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連作短編・ゆっくり更新を予定しております。


事前に前作『変わり者の従妹と婚約する事になりました』本編をお読みいただく事をお勧めします。

レオノーラがバルツァー侯爵家に嫁いで二ヵ月が経過した。


一般的な貴族令嬢であれば、そろそろ屋敷内の雑事を把握し危なげながらも当主夫人の手足となって全体を把握し始め、領地経営に勤しむ当主を助け内助の功を発揮しようと四苦八苦している頃である。


文のアンガーマン家に対比して武のバルツァー家と称されるバルツァー侯爵家は代々近衛騎士として重要な任を勤め、王家の側近として活躍して来た。現当主は既に騎士を引退したが次期当主クロイツは近衛騎士として年若いながらも既に少尉に任ぜられ、王太子とも年が近い事からいずれは側近としての活躍を嘱望される身である。


当然領地経営や夜会や茶会の仕切り、調度品や屋敷の設備更新、護衛騎士や侍女の徴用等―――家令と侍女頭に大半の業務を任せてはいるものの最終判断や方針決定、進行チェックなど……使用人に多くを任せているからこそ目端をきかせなければいけない事柄も多い。近衛騎士を勤めるクロイツは、本来であれば嫁を娶ったのであるから父から任されている地域の領地経営はともかく、母に代わって仕切っている家令と侍女頭との折衝をレオノーラに引き継ぎ、近衛騎士の仕事に精を出すべきなのだ。


なのに何故未だクロイツが屋敷内の雑事を引き受けているのか―――彼の祖父でありバルツァー侯爵家の前当主、狷介なカスパルは常に顰めている眉間に更に皺を寄せた。

晩餐に現れた彼を持て成す為に忙しく指示をしているのは現当主フォルクハルトと次期当主クロイツだ。男二人を余所目にゆったりと座ったままの現侯爵夫人と次期侯爵夫人を、彼は睨みつけた。


背の高い現侯爵夫人ゲオルギーネは元近衛騎士で、隣国に嫁いだ王女の警護を担当していた。クロイツはこの美しい麗人にソックリで秀麗な面差しをしている。剣を握らせれば大抵の騎士に引けを取らず、女性をエスコートさせれば男性の騎士など足元にも及ばない程夢見心地にさせると言われた今となっては伝説の女騎士である。しかし幼い頃から女性としての教育を受けて来なかった為、全く夫人としての役割をこなしていなかった。いやこなそうとする前に彼女に心酔しているフォルクハルトが先回りして全て仕事を取り上げてしまうのだ。


結果侯爵夫人が担当している屋敷の仕事は、彼女の得意分野である護衛騎士の指導と警護計画の指示のみとなる。その他屋敷の外に関しては、領地内の私兵組織の強化、領民の子供達への剣術指南、猟師組合の組合長と言う名目で彼等に混じって狩場へ出入りする―――と言うおよそ侯爵夫人の役割とは思えない活動ばかり。


しかし彼女を非難する人間は祖父のカスパルのみである。


夜会や茶会という本来夫人が仕切る催しも、彼女に甘い侯爵と凝り性の息子が取り仕切り、ゲオルギーネと言えば着飾って出席するだけである。しかし誰もそれを批判しないのは―――参加する女性達のほとんどがゲオルギーネを支持しているからだ。夫人や娘が絶賛するゲオルギーネを表立って批判できる貴族男性は少ない。今まで王女が独占していた男装の麗人を一目見ようと彼女がバルツァー侯爵に嫁いで以来―――バルツァー家の夜会は大盛況なのだ。当主である侯爵はというと女性達に囲まれる夫人を満足気に見守っていると言うのだから目も当てられない。フォルクハルトは武のバルツァー家の生まれで有りながら剣術にあまり才能を発揮できず、その為才能に溢れたゲオルギーネを軍神のように崇め奉っているのだ。


