛び出してきた侍女達はアクラの侍女となって日が浅い者達ばかり。浅い、と言ってもそれは天上世界での話。確か百年程前に入った侍女達だったか。
「ああ、別に押し入られた訳ではないのだね」と安堵した様子で呟くアクラに同意し、私は口ごもる侍女を促した。
「客人が来ている?」
「はい。あの、童子の方々が…その、主様はおられないと申し上げたのですが、それならば屋敷で待つと仰って」
「すまなかったね。ああ、構わないよ。いつも通り歓待しておくれ。直ぐに行くよ」
「畏まりました」
侍女達がほっとした様子で屋敷の中に戻っていくのを見つめながら、アクラと私もそれに続く。
屋敷の奥から騒がしい足音と共に些かむっすりとした声が響いて来るのは、この屋敷では本当に珍しい光景だ。思わずアクラと目線を交わし、少しばかりの苦笑を持って客人の居る部屋へと入って行った。
「あー、漸くアクラが帰って来た!」
「遅いよ。遅い! もう、凄く待ったんだから!」
「すまないね、酒呑童子、茨木童子。出来れば来る時には先触れをくれるとありがたいのだけどね。私の屋敷の侍女達をあまり驚かせないでおくれ。私の侍女達は皆、繊細な子ばかりなのだから」
「アクラがそう言うならまあ…うん。りょーかいー」
気の無い返事をするのは茨木童子だ。酒呑童子は何処から引っ張り出してきたのか果実酒の瓶を片手にアクラに管を巻いている。この童子達はアクラと同じ役割を持つ幼き神だ。まあ、本当に素直で明るく優しい子達なのだが、些か羽目を外し過ぎる嫌いがあるので、何か事件が起これば――起こらなくとも――嬉々として渦中に飛び込み、余計に問題を大きくしてしまう性質を持っているのだ。
この為、幼き神ながらアクラと同じ位に警戒されている神でもある。
確か人の世に於いては、鬼或いは妖怪の類として有名であったのだったか。何にせよ、彼らは人に仇なす者として広く知られ、人の世から名を取って神格化された極僅かな神々の一人でもある。とはいえ、往々にして人の世に伝わる伝承と言うものは歴史によって捻じ曲げられ、或いは曲解されたもの。故に彼らは天上世界に於いては、まっさらで純粋な、子ども神でもあるのだ。
「そういえばアクラは一人?」
「あれー? 戦乙女は何処―?」
茨木童子がそう声を上げるのを何処か他人事のように眺めた。別段気配を消しているつもりは無かったが、どうやら彼らの視界に私は入っては居なかったらしい。
「戦乙女ならば、あちらに」
そう声を上げたアクラの視線を辿った彼らはハッとした様子で今気が付いたと言わんばかりに指を指し、「イヴァルだー!」という声と共に小さくとも重量のある体が勢いよく飛び掛かった。
よろめきながらも何とか二人の童子を受け止め、破顔する二人の背中を「元気そうだな」とぽんぽんと優しく叩くと、彼らはにこりと快活そうな笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、酒呑童子、茨木童子」
「うん、ひさしぶり!イヴァル!」
快活そうな声が二つ重なった。私の腹部に顔を埋めている二人の童子は、本当によく似た容姿をしている。
酒呑童子が紫色の髪を耳下で括り肩から長い髪を垂らした下げ角髪にし、淡い萌葱色の水干を纏っている。
茨木童子は赤色の髪を肩に掛からない程度に耳元で丸く括った上げ角髪にし、濃袴に白を基調とする汗衫を纏っている。
二人に共通しているのは、瞳の色だろうか。透き通るように美しい琥珀色をした二人の瞳は、いつも楽しそうに輝いている。
童子達の衣装から分かるように、酒呑童子は男児であり、茨木童子が女児である。二人共、目を見張る程の美貌を有し、酒呑童子が艶めいた妖しい色気を醸し出す男児ならば、茨木童子は蠱惑的な魅力を持つ女児である。
