僕は君が嫌いだ
君に言えなかったことがある。
ずっとずっと、言いたかったこと。
僕は君が嫌いだ。
あの日、君は僕の言葉なんて何一つ聞かずに行ってしまった。
だから僕は、誰よりも君が嫌いだ。
君と初めて交わした言葉を君は覚えているだろうか。
「早弁する人?」
新学期最初の授業前。
隣の席の君は唐突にそう言って、どうして、と聞く僕に君は板チョコをひらひらと振った。
「早弁しない人の前でおやつ食べるのは鬼畜かなって思って」
しりりと大きく剥がされた銀紙にセーラー服が映りこむ。
まっさらな板チョコに白い歯が立てられた。
ぽきりと割られたチョコレートは口の中へ消えてゆく。
口の中で溶けているであろうそれと反し僕の目の前にはいびつに割られた残りが悠然と存在していて、そういえばチョコレートが溶ける瞬間を見たことがないことに思い至る。
「初めから僕の答えは関係なく食べる気だったよね」
そう言う僕に君は口を閉じて笑った。
にんまりとした笑顔は頬の肉に押されて目が細まって、まるで三日月のようだった。
僕は君のことがわからなかった。
いつもチョコレートを食べている。
好きな授業は生物。
嫌いな授業は古文。
昼ごはんは駅前のコンビニで買ったツナマヨのおにぎりと野菜ジュース。
苦手な物は酢昆布。
悲恋ものの小説が好き。
ノンフィクションは苦手。
僕が知っている君のすべて。
両手で足りてしまうだけの、君のこと。
だから知りたかった。
君が授業中に窓の外を見ている理由と、閉じられた瞳が何色を見ているのかを。
「好きなものが一緒な人と、嫌いなものが一緒な人、どっちが仲良くなれるんだろうね」
現代文の授業が終わって君は呟いた。
今日の現代文の題材はどこかの学校の入試過去問に使われたという小説で、思春期の男女がやたら綺麗な言葉を重ねていた。
「嫌いなものが一緒な方だと思う」
思春期の毎日なんて綺麗な言葉で片付くようなものじゃない。
日が暮れて部屋にひとりでこもれば人に言えないことしか存在しないんだから。
そんな人に言えないような部分を持つ自分が、汚くて、嫌いだ。
だから、僕を好きだと言ってくれるような人は、僕が嫌いなものを好きだと言う人間で。
僕はどうしたってその人と仲良くなれそうもない。
「私もそう思う」
配られたプリントをクリアファイルにしまいこむ。
大人の書く文章はいつだって綺麗だ。
世界は綺麗なものしかないみたいに仕立てあげて、やっとこっちに踏み込んできたかと思えば、ちょっぴり泥をつけて見せてくるだけの媚びた態度。
こちらが冷めた目をしているのに気づきもせず媚び続ける大人が、僕は自分と同じくらいに嫌いだ。
でも、そんな大人のおかげで、君のことをまた一つ知れた。
君もきっと、自分のことを嫌いなんだろう。
夏が来て、君はチョコレートを持ってこなくなった。
通学途中に溶けてしまうからと言ってビスケットを口に放る。
チョコレートが溶けるのを見たことがないと僕が言うと、君は不思議そうな顔をした。
夏祭りのチョコバナナは溶かしたチョコレートをバナナにつけた商品であることは知っている。
でも、板チョコレートが溶けるというのが、なぜか想像できなかった。
どんなふうに形を失うのか、どうしてもわからない。
そう言う僕に君はなぜか楽しそうにした。
いつか見せてあげるよと言って、なにを決意したのだろうか。引き締まった、しかしどこか満足そうな表情さえ浮かべて見せた。
あのとき僕が君の表情の理由を聞いていたら何かが変わったのだろうか。
いや、きっと何も変わらない。
でも。
君に一言伝えることくらいは出来たかもしれなかった。
君と最後に交わした言葉を君は覚えているだろうか。
あれは夏休みに入る二日前。
ようやく学校について、靴箱の前で滴る汗を拭っている時だった。