カスパルは息子を諦め、嫡男のクロイツに期待を掛ける事にした。


女性が社会進出する事の危険性と、本分を忘れ男性の領域を侵す先進的な女が如何に害悪かと言う事を繰り返し説いた。

そしてクロイツこそが次期侯爵としてバルツァー侯爵家を正しい道に導くのだと再三厳しく言葉にし、日々文章をしたため伝えたのだ。

都合の良い事に外回りばかりしている母親は息子にベッタリと寄り添わず、世間の父親並みのサッパリとした付き合いしかしていなかった。フォルクハルトと言えば領地経営と屋敷の雑事に忙しく、優しい人柄ながらも子供より夫人へ関心を強く寄せる人間だった。

カスパルは取り残されがちなクロイツをよく手元に呼び寄せ、当主の心得を説き、彼が学院に入学するまで熱心に教育に口を出した。


そうしてクロイツを自分が望む通りの次期侯爵に育てあげたと安心していた。自慢の孫は王立学院に入学した後も自治会長として活躍し、優秀な成績を収めた。夜会デビューも果たし女性関係も如才なくあしらっていると言う裏情報も手に入れ、これで女に振り回される情けない現侯爵のようにはならないだろうと―――油断していた。


実際クロイツはどんなカードでも選び放題の筈だった。クロイツは妹扱いして眼中には入れていないらしいが王家の血を引くアドラー公爵令嬢も彼に執心していたと言うし、年頃の王女がいれば降嫁も可能なくらい名声は高まっていた筈だ。なのに―――クロイツはカスパルが思う処の―――一番悪いカードを選んだのだ。子爵家や……いっそ男爵家の娘だってレオノーラよりは余程マシだろう。下手に身分と学や地位があるだけに、嫡男クロイツを支える存在として思想から矯正しようとしても暖簾に腕押し。流石変わり者の侯爵令嬢と噂されるだけある。会うたびにチクリチクリとカスパルが嫌味を言っても、ニッコリ笑うだけで落ち込む素振りも反省の色も伺えない。


しかしまだ勝機はある、とカスパルは考えている。


レオノーラはゲオルギーネほど周囲の支持を受けていない。ニッコリ笑うと花のように可愛らしいとの評判はあるが―――現侯爵夫人程のカリスマは持ち合わせていない。人付き合いが苦手らしく、嫌われてはいないものの侍女や使用人からそれ程好かれていると言えない。何しろ仕事ばかりして屋敷にほとんどいないのだから。彼女の顔をハッキリと覚えていない使用人がいるくらいだ。


彼女が失態を犯しクロイツと不和になれば―――未だに女性人気の衰えないクロイツにはレオノーラに代わる後釜はいくらでも存在するのだ。それこそ従順で慎ましやかな―――バルツァー家を陰から支える真っ当な侯爵夫人となる器の女性など巨万ごまんといるに違いない。そうカスパルは考えた。彼はまだ諦めていなかったのだ。







カスパルはその日、侯爵家の屋敷に宿泊する事になった。


彼の為に設えた客室には妻が好きだったマグノリアの花が活けてあった。の侯爵夫人とは政略結婚だったが、大人しい忍耐深い女性でよく家を守りカスパルを引立ててくれた。カスパルは騎士の仕事に邁進しほとんど家を顧み無かったが、結果としてバルツァー家の者として恥ずかしくない地位を得る事ができた。


しかし息子はその伝統を壊してしまった。ある意味高名過ぎる女騎士が図らずも武の面でバルツァー家の面目を保っているが……クロイツには是非とも正当な意味でバルツァー家の体面を保って貰いたい。


寝台に着けば決して主張は強くは無いが、爽やかな柑橘系の香りが漂ってきた。マグノリアの香りに包まれて―――カスパルは決意を新たに眠りについたのだった。







翌日朝早く、カスパルは昔からいる使用人経由でレオノーラに手紙を渡した。日時を指定して彼の邸宅まで出向くようにと、ただそれだけをしたためてこの事は決してクロイツに知らせてはならぬと付け足した。


