閑話 嫁の朝帰り
小話その2です。
レオノーラが机から顔を上げると、カーテンの向こう側の空が白々と明るくなりつつあった。
慌てて学院を飛び出すと、裏門に馬車が停まっていて御者が腕を組んだまま眠っているのが目に入る。
学院とバルツァー家は目と鼻の先だ。作業に夢中になって時間を忘れてしまうから、馬車での迎えはいらないと彼女は何度か主張したのだが、クロイツは首を縦には振らなかった。
馬と御者を待たせるのも申し訳ない(レオノーラにも一応そういう感情はあるのだ)ので、通常は帰る時間を打ち合わせてなるべく待たせ過ぎないように乗り込むことにしていた。
しかし一旦のめり込んでしまうと、どうも俗世の事は頭からスッポリ抜け落ちてしまうらしくアッと言う間にこの調子だ。
レオノーラが御者を揺り動かし謝罪を述べると、逆に彼は慌てた。そう言う時間超過も含めて特別手当を支給されているとの事。夫の抜かりなさにレオノーラは感心したのだった。
さて久し振りに朝帰りをしたレオノーラは、自分が作業着のままである事に気が付いて思案した。表門から入るにはあまりにみすぼらしい格好である。くどい様だがレオノーラにも一応そういう判断力は少しなりとも備わっているのだ。
裏門に馬車を付けて貰い、勝手口を潜った。
既に使用人達の朝は始まっていて、作業を促す料理長の声や鍋が何かと当たる音、かまどに薪をくべようと小走りする足音などが聞こえて来た。
レオノーラは頭の中で先日描き起こした屋敷の平面図を思い起こし、狭い作業用通路を歩き始めた。
ドンッ。
すると角を曲がったところで、若い使用人とぶつかってしまう。
彼が両手に抱えた袋からイモがゴロゴロと転がり落ちた。
「す、すいませんっ」
「あー……やっちゃった。こちらこそゴメン」
彼は両手に二つ袋を抱えていて、重さにぐらつく体を曲げてそれらを床に下ろし転がったイモを拾い始めた。レオノーラも慌ててそれに倣う。
黙々と全てを拾い上げると、彼は再びその二つの袋を持ち上げようとした。
しかしかなり無理がある量だ。
俊敏さには欠けるレオノーラだが、日々の園芸作業と仕事で行うフィールドワークの所為で力には自信があった。
「一つお持ちしますよ」
「え、そう?……悪いね、すぐソコの厨房まででいいから」
彼は安堵したように頷いた。持ち上げる時もフラフラしていたので、やはり身に余っていたのだろうとレオノーラは思った。
「君、新人さん?見た事ない顔だね」
「そうですね、こちらのお屋敷には最近お世話になり始めたところです」
「若く見えるけど……いくつ?」
「十六です」
「じゃ、もう成人してるんだ」
「ええ」
そんな他愛無い話をにこやかに交わしながら歩いていると、厨房に入る入口の前で見知った人物に行き合った。
「え!……きゃあぁ!わ、若奥さまっ……!」
侍女頭のビルギットが悲鳴を上げた。
当然である。
輿入れしたばかりのバルツァー家次期当主夫人が、くたびれた作業着を着てイモのたくさん入った袋を抱えているのだ。
「へ?!おおお……奥さまぁ?!」
隣で仲良く話していた若者も仰天した。
「は、早く!なにをしているのですか、そんなもの若奥様に持たせてはいけませんっ!」
「ははは……はいいっ、それっ奥様、お返しくださいっ」
「あ、はい」
使用人たちに顔が知られてない事、そしてレオノーラが侯爵夫人として少々(?)常識知らずだった事が見事に噛み合わさって起こった、朝の珍事であった。
その後、身支度を整えながら、レオノーラはビルギットからコンコンと説教を受けた。
以来ビルギットは遠慮せずにズケズケと物を言うようになったとか。
ビルギットとレオノーラの距離が縮まる切っ掛けとなった出来事である。
『ふさわしい条件2』で触れられた、早朝に勝手口から作業着で侵入し、レオノーラが使用人の一人と間違われたというエピソードの顛末でした。
お読みいただき、有難うございました。