「イヴァルは本当に変わらないねー」
「そなたら二人も変わらないな。元気そうで安堵したよ」
「うんっ。ねえねえイヴァル、遊ぼう! いいよね、アクラ?」
「おい、何故そこでアクラに聞く?」
そう突っ込んだものの、アクラも二人も笑って流すばかりで、「勿論良いですよ」と答えるアクラの姿にも何か腑に落ちないものを感じながら、結局私はアクラと童子達に付き合って夕方から夜も更ける時刻まで二人に付き合い、あらゆる小道具を用いて遊び倒した。
ついでとばかりに二人の着せ替え人形にされたのも、まあ良いとしよう。侍女達もアクラも楽しそうにしていたし、何よりアクラ自身が二人に振り回された振りをして上手く二人の手綱を握っていたのだから、最小限の被害だけで済んだ。
「満足したか?」
「うーん、まだまだ! 次はこれね、イヴァル!」
「そうそう。イヴァルー早くはやくー」
「ああ、分かった分かった。少し待ってくれないか?」
その頃にはほとほと疲れ果てて体力も気力もごっそり失っていたが、こうして過ごすのもたまにならば悪くない。
そう笑うアクラに私も同意した。
遊び疲れて眠ってしまった二人の童子はそのままアクラの屋敷に泊まるらしく、侍女達が超特急で客室の用意を行っていた。二人の寝顔を見つめながら、私に子が居たならばこんな気持ちになるのだろうかと、何とも不可思議な母性というものを感じながら、私も泊まれば良いと引き留めるアクラを振り切って、私は屋敷を後にした。
*
「アクラ、イヴァルを帰しちゃって良かったの?」
私を下から覗き込むように見つめる酒呑童子の頭を撫でた。
「良いのですよ、今は」
「ふうん、今は、なんだ」
「ええ」
ふっと妖しげな笑みを浮かべる酒呑童子は、「イヴァルは本当に鈍感だもんねー」と呟く茨木童子に抱き着いた。
「可哀想なイヴァル」
そう言う酒呑童子と茨木童子の表情には、イヴァルを哀れむような表情は無く、寧ろ楽し気に笑みを浮かべてさえいる。恐らくこの表情をイヴァルが見たならばとても驚く事だろう。幼き神である二人がこれ程までに悪神らしい笑みを浮かべる事が出来たのか、と。
まあイヴァルにそれを知らせるつもりなど無いけれど。
「酒呑童子、茨木童子、先の件、どうかご内密にお願いしますよ」
「もっちろん! イヴァルには平和な所に居て欲しいもんねー」
「そうそう。イヴァルはあれで生真面目だからねー」
「ええ。さて、そろそろ侍女達が食事を運んでくる事でしょう。移動しましょうか」
「うんっ」
元気よく返事をする二人を伴って、私は居間に向かった。
*
私の屋敷はアクラが住む屋敷から大分離れた場所にある。そこは四方を小川に囲まれた区画で、住んでいる神々の殆どが私と同じ系譜の神々である。即ち、人の世で言う親戚同士で固まって集落を作っているようなものだろうか。
屋敷のドアを開けた瞬間、屋敷の管理を任せている年若い青年が綺麗に腰を折って私を出迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ああ、今帰った。今日も何事も無かったか?」
「はい。異常はございません」
「それは良かった」
自然な流れで私の外套を奪った青年は、ゆったりとした足取りで私の半歩後ろに控える。
青年の名を、ルーベストといい、天上世界では中々見る事の無い、ブラックスーツに白いシャツ、ブラックタイを隙なく着装している。甘い顔立ちのルーベストは明るい薄紅の髪を右肩で纏め、自然な形で胸元に流している。
ルーベストの外見は一見すれば女性的な容姿であるけれど、常に浮かべている冷ややかな眼差しと表情筋が死んでいるのではと勘繰る程にぴくりとも表情が動かないせいで、誰をも寄せ付けない硬質な空気を纏っている。