するとその午後、邸宅に返事が届いた。


『指定の日時には仕事がありますのでそちらをご訪問できません。○日後の○の刻に本邸までご足労願えませんでしょうか』


何と日時をあちらから指定して来たばかりか、出向くのを断ってこちらに出て来るように逆に指示して来たではないか。カスパルは貴族令嬢らしからぬ素っ気ない文面の手紙を握りつぶした。


レオノーラの体面を慮った自分が愚かだったと、嗤う。


それならば正々堂々と出向いてやる。本邸でレオノーラの面目が潰れようが―――カスパルにはどうと言う事も無かった。所詮今後他人になる予定なのだから。







レオノーラが待ち人の訪れを家令から告げられエントランスまで出迎えに向かうと、黒髪の妙齢の女性を伴ったカスパルが現れた。彼女は嫋やかな容姿の悲し気な表情を湛えた美しい女性だった。

彼女を見るカスパルの眉間が、いつもと違い何故か和らいでいるのを目にしレオノーラは首を傾げた。


「いらっしゃいませ。申し訳ありません、予定が合わずお呼びたてする事になってしまって」

「おや、お前にも他人を気遣うという芸当が出来るとは……これは驚きだな」


いつもカスパルはこのように挑発的な口をきいてレオノーラを煽ろうと試みている。しかし彼女は反論もせず何かを考えるような素振りをするのだ。

するとそれを聞き咎めたクロイツが「お祖父じい様、そういう言い方は止めてください」と彼女を庇うように間に入って話を区切るのが常であった。


けれども今日は邪魔をするクロイツは仕事で不在の筈だ。カスパルはレオノーラがどんな反応をするか興味深く見守った。

すると彼女はいつも通り少し考える素振りをして―――それからニッコリと笑ったのだ。


「有難うございます」

「―――は?」


思わず聞き返してしまったカスパルを、隣に立つ美女が心配そうに窺った。


「さあ、応接室にお茶を用意しますのでいらしてください。そちらの方の分も―――ご用意しますので……アクスさんもう一客用意していただけますか?」


傍らに控えていた灰色交じりの茶髪を撫でつけた壮年の家令がレオノーラに目礼を返してその場を辞した。

カスパルは傍らの女性に頷いて見せ、彼女を連れてレオノーラの案内に続いたのだった。




応接室にはマグノリアの花が飾られていた。

家令のアクスか侍女頭のビルギットが彼の妻の好みを覚えていて飾ったのだろうか、とカスパルは考えた。


上座を勧められて腰を下ろし、傍らの黒髪の女性を目で促した。女性は合図を受けて隣に腰かける。優雅なその仕草にカスパルは満足そうに頷いてから、レオノーラに向き直った。


「レオノーラ、紹介しよう……マルガという。ハインミュラー伯爵家のご令嬢だ」


女性の素性を明らかにしたカスパルに頷いて、レオノーラはマルガに笑い掛けた。


「レオノーラと申します」

「マルガです。よろしくお願いします」


マルガも悲し気な表情を一瞬和ませて、笑顔を作った。

そこにノックの音が響いて「どうぞ」とレオノーラが応える。アクスがドアを開いて頭を下げ、侍女が菓子とお茶カートで運び入れた。給仕が済んで扉の横に控えるアクスの横に侍女がそっと下がって控えた。

すると頃合いを見計らうようにカスパルが咳払いをして、アクスに顔を向けた。


「アクス、少しの間席を外しなさい」

「は……」


アクスは訝し気にレオノーラに視線を移した。レオノーラが頷くと恐縮した様子で頭を下げて侍女を伴い扉の向こうへ消える。

すると早速カスパルは、無表情で何を考えているから分からない次期侯爵夫人に向き直り、切り出した。


「話と言うのはクロイツの事だ」

「はい」


カスパルはレオノーラの顔色を確かめながらゆっくりと言葉を繋げた。

不穏な空気を物ともしないレオノーラの静かな表情をこれから崩してやれるかと思うと、柄にも無く気持ちが沸き立つのを感じた。


「マルガは、お前と婚姻を結ぶ前までクロイツと交流があってね。浅からぬ縁があったそうだ」


レオノーラはジッとカスパルの言葉に耳を傾けている。

しかし表情に変化は無い。ここまで言えば普通は何か察するものがある筈なのだが、とカスパルは少々拍子抜けした。


(まあ、変わり者で世間とあまり接して来なかったと言うから―――察しが悪いのだろう。全くそんな事では侯爵家の嫁として社交界に出せるレベルでは無いな。分かっていた事だがますます気に喰わない)


