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いとし、いとしというこころ

作者: 新良広那奈

「ねぇ、桜井先生」


 隣で参考書に目を通していた家庭教師が、ん、と不思議そうにこちらを向く。


「先生、教えてください」


「ん、どこの問題で躓いたの?」


 よいしょ、とこちらに身を寄せる先生から、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。男物の香水だろうか。

 切れ長の双眸が、私の手元を見つめる。


「いえ、先生に聞きたいのは、こっちのことじゃなくて」


「? 何?」


 さっきまでゆっくりと吸い込んでいた息を、こほん、と思い切り吐き出す。

 そっと顔をあげれば、すごく綺麗な顔が目の前にあった。

 ええい、怖気づくな私。


「恋とは、どういうものですか」


「部首はしたごころ、こころとか、色々と言い方はあるな。総画数は10画。英語ではlove」


 想像を斜め上に飛び越えていく回答に、返す言葉もない。

 まさか、そうくるとは思ってもみなかった。

 容色に優れて、頭もよくて、人当たりもいい大学生のお兄さん。

 きっと、大学の中でも、女性からの注目の的になっているんだろうな、と思える人。

 恋愛経験だって、きっとすっごく豊富に違いない。

 そう思えてならない人なのに。

 それなのにどうしてそんな人が、言うに事欠いて、「恋」を辞書みたいに解説しているんだろう。


 違いますよ。

 そういうんじゃなくて。

 恋愛って、本当に素敵なものなのか。

 恋を知り尽くしていそうな貴方に、教えて欲しいと思っているのに。


「あの、そういうことじゃなくてですね」


「旧字体だと、ちょっと変わった字になるんだ」


 あ、まだその話が続くのか。

 訂正を入れようかとも思ったけれど、何だか先生が楽しそうに話し始めたので、まぁいいか、と彼の話を聞くことにした。


 桜井先生は、ちょっと口を開きかけたのにすっと結び直して、代わりに、胸ポケットに入っているメモ帳を取り出してみせた。

 そしてそこを、さらさらっと、持っていた赤ペンで撫でた。一画、一画と、丁寧に字を載せていく。

『戀』

 真っ直ぐな灰色の線と線との間に、じんわりと滲んだ赤いインク。見慣れない文字に、目が引き寄せられる。


「ちょっと書きにくそうな字ですね」


「確かに、現代ではここまで書き込みの細かい字って中々ないかもな」


 これが、恋という字の昔の字なのか。

 まじまじと先生の手元を見つめていると、すっと彼の指がメモ帳の『戀』の字をなぞっていく。


「いとし、いとしというこころ」


「?」


「ほら、糸が2回入っていて、言う、と心、とが入ってるだろ?」


 もう一度、先生の指が赤い文字をなぞって、やっと気付かされた。


「あっ」


 私が声を上げるのを見て満足そうに微笑むと、先生は更に続けた。


「だから、恋とは俗に、“いとし、いとしというこころ”なんて言われてるんだよ」


 愛し、愛しという心。それが「恋」だという。

 昔の恋という字は、随分ロマンチックなものだったんだ。


 色々のらりくらりとはぐらかしているのか、それとも天然なのか、と疑惑をもちそうだったけれど、結果的に彼はきちんと、私の質問に答えてくれた。

 心が愛しいと叫ぶ。それが恋なのか。

 なるほどなぁ。


「なるほど、勉強になりました」


 ぺこりとお辞儀を一つして、さっきまで見詰め続けていた問題集に向き直る。

 よし、じゃあ勉強に戻るか。

 と、気合いを入れたのも束の間、くいっと先生に服の袖を引っ張られて、勉強モードがスイッチオフになる。

 勉強モードの気分が一瞬でおしまいになって、あれっと思って顔を上げると、先生がふわっと笑った。


「字だけでも結構、恋ってどんなことか、分かっただろ?」


 心なしか、嬉しそう。


「そうですね。奥深いですね、字って」


 思ってもみなかったアプローチだったけど、恋についての理解が深まった気がする。これはこれで、結果オーライかな。

 そんな風にほくほく思っていたら、隣の椅子がぎしっと音を立てて私の方に寄ってきた。


 桜井先生が家庭教師に来てくれる時だけ、隣の部屋から兄の椅子を借りてきて先生の椅子にしているのだけど、これがまた、ちょっと動く度にぎしぎし鳴るんだよね。

 ぎし、ぎし。

 ちょっとずつ先生との距離が縮まって、彼の香りがぐっと強くなる。

 甘いけど、すっとする、不思議な香り。


「それでももし、もっと知りたいと思うなら。その時は――」


 いつもは離れて見上げる彼の顔が、びっくりする位に近くにあった。

 どうしてかな。

 あ、先生がすぐ側で目線を合わせてくれたからだ。


「俺が君に、教えてあげる」


 私の掌を下から掬い上げるようにして、先生の掌が受け止めた。

 そのまま持ち上げられた手の甲に、唇が触れたのはほんの一瞬だった。


 あれ、何かがおかしいような。

 特に言葉自体は、深い意味はなさそうなのに。

 なのに、先生の口付けを受けた手の甲が、その言葉に意味を与える。

 教えるっていうのは、今度こそ、辞書みたいなことじゃないんだ。

 もっと、ずっと大人っぽくて、艶やかな何かを、実地で教えてくれるってことなんだ。


 私なんかよりもずっと年上のお兄さんのその一言にどぎまぎしてしまって、その後の時間中、ずーっと俯きっぱなしで授業を聞き流してしまった。

 先生は、そんな私に困ったり焦ったりすることもなかった。

 終始いつも通りの、人当たりのよく、穏やかなお兄さんぶりを徹底して貫いていた。

 あれ、さっきの口付けは気のせいだったかな?

 そんな風に思えてしまう位に、彼はいつも通りだった。


 授業がおしまいになって、部屋を出る。

 先導する私の指先に、何かが触れた。

 先生の指先は、確かめるみたいに私の爪の辺りをなでて、すっと指に絡んできた。

 こんな風に彼にされたのは初めてだ。ついでに言うなら、男の人にこんなことをされたのも初めて。


 ええと、こういう時はどうしたらいいのだろう。

 母と授業が終わったことを話し合う予定なのだから、すぐにでも目の前の階段を下りなくちゃいけない。

 だけど、指先が熱くて、段々自分の頬まで熱くなってきて、こんなままじゃ母に顔を合わせづらい。


 困った私は、その場で立ち止まった。

 後ろの先生は、ぎゅうと指先を強く握って、指と指との間に自分の指を挟みこんでくる。

 恋人でもない男の人から恋人つなぎをされている私。

 ええと、ええと。


「行かないのか?」


「先生と手をつないだまま、行けると思いますか……?」


「それもそうだな」


 あっさりと言い分が通り、するっと彼の指が離れていく。

 ほっとして改めて前を向き直ると、ぎゅうと胸の下に長い腕が巻きついていた。


「……あの、先生」


「何?」


「抱きしめられたら、前に進めないんですが」


「あと少しだけ、このままでもいいかな」


 唐突の桜井先生のキャラ変化についていけない私は、困り果てて、とりあえずそのままその場で棒立ちになることにした。

 ふっと頭上に温かな何かが触れた感じがした。

 多分、きっと、そういうことなんだろう。


(どうやら、何気ない一言が引鉄を引いてしまったらしい)

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