一言で言えばルーベストはクールな神なのだ。
「それで、他には何かあったか?」
「はい。出来ましたらご報告は、お食事の後でも宜しいでしょうか?」
「勿論だ」
ルーベストは私の秘書――のようなものである。この為、私が仕事で出ている間、天上世界における様々な情報を収集して貰っているのだ。ルーベストが作った食事を簡単に済ませた後、静かに控えたルーベストを促した。
「それで、何があった?」
「はい。実は最近、二十八部衆が暗躍しているようで、少し騒がしくなっているようです」
「二十八部衆が、か。あれらが動くという事は、何か起きるかもしれんな」
「ええ。まだ深く掘り下げた訳ではありませんが、恐らくは近日中に事を起こすつもりなのでしょう」
「そうだな。あれらの使命は、悪神達の淘汰だからな」
二十八部衆というのは、評議会議員の神々を至上とする自称天上世界の守護者であり、その名の通り天上世界で蛇蝎の如く嫌われ、憎悪されている悪神達を弑する事を目的として行動している過激な思想を持った神々の集団である。
表向きは評議会の親衛隊ではあるが、その実、評議会が是と決めた神々を秘密裏に処理する事が二十八部衆の仕事であるのだ。
「誰も彼も、正義とやらがお好みらしい」
「ええ、馬鹿々々しい事この上ありませんが、彼等は盲目に自分達こそが善だと信じていらっしゃる。愚かしい」
「その通りだな、ルーベスト。だが、情報を掴んでくれて感謝する。こちらも注意しておこう」
「はい」
二十八部衆と戦乙女である私とではその立場も役割も違う。彼等にとっては悪神を守護する戦乙女もある意味で排除対象者でもあるのだが、良くも悪くも二十八部衆は評議会の人形だ。故に評議会が是としない限りは、私の身の安全は保障されている。
その瞬間ふと、先日流してしまった情報が私の脳裏を過った。
「そういえば先月にも、悪神が消えたのだったか」
「はい」
「やはり二十八部衆が関連しているのか」
「それは分かりかねます」
「そうだな」
ルーベストの言葉に頷きながらも、恐らくこの憶測は外れては居ないだろう。何せその悪神が消えた現場には、大量の血痕と無残にも引き裂かれた衣服が残されていたのだから。きな臭い。何故このタイミングを狙ったのだろうか。
思考の海に沈みかけた時、ルーベストの声にはっと顔を上げた。
「如何致しますか?」
「これ以上は深入りする必要は無い。ルーベストの安全が第一だからな。ルーベストは大切な預りものだからな」
含んだその言葉を無表情に聞いたルーベストは丁寧に腰を折って答えた。
「承知致しました」
*
翌朝、私がアクラの屋敷を訪ねると、出てきたのは昨晩屋敷に泊まった童子達だった。昨日とは違い、二人共、今日は少し趣の違う簡略化された衣装に身を包んでいる。
恐らくは屋敷の侍女達が用意したものなのだろう。少しばかり丈が合わないのか、軽く裾上げされていた。それでも、そうと分からぬ程度には二人の体型に合わせてぴたりと衣装が嵌まっていて何とも言い難い清冽な空気を纏っている。それはまるで、清浄さこそを重んじる無垢な神々の如き存在感である。
奇抜な衣装という訳では決してない。伝統的な衣装であるにも関わらず、まるで二人の為だけにこの衣装を誂えたかのような、衣装が似合い過ぎている二人を見ると、容姿が整っているという事はこれ程までにより良い副産物をもたらすのかと、思わず感心する。
「似合うな」
「うふふ、ありがとー」
恐らくは侍女達もそう思ったのだろう。完璧に衣装を着こなしている二人は、アクラが身に付けず長年放置し続けている銀細工を用いた繊細な装飾品をさらりと身に着けていた。それらもまた、二人の華やかな容姿に似合う特別なものだ。