この女にはどうもハッキリ言わなければ通じないようだ。

そうカスパルは考えて、居住まいをただし身を乗り出した。


「つまりこう言う事だ。クロイツはマルガと恋仲でね、お前との婚姻が決まって泣く泣く身を引いたそうだ―――しかし最近気づいたそうだ。このマルガはクロイツの子を身籠っておる」


黒髪の美女、マルガは目を伏せて俯いた。

その様子は如何にもここから消えてしまいたい、とでも言うような儚げな様子だった。


此処まで言えば鈍い嫁も理解するだろう、そして侯爵家令嬢であるという矜持を彼女が一滴でも持っているならば―――恥を掻かされて黙ってはいられまい。幸いまだレオノーラは身籠っていないらしい。ここで向こうから離縁を言い出せば御の字、言い出さない場合はマルガを側室として引き取らせ徐々に侯爵夫人としての地位や権力をこちらに移して行けば良い。後々子供が生まれた後正室と側室の立場を取り換えるか―――側室のままでも侯爵家の雑事に関わらない嫁など無視してマルガに奥を取り仕切らせる実権を握らせれば良い。そうすればクロイツも今回の婚姻は間違いだった、馬鹿な事をしたものだと目を覚ますに違いない。いや、目を覚まさせてみせる―――とカスパルはそう画策していたのだった。


「まぁ……」


驚いたように漸く声を発したレオノーラを、カスパルは眉間を顰めて眺めやった。

その表情には……何故か嫌悪感も、矜持を傷つけられた怒りも現れていない。

急に傍らのマルガが泣き出し、両手で顔を覆った。そして嗚咽を堪えながら彼女はレオノーラに訴え掛けた。


「レオノーラ様っ……申し訳ございません……私っあの方を愛しているんです……」


そして顔を上げてハラハラと涙を零した。


「私……どうしても諦められなくて、カスパル様にご相談した時優しく迎えていただいたのが信じられ無くて……嬉しくてっ」


カスパルは情に流された訳では無かった。

ただ彼女からクロイツの事で相談したい事があると文が届いた時、これは利用できるかもしれないと思い面会を受け入れたのだ。会ってみればレオノーラと違い、ずっと真面まともな娘だった。儚げな容姿の黒髪の美女は、変わり者の嫁と違い受け答えも控えめながらしっかりとしている。


聞けばクロイツと恋仲だったが彼の友人との仲を誤解され、別れる事になったと言う。その友人には付き纏われていただけだった。別れた後すぐにクロイツの婚姻の噂を耳にし、そうこうしている内にお腹に彼の子供が宿っている事に気が付いた。愛していた彼の子供を身籠れた事が嬉しかった―――しかし自分は未婚の伯爵令嬢であり出産しても祝福を受ける事は難しい……迷った末カスパルに泣きついたのだと。せめてお腹の子供だけでも父親の元に引き取って貰えないかと……。


カスパルはこれはチャンスだと思った。上手く行けばあのいけ好かない嫁は矜持を傷つけられたと言ってバルツァー家を出て行くに違いない。そうでなくとも側室としてマルガを家に招き自分好みの嫁に教育すれば良い。

力のある貴族が側室や妾を抱える事例は多い。中には当主が単に好色だからという事例もあるが、実際は正室に跡継ぎが出来ない場合の保険だとか、政略結婚が一般的であるためそれまで尽くしてくれた身分の低い恋仲の女性の面倒を見る事も珍しく無い。勿論一夫一妻で仲睦まじい夫婦も沢山いるが、一夫多妻も女性の地位の低いこの国においては、度を越えなければそれほど非難されるものでは無い。