「今日っていうかこれから授業サボるね」
君はそう言って革靴を左手に持って右手で靴箱を開けた。
塗装の剥げかけたスチールの靴箱はガチャンと鳴って、取り出された上靴が君の足におさまる。
空の靴箱のフタを閉め、君は革靴を持ったままたまま校舎に入っていく。
「サボるのに靴がいるの?」
顔だけをこちらに向けた君の頬は夏だっていうのに白くて、凛と伸びた背筋になんだかぞくっとした。
「外を歩くには外靴がいるからね」
これがテストだったら満点を叩きだすだろう、幸せそうな笑みだった。
でもそれは僕の知らない顔だった。
君は授業をサボった。
僕はその日、「これから」という言葉に二つの意味があることを知った。
今から と 今後。
君が教えてくれたことの中で一番、知りたくなかったことだと思う。
いや、違うな。
一番知りたくなかったのは、チョコレートが溶けるときの様子だ。
昼過ぎにサイレンの音が校庭から響いて、先生達がバタバタと走り回って、がやがやと君の名前が飛び交って、でも授業はなくならなくて。
やっと解放されて靴箱を開けた僕を迎えたのは銀紙に包まれた食べかけの板チョコレート。
外気温とほとんど変わらない昇降口はサウナに近く、そんな場所に放置されたチョコレートは形が不完全に失われて広がり、銀紙から逃げ出していた。
少ない銀紙で無理に包んだらしいそれはもう、包まれているとも言えない状況で。
灰色の世界に散らばる汚いものと混ざって、価値のないゴミになってしまっていた。
不自然に奥に押しやられた革靴、ぎりぎり触れないように手前でどろりと汚れていくそれ。
唖然と立ち尽くす僕に後ろから声をかけてきたクラスメートは哀れんだ声と顔でティッシュペーパーを差し出してきた。
「こりゃまたヒドいいやがらせだな。おまえなんか嫌われるようなことしたの?」
首を横に振る僕に別のクラスメートが濡れ雑巾をくれて、ティッシュペーパーであらかた拭き取ったあとを拭きこする。
「靴隠すとかじゃなくてこの暑い中掃除までさせようってんだ、よっぽど嫌われたいんだな、犯人は」
肩を叩いてくるクラスメート。
雑巾やらを用意してくれた優しさよりも僕は、その言葉に気を取られていた。
「これやった犯人、僕に嫌われたいって思ってるってこと?」
「ああ、そうだろ。好かれたくてやるやつがいたら見てみたいよ」
「……ありがとう」
僕のお礼をティッシュと雑巾のお礼と取ったのか「気にしなくていい」と二人は去っていく。
手の中で茶色くなったティッシュと一緒に銀紙がしわになっている。
犯人は最初からわかっていた。
板チョコレートをそのまま丸かじりするような人間を僕は1人しか知らない。
犯人は僕のことが嫌いで、僕に嫌われたい人間。
突然胸が痛くなった。
喉元まで熱くなって、頭の中が白くはじけそうだった。
目が熱くて、鼻の奥がぎゅっと痛くなった。
視界がぼやけて、目を閉じたら頬に熱いものが伝った。
僕は君が嫌いだ。
一つ結びの黒髪、白い首筋、半袖から伸びる細い腕。
消しゴムを貸してもらう時に触れる指先。
控えめに交わす言葉。
私も、と動く薄紅のくちびる。
茶色いチョコレートに立てられる小さな歯。
僕は君が、ほんとうに嫌いだった。
夜になるたび君の姿が僕のまぶたにちらついて、君に言えないようなことを沢山した。
君のせいで僕は前よりずっと汚くなってしまった。
それなのに君は汚い僕を残して消えてしまった。
君は汚くなっていたと誰かが言っていたけれど、そんなの一瞬で、最後は真っ白に綺麗になってしまった。
昇降口で見た君の顔よりもずっとずっと真っ白に。
君に言えなかったことがある。
ずっとずっと、言いたかったこと。
これからどんなに生きたって、一生言えないこと。
僕は君が、他の誰よりも嫌いだ。