対する私自身は、今日も今日とて飾り気の無い黒軍服を纏っている。昨日と違うのは、正装用の軍帽を手に持っているという所か。緊急を要する呼び出しを受ける際、やはり軍帽が無いというのは些か礼節に欠いているのではあるまいか。そんな思いから、面倒な事ではあるが、今日から職務に従事する際には軍帽を持参する事に決めていた。
脇に持った軍帽が嵩張って仕方ないが、童子達の後ろからひょっこりと姿を見せた侍女がわざわざ応接間に置きに行ってくれたお陰で少しばかり身軽になる。
「ありがとう、侍女殿。手間を掛けさせてすまない。」
「いいえ、お気になさらず。どうぞ本日も主様をどうぞよろしくお願い致します」
「ああ、承知している」
この屋敷の侍女達は、私にさえも気を遣ってくれる大変に優しい者達ばかりだ。あらゆる意味で孤独であることを押し付けられているアクラにとっては、慕ってくれる侍女達の存在はとても心擽るものだろう。侍女達は決してアクラを恐れず、けれども適切な距離感で仕えてくれているのだから。主に二心を抱かぬ忠実な侍女達の存在はこの天上世界に於いても貴重な存在である。侍女達がアクラに向けている、温かな真心。それはアクラにとって宝でもあるのだろう。
然し、アクラの姿が見えない。童子達にそう問えば、アクラは未だ部屋から出ては居ないらしく、童子達に引っ張られてアクラを起こしに行く事となったのは、自然な流れでもあるだろう。
然しながら男神であるアクラの寝所に女神たる私と童子達が訪ねるという事は些か外聞が悪いのではあるまいか。
「イヴァルは気にしいだねー。大丈夫だよ、皆僕達な事なんて気にして無いんだから」
「酒呑童子、それは些か言い過ぎでは無いか?」
「だって事実だもん、仕方ないよ」
「茨木童子…」
二人の朗らかさにはいつも救われてばかり居るが、こういった時でさえ割り切った様子で、別段何の事は無いと言外に伝えられると、どうしても胸が痛む。
童子達もアクラと同じく決して悪い行いをした訳でも無く、その他の神々に危害を加えた事も一度として無いというのに、あまりにも理不尽な現実は痛ましくさえある。
当人達は既にそれを当然の事として受入れているものの、どうにかその現実を変えたいと願うのは、私が単に彼らの現状を側で見続けているせいなのか、それとも私自身に利己的な救済願望があるだけなのか。
「そんなに考え込まなくても良いんだよーイヴァル。本当、イヴァルは優しすぎて、戦乙女向きじゃ無いよね」
「酒呑童子…」
「もう忘れちゃったの?僕の事はシュウで良いって」
「そうそう、そんな情けない顔していたら私達がアクラに怒られちゃうよ。あっ、私の事もちゃんとラキって呼んでね。呼ばなかったらもう返事しないから!」
そうそう、と頷きつつ酒呑童子――シュウとラキが笑った。ああ、私のせいで二人を気遣わせてしまった。あまりの申し訳なさに自身でも驚くほど気落ちするのが分かる。けれども二人はその様を見て、更におどけたように言うのだ。
「イヴァルは真面目だもんねー。流石、品行方正な戦乙女の中の戦乙女!」
「すまない、二人共」
「いいよー別に。さあっ、アクラを起こしに行こう!早くしないとアクラが起きちゃうよっ」
早く、早くと急かす二人を宥めつつ、私はこの現状を解決する手立てを一刻も早く見つけ出す事を改めて決意した。それは最早私の義務でもある。彼らを守護し警護する戦乙女たる私の義務。
ふと、鼻腔の奥に広がった花の香りと共に過去の出来事が脳裏を過る。それは過去への誘いであり、幻影の香り。その瞬間、私の脳裏は過去の出来事へと飛んでいた。