そうしてカスパルはこの変わり者の嫁を自邸に呼び出し、現実を告げようと思い至ったのだ。できればそのまま本人が自主的に実家に帰ってしまえば言う事は無いと考えていた。まだ新婚だと言うのに側室を娶ると言う事は確かに外聞は悪いが―――出て行く嫁の方が非難される事になるだろう。円満に嫁を交代させる事ができて好都合だ。暫く噂にはなるだろうが時が経てばそれも周囲に受け入れられるだろうと考えていた。




ほくそ笑みながら、カスパルは無表情にマルガを見つめるレオノーラを見ていた。

さあ、怒れ、怒れ……と内心笑い出しそうになりながら、意地悪く目を細めていると、レオノーラが漸く口を開いた。


「私……とても驚きました……」

「そうか」


カスパルは表情を引き締め、威厳を保ってレオノーラを睥睨した。

そうでなければ表情筋が崩壊しそうだった。


「まず一言、言わせてください」


レオノーラが躊躇う様子で一旦言葉を切り、目を伏せた。そして両手を握り合わせる。

ハラハラと綺麗な顔を涙で濡らしていた黒髪のマルガも、息を呑んで彼女に注目した。

何を言うのかとワクワクして注目していると、顔を上げたレオノーラはこう言ったのだ。




「ご懐妊―――おめでとうございます!」

「は?」

「え?」




信じられない台詞が聞こえて、レオノーラに対面している二人は目を丸くした。


「クロイツ様も水臭いですわね、一言もそのような事おっしゃって下さいませんでした。でもお話を伺う限り誤解されてお別れされたのですから、クロイツ様はマルガ様のご懐妊も、マルガ様がクロイツ様を慕われているという事もご存知無いようですね。だから仕方無いと言えば仕方ない事ですわよね」


レオノーラはニッコリと笑った。


「早急に手続きが必要ですわね―――側室の方をお迎えする時はお式や届け出は必要なのですか?私、自分の婚姻も全てクロイツ様と兄様にお任せしていたので何が必要なのか、全く存じておりませんの。今回もクロイツ様とマルガ様のご家族でお話しされて進めると宜しいわね」


マルガはレオノーラの言葉に茫然と聞き入っており、言葉が出ないようだった。カスパルは眉をますます顰めて、泣き叫ぶどころか両手合わせてウキウキしている様子の小柄な嫁を凝視した。


「お前は―――怒らないのか?」

「え?」

「クロイツの不貞が明らかになったのだぞ?子供まで―――」

「『不貞』―――ですか?私と婚姻を結ぶ前のお話だから『不貞』では無いですよね」


キョトンと首を傾げるレオノーラに、逆にカスパルの頭は痛んだ。


「お前が懐妊する前に男子が生まれれば、その子がバルツァー家を継ぐ事になるんだぞ?」

「―――何か問題でも?クロイツ様の血統には違い無いのですよね」

「お前に男子が生まれれば、難しい事になる」

「あっ……そうですわね!」


ポンッとレオノーラは両手を合わせた。

そして何故か嬉しそうな顔で頷く。


「―――私の子も男子であれば素晴らしいサンプルになりますね。マルガ様の子と私の子、母親が違うだけで全く環境が同じ二人の男子がどのような違いを持って育つのか―――成長する様子をつぶさに観察できると思うと今からワクワクしますね!」

「はぁ?お前は何を……」

「他にクロイツ様に恋人はいらっしゃらないのですか?二人じゃサンプルとして心許ないので、あと二、三人増やしたいところですね~。流石にそうなるとお金が掛かり過ぎるかもしれませんが、私も結構これでも高給取りなのできっと大丈夫ですよ!」


カスパルは今度こそ両手で頭を抱えた。




(コイツは―――ゲオルギーネを上回る変わり者だ……!)




嫌味を言われても大人しくしているように見えたのは、嫌味が通じていないからだった。

そしていつもレオノーラがおかしな事を言い出す前にクロイツが遮っていた。だから反論できないレオノーラが自分の言葉に、いつも内心では傷ついている筈だと思い違いをしていたのだ。戸惑った顔や誤魔化すような笑顔はその心を隠す為の鎧なのだと、彼女の気持ちを勝手に推し量っていた。


「か……カスパル様、大丈夫ですか?」


すっかり毒気を抜かれたマルガが俯くカスパルに声を掛けた。


「まあ、カスパル様……どうされました?頭痛ですか?」


レオノーラが立ち上がってカスパルの椅子の横に膝を付いた。何気ない仕草だが貴族女性が気軽にして良い行動では無い。カスパルはギョッとして顔を上げた。


「ふむふむ……目が充血しておりますね―――今ちょうど試験中の良い薬があるんです。試しに飲んでみませんか?―――アクスさん、カスパル様が急病です!」


レオノーラが珍しく大きな声を出すと、バン、と扉が開いてアクスが飛び込んできた。


「若奥様、どうされました?」

「カスパル様が頭痛をお召しになったようです。私よおーく効く薬を持っておりますので取って参りますねっ」


そうして立ち上がって、出て行こうとするレオノーラをカスパルは慌てて制した。


「よ、よい!頭痛では無いっ!」


アクスとレオノーラがカスパルを振り返る。


カスパルは―――(殺られる)―――そう思った。

怪し気な薬で亡き者にされては溜まらんと、慌てたのだ。


レオノーラが思いとどまり、こちらを向いたのを確認して、狷介な前侯爵はホウッと息を吐き出した。そして咳払いを一つして居住まいを正し、ソファの背もたれに踏ん反り返り―――威厳を立て直した。


「アクス、お茶が冷めたようだ。変えてくれ」

「は……かしこまりました」


アクスが一歩下がって頭を下げる。そして侍女に素早く指示を出した。


隣を振り返ると真っ青になったマルガが震えている。


無理もない、と彼は思った。


嫉妬されるならまだしも大歓迎され、あまつさえ自分の息子を変わり者の正妻が実験体にすると公言しているのだ。もう彼女の涙はすっかり乾いてしまったようだ。


しかし予定通りとまでは行かなかったものの、正妻の許可は取ったのだ。カスパルは気を取り直し、最初から代案として考慮していた、マルガを側室として屋敷の実権を握らせる計画を実行しようと考え直した。


レオノーラを椅子に下がらせ、お茶が来るのを待って話を進める事にする。

正妻が認めれば、この後障害は無いとカスパルは考えた。今までこの婚姻に関する事以外、祖父の意に染まぬ行動を起こす事が無かったクロイツが、自分の提案に頷くのは当然の事だと思っていたのだ。




しかしそれは甘い考えだった。


ノックの音がして「どうぞ」とレオノーラが応えた後入って来たのは―――クロイツだった。


「あら……?クロイツ様、お仕事はどうされたのですか?」

「抜けて来た。一大事だと聞いてな……お祖父じい様、これは一体どういう事ですか」


クロイツは明らかに怒っていた。

尋常じゃない殺気を纏って、レオノーラの隣に立ったままカスパルを睨みつけている。


「全て聞きましたよ。俺に隠れてレオノーラを呼び出したと思えば―――何ですかこれは」


カスパルは内心ヒヤリとしたが、涼しい顔でクロイツを見返した。


「お前の後始末をしているんだ。円満に解決してやったぞ、感謝しろ」

「何を馬鹿な事を」

「レオノーラは納得したぞ、問題は無い。マルガのお腹の子に障るからそう刺々しい声を出すな」

「マルガ?」


そこでクロイツは初めてカスパルの横に座るマルガに目を向けた。不審そうに目を細め、探る様に彼女を見る瞳には恋情の欠片も浮かんではいない。


「お前はマルガが自分を裏切ったと思っているだろうが、それは勘違いだそうだ。それに彼女はお前の子を授かったそうだ。バルツァー家に迎え側室にするが良い。もう正妻のレオノーラからは許可は貰ったからな」


『成長する様子をつぶさに観察する』と言う気味の悪い台詞に関してはこの際聞かなかった事にしようと決めた。最終的に自分の目的が果たせればそのような事は些細な事だ。


「なっ……その女が俺の子を?馬鹿々々しい。冗談も大概にしてください」

「マルガも最近気づいたそうだ」

「確かに俺は彼女と交流はありました。でもそれは三年以上前の事です、彼女は別の男性と婚約している筈です」

「何だと……?」


カスパルは傍らのソファに腰かけるマルガを振り向いた。

マルガは少し怯えるように顔を蒼くしたが、口をひき結んで首を振った。


「……いいえ、クロイツ様。確かに三年前私とヘンリック様の仲を誤解されて貴方は私から一度去りました。でも私はずっと貴方をお慕いし申し上げておりました。何度も誤解だと訴えました―――そして三カ月前の夜会でお会いした時、私の思いを貴方は優しく受け止めて下さいました。一度切りでも構わないと確かに私は言いましたが、その時このお腹に命を―――授かったのです。この子の為にも……私はカスパル様のご慈悲に縋ろうと思いました」


クロイツの手前カスパルは表情を動かさないよう努めていたが、内心驚いていた。マルガの話は今まで自分が聞いていたのと随分違う―――いや、確かに嘘は言っていない……言っていないが絶妙に彼を誤解させるようにマルガは台詞を選択していたのかもしれない。


彼女がカスパルに泣きついた時には、婚姻直前まで頻繁にクロイツと親しくしていたような口振りだった。まさか既に三年前に別れていて、泣きの一回で子供を授かったとは―――儚げでカスパルの思う通りに動く女だと思っていたが、底知れない物を感じとり一瞬背筋が凍った。自分は嵌められたのかもしれないと思った。


いや、しかし―――異腹ことはらのクロイツの子を比較して観察しようなどとのたまうおかしな嫁よりこれぐらい計算高い方が、後の侯爵夫人としての務めを果たすのに都合が良いかもしれない。そう思い直し、カスパルは眉を顰めつつ口を閉ざした。


マルガは自らのお腹に手を当て、縋るような眼差しでクロイツを見上げる。

清廉な性質たちのクロイツの事だ。一度情けを与えただけだとしても、命が宿ったとしたならマルガを捨て置く事はしないだろう、とカスパルは考えた。


しかしクロイツは冷徹な視線をマルガに投げ掛けた。


「お腹に子がいるとすれば、それはヘンリックの子でしょう?それかデュカーの次男坊か?君が二人を天秤に掛けていた事は知っているよ。夜会で君が俺に泣きつく振りを装って睡眠薬を盛った時には、もう君の所業は聞き及んでいた。行動が怪しいから鎌を掛けたつもりで引っ掛かった振りをしていたが―――俺は薬にはある程度慣れているからあの程度の量ではほとんど効かないんだ。だからあの日君との間に何も無いのは分っている。

暫く泳がせておけば何か尻尾を掴めるかと思っていたが―――まさか俺の家に入り込むのが目的とはね。それともヘンリックもデュカー家の子息にも愛想を尽かされて、破談になったから賭けに出たのか?俺が君に興味が無い事は―――十分に分かっている筈だろう?三年前だってそうだ。俺と君は割り切った仲だった筈だ。君と交友関係にある男性達の一人に過ぎなかった筈だ」


クロイツの冷たい視線に晒され、震えながらマルガは立ち上がった。

そして彼の胸に飛び込んで、取り縋る。


「……でもっ私がクロイツ様を一番にお慕いしているのは、真実なのです!それだけはお疑いにならないでくださいっ……!」




カスパルは深く溜息を吐いた。




まんまと―――マルガに騙されたのだ。

マルガはこんな茶番が上手く行くと思っていたのか?引退した老人をその気にさせ、孫に圧力を掛ければ、この頭の良いクロイツを欺き、手に入れる事が本当に可能だと思ったのか?




何とも愚かで―――浅はかだ。




「お腹に子供がいるのだろう?誰の子か分からない子供にバルツァー家を継がせようと画策したとしたら……それは偽証罪に値するぞ」

「違いますっ!子供なんかいませんっ」


首を振って叫ぶマルガに、カスパルは呆れて尋ねた。


「妊娠は嘘だったと言うのか……?結婚後それでどうするつもりだったんだ?」


マルガは俯いて観念したように応えた。


「それは―――頃合いを見て流産した事にしようと思っていました。どちらにせよ奥様には疎まれるでしょうから―――毒を盛ったり嫌がらせをされるのを想定して―――そのような結果になるのも不自然ではないかと……」

「だから慌てていたのか、レオノーラがお前と子供を歓迎すると聞いて」

「はい……まさか、あのような言葉を掛けられるとは思わず……でも奥様も認めて下さいました。クロイツ様、私をお傍に置いて下さい、精一杯努めますからっどうか……!」


何と言う激情だろう、とカスパルは呻いた。

誰を騙してもクロイツを手に入れようとする執念がそら恐ろしく感じた。


クロイツは、髪を振り乱し縋りつくマルガの手を引き剥がし、怒りのオーラを纏ったまま低い声を発した。


「俺も見くびられたものですね。そのような稚拙な策に掛かって絆されると思われるとは―――」


カチャリと、クロイツが剣に手を掛けた。

騎士服で飛び込んできた彼の腰には未だに剣帯が装備されたままだった。


「不愉快だ。引かないならこの場で切って捨てるか、警備兵に引き渡すぞ」

「おい、クロイツ何も其処まで―――」


不穏な展開にカスパルが慌てて立ち上がり、マルガの前に立った。

そしてそれまで一言も発しないままこの展開を見守っていた筈のクロイツの妻を思い出し、ふとそちらに目を向けた。


何故彼女は何も言わないのか―――?




「おい、クロイツ」

「何ですか」




殺気の籠った孫の視線に晒されてカスパルは一瞬怯んだが、心を静めて言わねばならぬ大事なことを口にした。




「お前の嫁……寝てるぞ」




対峙するクロイツとマルガがカスパルの視線を辿ると―――スースーと健やかな寝息を立て、ソファに寄り掛かっているレオノーラがいた。




クロイツの殺気が緩み、気の抜けた空気がその部屋に漂った。

はぁ~~と、大きく彼が溜息を吐くと、ビクリとマルガが肩を揺らした。




「お祖父じい様……レオノーラは忙しいんですから、今後変な事で彼女を煩わせないで下さい。きっと徹夜で仕事を終らせて予定を空けたんですよ、貴方が話があるって言うから。―――彼女の周りにおかしな事が無いか、俺は常に監視をつけています。今回の事もお祖父じい様が彼女に手紙を届けた時点で把握して、見張らせていました。久し振りに今夜は夜会に連れて行く予定だったのに―――恨みますよ。その女の事はもうお祖父じい様に任せますので、後始末は遺漏なくお願いします」


そう言って、クロイツはレオノーラに近付き額に一つキスを落としてから、小柄な体を抱き上げた。


「う~ん……クロイツ様?」


寝惚けまなこで見上げるレオノーラにクロイツは笑い掛けた。

その蕩けるような甘い表情にカスパルは眉を顰める。


「レオナ……ベッドに運ぶから、今日はもうゆっくり休みなさい」

「ん……アリガトウゴザイマス……」


むにゃむにゃと返事をするレオノーラを愛しそうに見つめるクロイツは、カスパルとマルガを一瞥もせず、そのまま振り返らずに部屋を出て行った。


ドサリ、と床に膝を付いたマルガを見下ろして、カスパルは溜息を吐いた。




「あのような腑抜けに育てた覚えはないわ」




そしてチッと舌打ちをしてから応接室を立ち去った。




床にへたり込んだままのマルガについては、控えていた従者に指示をして後で連れて来させる事にした。

自分を罠に嵌めた女とこれ以上一緒の空間ににいるのは不愉快だったから。


しかしこのような戯れをバルツァー家相手に仕掛け、自分をたばかった代償はしっかりと払って貰おう―――帰りの馬車の中でカスパルは、忙しく今後の対応について頭を巡らせたのだった。



お読みいただき、有難うございました。

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